5.カワウソ将軍と食後の変


「そうですか。では、わたくしが伝えた通りに作戦コトは進んでいるのですね」

 彼は穏やかにそう頷いた。

 例外なくいつでも彼は穏やかな男だ。彼が感情をあらわにすることは滅多とない。長年仕えている使用人ですら見たことがないという。

 旧王朝系貴族の大物として知られるジェイブ=ラゲイラは、しかし、その穏やかな笑みの裏側で権謀術数を巡らせている男でもある。そのことは広く知られているが、実際の彼は、やはりふくよかな外見の温厚な貴族にしか見えなかった。

 先の王弟ザミルによる国王シャルル=ダ・フールの暗殺未遂事件において、彼が黒幕であることはよく知られた事だ。ザミルは実の兄ラハッド王子を暗殺した経緯から、シャルル=ダ・フールにより罪を問われ幽閉されている。図らずも、シャルル=ダ・フールの恩情により、命だけは助けられたといったところだった。

 国王側は黒幕であるジェイブ=ラゲイラについても追跡を行っていたが、政権簒奪の失敗を悟ったラゲイラはいち早く逃亡しており、今もって身柄を確保することもできていなかった。

「サッピア様が私にわざわざお伝えしたいことがあると、ギライヴァー=エーヴィル殿下を通してご連絡いただいたときは、それはそれは驚いたものです」

 今、彼が身を寄せているのは、先王セジェシスの義弟にあたるギライヴァー=エーヴィル公の元だった。そのことは、おそらく国王側も情報として掴んでいる筈だ。しかし、セジェシスとは血縁はないものの義弟であり、さらに彼はもともと前王朝カリシャ家の王族。妹と称する女をセジェシス王のもとに嫁がせ、その”妹”に王子が存在している。もっとも、その妹の子がセジェシス王の子であるかどうかは、実のところよくわからない。そのころのセジェシス王は、遠征で忙しく彼女と過ごす時間もほとんど取れていなかった。

 ギライヴァー=エーヴィルには当然疑惑の目は向けられたが、結局、内乱もあってその件はうやむやになった。内乱中はギライヴァーは、取立てその件で騒ぎを起こしていないし、内乱後に王子の身分の確認を求めるようには請求してきたが、それもあくまで丁重ではあった。シャルル=ダ・フール側も、サッピア王妃を押さえつけなければいけない時期であったこともあり、彼との対立を嫌った。しかも、セジェシス王本人が失踪してしまった以上、その自称”妹”の妃の証言以外に、子供が王の子であるかどうかの証拠はないのだ。そういうこともあり、子供には王子の身分が与えられている。

 カーネス朝が開かれた時、旧王朝カリシャ家の王族たちはそれなりに身分を保証された、が、カリシャ朝の遺産を継いだのは、実質、カリシャの後継者となったギライヴァー=エーヴィルだった。元より資産を多く持っていたギライヴァーは、さらなる資産を抱え込むことになる。そんな彼が、今までのこの国を巡る陰謀に全く無関係だったかというと、そうではない。あくまで内乱では表立って行動していないだけで、例の暗殺未遂事件にも何かしらのかかわりがあるともいわれていた。もとよりラゲイラとも親しい。そうした事情もあり、ラゲイラ卿は、彼のもとに身を寄せている。

 ラゲイラは、目の前に恭しく膝をついている男を見た。まだ若いが白髪だ。すらりとしているが筋肉質であり、ラゲイラは彼が組織切っての武闘派であることを思い出していた。

 その男は白牛シロウシと名乗っていたが、それは全く本名ではない。彼らの組織は、色と動物の名前を組み合わせて名乗る。いわば、一種の暗号名のようなもの。

「しかし、”極彩獣ごくさいじゅう”の中でも、一番戦闘に適した部隊を率いている貴方が動いているとは、サッピア様も穏やかではありませんねえ」

 ラゲイラは肉の間に挟まって細い目を不穏に笑わせながら、しかしあくまで穏やかに言った。

「この間、神殿で陛下を襲撃した一件では、クロウマ殿が率いていると聞いていますが、今回はサッピア様が本気ということでしょうか?」

「さて、私のような下の者にはわかりかねることでございます」

 シロウシは、取立て表情を変えずに答えた。

「ははは、それもそうでしょうね。わたくしにも、あのお方が何を考えておられるのかは、わかりません」

 ジェイブ=ラゲイラは、うっすらと微笑んで頷いた。

「しかし、よろしいでしょう。引き続き、ご協力いたします。その代り、お互いに邪魔をするのはやめましょう。サッピア様によろしくとお伝えください」

 はい、とシロウシは頷き、恭しく礼をして部屋の外へと出ていった。ラゲイラはしばらく黙ってそれを見送っていた。

「なんだ、もう帰っちまったのか?」

 ふと、隣から声が聞こえた。衝立ついたての向こうに、人の気配がする。

 いや、最初から、彼は従者と共にそこにいたのだ。それをわかっていてラゲイラは、シロウシと面会していた。

 衝立をどけながら、崩れた様子で立っているのは、四十絡みの男だった。長い髪を無造作に伸ばしているが、髭は整えてある。しゃれた服をまとった男前で、それなりに気品もあるが、どこか崩れた印象だった。背後に控えている護衛を務める男が、彼とは対照的にきっちりとした身なりをしているから余計かもしれない。

「もっと色々話してるのききたかったんだがなー、俺はよー」

 そういって、その男、ギライヴァー=エーヴィルはにんまりと笑った。

「あのババアんとこのイヌ、もっといい情報持ち込んでくるのかと思いきや、まだ意外と作戦進んでねえのな」

 ギライヴァー=エーヴィルは、伸びあがってあくび混じりにそういった。

「ギライヴァー殿下」

 ラゲイラは目を伏せて苦笑した。

「いえ、すでに暗殺用の人員が王都に入っているようですよ。こういうことは、彼らが専門ですからね」

「あの色物イロモノ動物王国の奴等だろ。話は聞いてるぜ」

「ええ、彼、シロウシは、特に正面切っての戦闘を得意としていますから、私の与えた情報で、サッピア様もそれなりに本気を出されたのでしょうかね」

「さあ、どうだろうなあ。あのババアの事、他に目論見あるんじゃね?」

 ギライヴァーは面白そうに言った。

「もちろん、私も手放しにあのお方を信じるわけではありませんよ、殿下」

 ラゲイラは言った。

「ただ、今は絶好の機会には他なりません。今、王都には七部将の三人しかいない。しかも、最大の兵力を持つジートリュー将軍と参謀のサダーシュ将軍がいないのです。彼等にはかつて煮え湯を飲まされましたが、彼らが二人そろっている間に王都を崩すのはなかなか至難の業」

「あー、あのカタブツのジートリューのボンボンと、銀色の蝙蝠野郎ねえ。あいつ等は確かに一度に敵に回すと厄介だよなア。で、それを見越して、ラゲイラ殿は、リオルダーナ国境付近でなんか細工して騒乱起こしたってわけ?」

「はは、人聞きが悪いですね、殿下。元々あそこはくすぶっている場所でしたから、私はすこーし油を注いでやっただけのことです」

 ラゲイラは優雅に微笑んだ。

「私がもともとこういう時の為に準備をしていたのは、殿下も良くご存知でしょう」

「もちろん。俺がラゲイラ殿を飼ってるんだからさあ」

 しかし、とギライヴァーは顎鬚を撫でながらにやりとした。

「サッピアのババアからの申し出に手を貸したってことは、あんたの計画とババアの計画がお互い悪く干渉しねえ話だからってことなんだろう」

「もちろんです。そうでなければ、手を組みません。サッピア王妃の目的は、私とは違います。彼女の狙いは、むしろ、エルリーク本人ですよ」

「エルリーク? ああ、七部将がいねえ間、あいつらの上に置かれたって司令官の名前か?」

「そうです。エルリーク総司令。しかし、実際のエルリークを見た者はいないのです。……私も彼女も、それに実体がないことはよくわかっている」

「だけど、ちゃーんと命令書には印鑑があったぜ。印章ハンコは存在するってこったろ?」

「ええ。その通りです。どなたがお持ちかはわかりませんが、持っている人間はいるのでしょうねえ」

 ラゲイラが他人事のように言うのを、ギライヴァーは面白そうに笑った。

「相変わらずだな、ラゲイラの親父。あんた、ソレを持ってそうな男を知ってるんだろ? そいつを、女狐に教えてやったってことじゃねえのかい?」

 ひときわ言葉遣いを崩し、彼は絡むように言った。

「殿下、失礼に当たりますよ」

 後ろで従者のキアンがたしなめるようにいう。

「構いませんよ。殿下との付き合いも短いわけではありませんから。殿下も私のことをよくご存じでしょうしね」

 ラゲイラはキアンにそう断って、にっこりと穏やかに笑う。

「あの印章を持てるのは、七部将の中ではあり得ません。七部将は、それぞれ独立した権力と立場を持っていますから、一人に権力を集中させるようなことは好ましくない。彼らの中の不和の原因になりますからね。そして、それはほかの現役官僚や大臣たちも同じことです。シャルル=ダ・フールに対抗しようという向きのあるものはまだ多いのですから。ですから、彼は関係のない第三者にそれを持っていてもらう必要があるのです。サッピア王妃は、その印章を持つ人間を消そうとしている。彼が実質的にエルリークとなりえるからです。それで彼女は私に協力を仰いできた。彼女も私が行動を起こそうとしていることは知っていますが、あとで何とかなると思っているのでしょう。それほど、シャルル=ダ・フールを彼女は恐れていますから」

「そんじゃ、そのハンコ持ってるやつに心当たりがあるのかい、ラゲイラ殿はさ」

 そうきかれてラゲイラは首を振る。

「私にも確証はありません。……しかし、一人、ちょっと気になる男がいましたもので……。今は市井で浮浪の生活をしているようですが、宰相カッファ=アルシールの戸籍上の養子になっている筈の男で、彼と非常に強いつながりがある。もちろん、それはシャルル=ダ・フールとのつながりを示唆しているものです。彼にもかつて手を焼きました。私自身は彼をあまり相手にしたくないものですから、サッピア王妃がやるというのなら、やらせてあげるのも一興かと思いましてね」

 なにせ、とラゲイラはため息をついた。

「この機会に騒乱を起こすとすれば、彼にかまっている暇はありません。私にとっても悪い話ではないですから」

「へえー、そんな奴をねえ。女狐はそれで、あの色物動物王国に命令したってわけか?」

「さて、それはどうでしょう」

 ラゲイラは意味深に微笑んだ。

「彼等が直接手を出すとあからさまにサッピア王妃が疑われますからね。この間、彼女は失敗したばかりですから、らしくもなく慎重になっています」

「慎重ってなんだよ?」

「極彩獣の彼らも、あちらこちらの組織と繋がりがある。……外注を出したのではないでしょうか」

「外注だあ?」

 ギライヴァーが素っ頓狂な声を上げる。

「ええ。……東方で薬草に詳しい領主のリリエスという男がいましてね。彼がどうやら王都入りしている気配があります」

「リリエス?」

 ギライヴァーが何か気づいたように聞き返す。

「彼はその筋では非合法の仕事も請け負うことで有名な男ですので、きっと彼らを使って始末させるつもりなのではないかと思われるのですが……。さて」

 ラゲイラはため息をついた。

「ここはお手並み拝見といったところでしょうかね」



*



「うむ、まことに美味だな」

 上機嫌なザハークの声が響いていた。特製カレーのいい香りが店内に漂っている。

 給仕されて早速ザハークはそれにありついていた。あまり行儀のよさそうでないザハークだが、意外に食べ方は上品で、そのあたり、この男がかつての王族の直属の末裔と言われてると納得してしまう所以なのだろう。などと、リーフィは思いながら、その様子をほほえましげに観察していた。

「しかし、リーフィさん、何だか不穏っスねえ」

 マディールが、ジャッキールとリーフィの前に皿を置きながら世間話を振ってくる。

「不穏って? あのお触れの事?」

「そうっスよ。七部将の将軍の二人がいないってんで、王都の守りがやばいんじゃねえかってアレ」

 思わず厨房のアイードは、練っていたアーモンドの生地を落としそうになった。アーモンドを潰して薔薇水と砂糖を加えて練り込んで、デザートの菓子を作ろうとしていたらこの始末だ。

(マディール、てめええ! 俺がいるのに、なんつー話振るんだよ!!)

 アイードは視線だけでマディールに訴えかけてみるが、そもそも鈍い彼はそんなことには気づきもしない様子で話を続ける。

「なんでも不安だてえんで、王様の為に将軍達の上に総司令様が置かれたんでしょ。でも、そんな付け焼刃で大丈夫スかねえ」

「ふむ、その話は聞いているが、まあ、その辺は上も計算して対策はしているとは思うのだがな」

 色々と話は聞いているらしいジャッキールが、そういうとリーフィが頷いた。

「そうね。ちょっと不安ではあるけれど、それは上の方たちもわかっていらっしゃるのでしょうし」

(ああ、ここに来てもこの話。癒されないから、もうやめて欲しい)

 アイードは惰性で生地を練り込みながら、はあとため息をつくが、話はどうも終わりそうもない。

「それにしても、司令官様のお名前が変わってるんですよね。あんま、聞かない名前なんスよ」

「そうなのか?」

 そこは聞いていなかったジャッキールが、きょとんとした。ただ、架空の人物を司令官として置いたと聞かされていただけなのだ。

「ええ、そうなのよね。変わった名前だけど……」

 といって、何故かリーフィがちらりとジャッキールを見る。その視線に不穏なものを感じ、ジャッキールは食事の手を止めた。

「リーフィさん、何故俺にそんな視線を……」

「あら、ジャッキールさん知らないの? 総司令様の名前、エルリークっていうのよ」

「は、はあっ?」

 思わず立ち上がりそうになるジャッキールに、今まで食事に集中していて話に入ってこなかったザハークが忍び笑いを漏らす。

「エ、エルリーク?」

 ジャッキールはぽつりとつぶやく。ザハークに呼ばれる通り、ジャッキールは昔はエーリッヒという名前を使っていた。かつての知り合いは今でも彼をその名前で呼ぶが、その名前は明らかに異国の者で、この国の者たちには呼びづらいのだ。それをザファルバーンの人間が呼びやすいように読み習わすと、エルリークになる。

(あの腐れ三白眼!!! 無断で人の名前をおおお!!)

「エルリークかあ」

 静かに怒りの炎を背後に燃え上がらせるジャッキールを無視して、ザハークが取り繕うというよりはからかうように視線を投げつつ言った。

「いやあ、どこかで聞いたような名前だなあ、リーフィ嬢」

「ええ。ジャッキールさんと同じ故郷の方が、他にもいらっしゃるのかしらね」

 リーフィが無邪気にそんな風に小首をかしげたものだった。

 その時、ふと聞き覚えのある声が割り込んできた。

「あ、リーフィちゃあーんっ! こんなところにいた!」

 向こうの道から小走りにやってきたのは、青い服を着た男だ。

「あ、シャーだわ」

 リーフィは席を立って迎える。シャーは、あっという間に彼女の元に走り込んで来た。

「もー、どこいったかわかんなくて、探したんだから! せっかく、久しぶりに戻ってきたっていうのに、誰もいないしー。リーフィちゃんに会いに酒場にも家にもいったのに、いないしさー。もう、どっか行っちゃって二度と会えないのかと思ったー」

「私も、シャーが無事に戻って来てくれて嬉しいわ」

「えへー、そんなこと言われるとか、オレ、超幸せー」

 口を尖らせて恨み言を言いつつも、なんだかんだ機嫌のいいシャーだ。リーフィに心配されていたことが嬉しいらしく、やたらとデレデレとしている。

「あ、またリーフィちゃんのお友達来たのかな?」

「みたいですねえ」

 生地をかまどの中に放り込んで、ようやく一心地ついたらしいアイードが手をふきながらふらりと現れた。なにやらリーフィと親しそうに話しているので、また友達を呼んでくれたのかなと思ってのんびり現れた彼だったが。

「あ、いらっしゃ……、うえっ!?」

 男の顔を一瞥し、アイードは思わず変な声を上げた。あからさまに慌ててガタガタと厨房に舞い戻るが、リーフィとシャーは、まだ彼のことに気づいていないらしく、世間話を続けている。

 とりあえず深呼吸。それから、身をかがめていた厨房からそろっと、もう一度その男の顔を覗き込む。

(な、なんで……!!!)

 現れた男は、あまり身なりのいい男ではなかった。着ている衣服はそれなりに上等なものではあるが、何せ古ぼけている。年はまだ若くて長身で猫背。まあでも、そういうやつはいくらでもいる。

 問題は顔。特に、その男の三白眼。

(なんで、あんたがここにいるんんだよ――!!)

 そこにいるのは、彼が”あれ”と呼んでいた人物だ。

 ”あれ”。つまり、彼にとっては主君に当たる男。いわば、この国の現国王のシャルル=ダ・フールのある意味真の姿である、いわば腐れ三白眼な青年。

(信じられねえ! 世間狭すぎだろ! それと、リーフィちゃん、その男だけはやめて!!)

 彼にとっては最悪の来客だ。彼がこの街のどこかに潜んでいるらしいのは、アイードだって一応知ってはいたけれど、それにしても、わざわざここに来ることはないだろう!

(あー、リーフィちゃんー。リーフィちゃんの男友達、常日頃からどうかなと思ってたけど、最後に本気で超ド級にヤバイのが来た!)

「てんちょー。どうしたんですか?」

 マディールが、隠れているアイードに尋ねてきた。

「どうせ後焼けるの待つだけでしょ? 店長も出てきて珈琲でも」

「い、いや、もう一個追加で菓子作るから! 今から超忙しくなるから、俺!」

 ここで出て行って姿でも見られたら大変だ。アイードは冷や汗をだらだらにかいていた。

 大体、アイード=ファザナーは昔からあの男が苦手なのだ。元からからかわれやすい体質のアイードと、人をからかって遊ぶのが好きな彼が組み合わされば、どうなるかは火を見るより明らかだ。特にこんな何のしがらみもないような場所では、何を言われるかわかったものではない。

 第一、アイードは今仕事をほったらかして、こっそり逃げてきているのだから、これはばれると大変だ。相手も似たように逃げてきたのかもしれないが、自分のことは棚に上げるに決まっている。

「でも、なんかアーモンドの焼き菓子つくってたじゃないですかー。他にも要ります?」

 こんな時はしつこいマディールだ。いいんだよ、こんな時は! と思いながら、

「新しいお客さんの分、作ってないだろ。だから追加を……」

「あら、店長さん。私も手伝いましょうか?」

 マディールともめていると、ある程度客と話を終えたらしいリーフィが厨房にやってきた。

「え? ああ、リ、リーフィちゃんはお客さんがいるじゃないか。は、はは、大丈夫、だよ」

「旦那様、超忙しいなら手伝ってもらった方がいいじゃないですかー」

(また余計なことをっ!)

 マディールを思わず睨み付けるが、彼は睨み付けられたことも気づいていない。

「いいの。店長さんがお菓子作りで忙しいのだから、彼のご飯ぐらいよそって用意してあげようと思って……」

(意外にあの三白眼ボーヤに好意的な反応してる気がする)

 アイードはリーフィの陰に隠れて、シャーからの視線を遮りながらちょっと不安になる。

(ダメだよ、リーフィちゃん! あの男だけは!)

 うっかり口に出しそうになるのを抑えつつ、ともあれ、ここはリーフィに協力してもらうしかないようだ。

「うん、それなら、手伝ってもらおうかな。マディールは、リーフィちゃんに手伝ってもらっている間にどうせ昼飯食うつもりだろ」

「もちろんです。あの方たちが食べてるの見たら腹減りました」

 恥も外聞もなくマディールはそういうと、リーフィにお願いしますといって自分はカレーを盛り付けて適当な席に座ってしまった。

(今日は最悪な日だ……)

 アイードはそれほど低くもない背をかがめながら作業しつつ、嘆いてため息をつく。

 そうこうしている内に、シャーはいつの間にかジャッキールとザハークの向かいに座っていた。

「リーフィちゃんがお昼ご飯準備してくれるって。ははは、抜け出してきてよかったー! 生きててよかったー!」

 完全に舞い上がって、大して二人に挨拶もせずにそんなことを言うシャーだ。

「それにしても、二人も元気そーで良かったよー。いや、どうしてるかなーと思って、一応心配はしてたんだよね」

「そうか。それはいいとして、貴様……」

 調子よく話しているとジャッキールに、がっと肩を掴まれる。顔をあげるとぎらぎら輝くその視線とぶつかった。流石に並ならぬ殺気を感じて、シャーがびくりとする。ジャッキールは、なにやら不気味ににこやかに笑いながら尋ねた。

「で、貴様、俺に何か言うことは?」

「は、ははは」

 シャーはぎこちなく笑いながら、冷や汗をかく。普段は意外に穏やかな彼だが、一旦こうなるとやはり怖い。

「あ、あれ? もしかして、名前のことで怒ってらっしゃるのかなー?」

「当たり前だ!」

 ジャッキールは一応声を抑えながら、しかし、はっきりと怒りをしめして彼を睨み付ける。

「何故、その名前を使った、貴様!」

「い、いや、だって、ホラ、利害関係のない第三者ってことは、外国人の方が都合がいいの。オレの知ってる外国人の中で、一番使いやすい名前だったからー。って、いいでしょ、昔の名前じゃん。今はジャッキールで済ませてるじゃん」

「良いわけがあるか!」

 ジャッキールはあきれ返ったように言ってため息をついた。

「何か巻き込まれたら、すべて貴様のせいだぞ。覚えていろ!」

「そ、そんなこというのー」

 シャーは急に猫撫で声になった。

「オレ、ダンナのこと、おとことして信頼してるから使ったんじゃないの。蛇王さんのこともそりゃあ尊敬してますけどね、蛇王さんは名前そのものが使えないから」

「はは、それもそうだな。俺も使うとしたら、エーリッヒの名前を使うぞ」

 カレーを食べていたザハークは、すでに食べ終えて果物をかじっていたが面白そうにシャーに同調する。

「でしょ、でしょっ?」

 シャーは得意げに言った。

「そこんとこ、オレのダンナに対する信頼の気持ちと受け止めていただきたいもんですよお」

 まったく、とジャッキールはため息をつく。しかし、もう追及しても後の祭りなのであきらめたのか、話題を変えた。

「それはともかくとして、大丈夫なのか?」

「何が?」

 いきなり小声で訊かれて、シャーは小首をかしげる。ジャッキールは、周囲を見やる。リーフィとアイードは厨房でなにやら準備に忙しい。マディールは、自分が食事をするのに集中していて聞いている気配がない。彼は安心して、小声でつづけた。

「王都の守りがどうのこうの、と言っていただろう?」

 ジャッキールに尋ねられて、シャーは腕を組んで唸った。

「そりゃあ、大変は大変さ。良くも悪くも、あの二人の影響は無視できなかったしね。他の将軍を全部王都に集められりゃまだ良かったが、そういうわけにはいかないしさ」

 眉根をよせながら、シャーは唸った。

「ゼハーヴは元から王都にいる人だけど、彼だけじゃ到底守り切れない。だから、残りの二人が重要なんだよ。あ、いやね、ラダーナはよくやってくれてるし、本人も七部将で一番腕が立つの。あんたらともまともに戦えると思うぐらいの人材さ」

 でも、とシャーは眉根をひそめる。

「基本的に少数精鋭だから、あんまり相手の数が多いと厳しくなるんだよな」

「もう一人いるのだろう。ジートリュー将軍の甥御だと聞いたが」

 そういわれて、ぴくんとシャーは反応する。

「あー、それね。それが問題なんだよ。だって、あのヒト、カワウソ兄ちゃんじゃん?」

 シャーはそこだけ大声になっていた。思わず、アイードが顔をあげたのに彼は気づいていない。 

「あれはダメダメ。頼りになんない。あれは。だってカワウソだもん」」

「カワウソ?」

「ほら、いうじゃん。カワウソって獲った魚、岸辺に並べてお祭りするの。あのヒト、軍艦の上で干物作ってたんだけど、それがもうカワウソそっくりでさあ。そんな軍艦の上で魚干す奴使い物になんねーじゃん」

 シャーは、机の上にだらっと身を預ける。

「頭数が一番多いのはソイツのとこなんだけど、もー不安でね。あいつの管轄は水軍だけど、船は川も上れる仕様にしてあるし、王都の守りにも一役買ってるんだけどさあ。カワウソなもんで、そこが一番不安なんだよねー」

「しかし、ジートリュー将軍の甥御ということもあって、優秀な人間なのでは」

「さーねー。叔父さんの陰に隠れちゃう系の、すげー存在感ないにーちゃんだからさー。あ、からかうとダンナぐらいには面白いんだけどー、それだけって感じー」

 シャーが起き上がって伸びをしながら、頭の後ろで手を組む。その様子を見ながらザハークが笑って口を挟んできた。

「はは、しかしカワウソは聖なる獣だぞ。意外にそのカワウソ男にも、お前の知らん才能があるかもしれないじゃないか」

「そうだといーんだけどー。あんま、期待してない……」

 ふとシャーは、視線を路上の方に向けた。ようやくゼダが戻ってきたのだ。

「はーやれやれ、本当野暮用だったぜ」

「意外と遅かったのだな」

 ジャッキールが怪訝そうに眉根を寄せる。

「いや、もっと早く帰ってくるつもりだったけどさ、途中でコイツと会ったからさ……」

 ゼダは肩をすくめた。

「いきなり、どっかのおねいちゃんと剣振り回して戦ってるのみたもんで、ついついそれ見学してたら遅くなったんだ」

「何? そんなことがあったのか?」

 ジャッキールは驚いて尋ねる。シャーはそういわれて、頭をぐしゃぐしゃとやりながら、

「そういえばそうだった。いや、久々にリーフィちゃんに会えた喜びで、忘れてた」

「のんきだな。狙われているということではないのか?」

 ザハークが興味深そうに尋ねてくる。

「それはそうかもしれないけどさ。……いや、でも、あんな若い女の子に襲われるって、なんかそんな悪いことした覚えないんだけど……。あ!」

 と、不意にシャーはしゃべってる途中で、はっとした。

「そ、そうだ! 誰かに似てると思ったら、滅茶滅茶近くにいるじゃないか!」

「は?」

 いきなり指をさされたジャッキールは、不快そうに眉根を寄せる。

「あ、そうだ! こいつは盲点だったわ! 確かにダンナによく似てるわ」

「だろ!」

 ゼダが同意すると、シャーもやや興奮気味に頷く。

「何がだ? いきなり指をさすのは失礼だぞ」

「はいはい、すみませんね。いや、その、さっき襲ってきた女の子が、なかなかの手練れでね。多分旅の傭兵かなんかだとは思うんだけど。でも、その剣技のクセが凄い見覚えがあるのよ。でも、誰かわからなくってさ、誰なんだと思ってたの」

 唐突に、ジャッキールが眉根をぴくりと動かす。

「いやー、思い返せばダンナに本当よく似てるわ。何? 傭兵時代の知り合い? ダンナ、リルにもそうだけど、教えられないとかいいながらあちらこちらで親切で剣技教えてるから、そういう知り合……」

「名前は?」

 シャーの言葉を遮ってジャッキールが尋ねた。思わずシャーがはっとしてしまうほど、その口調は強く、何故か彼は青ざめて真剣な顔になっていた。

「え、いや、何?」

「名前は何と名乗っていた?」

 ジャッキールの迫力に押されて、シャーとゼダは思わず静まり返る。

「え、えっと、なんか、それは覚えにくい名前で……、確か、メ、メイ、シア……、ロザマリとかなんか」

 その瞬間、ジャッキールの前に置かれていた器が倒れた。珈琲がこぼれるのも構わず、鬼の形相をしたジャッキールが立ち上がっていた。

「蛇王! ちょっと来い!」

 いきなり名指しされたザハークは、さほど驚きもしていなかった。黙って彼は立ち上がる。ジャッキールはすでに店を出ようとしていた。

「お前たち、すまんな、すぐに戻る」

 ザハークはそういうと、ジャッキールの後を追いかけて出て行く。

「ど、どうしたんだ? 今の?」

 ゼダがやや動揺した様子でシャーに尋ねる。

「さ、さあ……」

「後を追いかけるか?」

「いや、気になるけど……」

 尋ねられて、シャーは唸った。

「あのダンナの形相、覗いてるのバレたら殺される奴だぜ」

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