11.その感情、鉛の如く-3
室内は、静かだった。
リーフィはたらいにお湯を張って、手ぬぐいを絞っている。その水滴の落ちる音が、耳に痛く響くほどの静けさだった。
リーフィは、いつも無口だ。シャーから話しかければいいだけのことだった。それなのに、シャーは、何故かいつもの調子で彼女に話しかけられなかったのだ。
「痛くない?」
ぼんやりと彼女の所作を見つめていたシャーは、彼女に聞かれてようやく我に返った。ちょうど、リーフィが手ぬぐいを傷口に当てて血をぬぐってくれていた所だった。彼が予想していたとおり、傷は深いものではない。
「ん、あ、ああ、大丈夫」
慌ててそう答えると、リーフィが少しだけ安堵したような顔になった気がした。
いっそのこと、いつもの調子で話しかけようか。本当は、色々楽しい話をしにきたはずなのに――。
シャーがためらっているうちに、リーフィは、傷口に綺麗な布を当てて包帯を巻きおわってしまう。
「シャー、気づいていたんでしょう?」
いきなり、そう話しかけられて、シャーはどきりとした。
「え、な、何が……」
リーフィは、普段とさほど変わらない表情で続ける。
「私が、ベリレル、ベイルを探していたこと」
シャーは即答できずに、少しためらってから頷いた。
「オレが、花街で見かけたのはやっぱりリーフィちゃんだったんだね?」
「ええ。……私も、シャーの姿を見かけていたの」
「ああ……」
シャーは、嘆息とも相槌ともつかない吐息を漏らした。
再び、室内が静かになってしまう。沈黙が、シャーの胸の中の鉛のように重いものを、どんどん膨らませているようだった。
「シャー、あのね」
リーフィは、言葉を選びながら話しかけてきた。
「あの人、ベイルは……、さっきね」
リーフィは、少し微笑んでいった。
「私に別れの言葉を言いに来たの」
「別れの、言葉……?」
意外な言葉に、シャーは顔を上げて、リーフィを見やった。
彼女の瞳の奥はいつでも揺るがない。それは彼女が、嘘をついていないということでもあった。
「この仕事が終わったら、遠くに行くから。お前には迷惑をかけたが、もう会わないだろうって。あの人なりに、一応気にしてくれていたのかしら……」
リーフィは、少し寂しげに笑った。
「けれど、あの人がああいうということは、きっと今の仕事はとても危険な仕事なのでしょうね」
シャーは、無言でリーフィを見たあと、重く切り出す。
「リーフィちゃんは、……あいつを助けてあげたいんだ」
「……そう、ね」
その言葉は、シャーに刃物のように突き刺さる。それを知っているのか、リーフィは、優しく続けた。
「貴方に嘘はつけないわ。貴方なら、私の嘘を見破ってしまうもの。だから、私、シャーには本当のことをいうわね。本当は、頼めるものなら、シャーに、あの人を助けてくれるようお願いしたかったわ。でも、そういうわけにもいかないのもわかっていたから、貴方に黙っていたの……。だって、そうでしょう? 貴方のおかげであの人と別れられたのだもの。今更あの人を助けてなんて身勝手なお願いがすぎるわね」
シャーは、しばらく黙り込んでいた。リーフィは、シャーの返事を待っているのか、静かに彼を見つめている。それに耐えかねたように、ようやく彼は口を開いた。
「……どうしてさ」
シャーは、視線をはずしてきいた。
「どうして、あんな奴を助けるなんていうのさ?」
不機嫌に吐き捨てるシャーに、リーフィは目を細めて言った。
「側にいたあの子のためよ」
「あの、新しい恋人の?」
その言葉は、少し意外でシャーは、目をわずかに見開いた。リーフィは、かすかに頷く。
「シャー、……あの人は、多分今は少しだけ変わろうとしているみたいだわ。それは多分、あの子のためでもあって、あの子の影響もあるのだと思うのよ。昔のあの人なら、私に今更謝りになんてこなかったわ」
「それは、……」
「シャー……」
言いかけるシャーの言葉をゆっくりとさえぎってリーフィは続ける。
「あの人は、殺されても仕方がない酷い男かもしれないわ。でも、あの人が殺されたらかわいそうなのは、あのひとを変えようとして頑張っているあの子よ。私は、あの人の行方を探しているうちに、あの子の境遇を知ったわ。……そして、あの子を助けてあげたいと思った」
「あんな男、そんな簡単に変わったりしないよ」
シャーは、冷たく吐き捨てた。その表情は硬い。
「ダメな奴は、どれだけ経ってもダメさ。そんな簡単には更生しないよ」
「わかっているわ。けれど、もう一度機会を与えてあげて」
リーフィが優しく首を振る。
「リーフィちゃん……」
「あの人の傍にいるのは私ではありえないわ。あの子のおかげであのひとがまともになるならそれは素晴らしいことだと思うの……」
リーフィの視線が痛くて、シャーは目をそらす。胸の中の焦げ付くような感情が、抑えきれなくなりそうで辛かった。胸の奥の鉛がドロドロに溶けて煮えたぎり、じりじり体を焦がしているように苦しかった。
そんな彼の状況を知ってか知らずか、リーフィは話を続ける。
「私が、あの人のために何かするのはこれが最後だわ。シャー、私が彼を今回、探してまで助けようと思ったのは、これで過去を清算できると思っていたからかもしれないの」
シャーは、そろりとリーフィを見上げた。
「過去、って……」
「ええ。過去。……シャー、私は、あなたにはすべて知っておいてもらいたいの。軽蔑されるかもしれないけれど、私が以前どんなことをしていたか。私のこと、穢れた女だと思われるかもしれないけれど、シャーには嘘はつきたくないの」
知りたくないと思ったが、シャーはそのことを口に出来なかった。
「シャーは薄々感づいているんでしょう? 私、以前は花街の妓楼にいたのよ」
リーフィは、ためらいなくそう話した。
「私は恵まれた立場だったから、無理に春を売ったり、過酷なことをさせられたりすることはなかったけれど、自由はなかったわ。年季が明けると同時に、いくつか申し込みがきた相手に身請けされるのが決まりだったのね」
「その相手があいつなのかい」
シャーは、ぼんやりと呟いた。
「ええ。何人か候補がいた中で、くじがひかれたわ。そして、私が嫁ぐことになったのが彼だったの。その頃の彼は羽振りがよかったわ。性格は相変わらずいい加減で遊んでばかりだったけれど、その頃は余裕があったからやさしかった。彼は貴族の息子だったの」
リーフィは、眉根をひそめて目を伏せる。
「けれど、この間の内乱に巻き込まれて、彼の家は借金塗れで急に没落したわ」
「内乱?」
シャーは、そう反芻して、少し興奮した様子できいた。
「まさか、王位継承の時のかい?」
「ええ、今の王様に変わった時に、王室が揉めたときの内乱のね。彼の家は、何か別の王子様を推していて、内乱に積極的にかかわっていたわ。今の王様は心優しいお方だから、粛清は行わなかったけれど、内乱に加担したものに対しては、領地の没収や、身分の降格などで対応したの。シャーも知っていると思うけれど」
「あ、あ、ああ……」
シャーは、呆然としたまま頷いた。
「だから、彼の家は火の車になってしまった。でも、彼は、でも、以前の生活を止めることができなくて、賭けごと三昧だったわ。もともと素行のいい人じゃなかったから、どんどん堕ちていって、いつしか、ゴロツキの真似事をしだすようになったわ。そうして、私との婚約の話は、準備をしていた結婚式の中止とともに破談になったの」
リーフィは、シャーをまっすぐに見て話した。相変わらず、彼女の感情表現は薄く、そこからなにかを読み取るのは至難の業だった。
「けれど、しばらくは彼と一緒にいるつもりだったわ。年季があけて婚約して出て行った直後に、そんな状態になったから、私にはいくところがなかったし……。けれどね、彼は、きらびやかな世界で見た私のことをみていたの。実際に手に入れた私が、人形のようなつまらない女だと知った彼は、私に対する興味がすぐに失せていったわ。やがて、彼は私の元には寄り付かず、来たと思ったら私にお金をせびるようになっていった。……私は、それで彼の元を離れて、酒場で働くようになったんだけれど、彼のお金の無心は続いたわね。お前を手に入れるのにずいぶん金がかかったんだから、今、それを返せ、といわれたの。でも、それは本当のことだもの。私は、彼に自由を買ってもらったようなものだったの。だから、お金を渡していたわ。彼の借金を背負うようになったのもそのせいだったの」
「リーフィちゃん……」
シャーは、苦しげにぽつりと言った。もう限界だった。胸の内が焼け焦げてしまうように苦しくて、もう我慢できない。
「リーフィちゃんは、あいつのこと、好きだった、の?」
苦しげに吐きだした言葉の返事を聞くのが恐かった。このまま、飛び出して外に逃げてしまいたい。けれど、リーフィの静かな視線が、シャーをそこにはりつけていた。
気まずい緊張感の中、リーフィは、表情の上では何の感情も表さなかった。ただ、彼女は少し考えて、ゆっくりと首を振った。
「わからないわ」
リーフィは、そっと続ける。
「彼との婚約の話はね、私の身分では断ることはできないものだったわ。外に出るには誰かにもらわれていかなければならない。選択肢はなかったもの。でも、彼のことを嫌いだったわけではないの。私は、私なりに、彼と幸せな結婚が出来ればと思ったわ。けれど、彼が本当に好きだったのかどうかは、今となってはわからない。……私は、だって、今とても幸せだもの。裕福じゃないけれど、自由に何でも自分で出来る。花街にいたときより、彼といたときよりも、今の私は幸せなのよ。シャー、私は、結果的に彼を利用したのかもしれないわ。私が、閉じられた世界から出る為に」
シャーは、はっと顔を上げた。リーフィが、少し悲しげな表情をしている気がして、シャーは、急に胸が締め付けられるような気がした。
自分は、言ってはいけないことをリーフィに言わせたのではないだろうか。そんな気がした。
「私は、だから彼に罪悪感を持っていたの。だから、彼の言いなりになるのは、仕方がないとおもったわ。これも運命なのだろうって。だから、それに逆らっても仕方がないと思っていたの。どこかであきらめていたのね」
けれどね、とリーフィは言って、優しくシャーの手をとった。どきりとして顔をあげると、リーフィのまっすぐな視線とぶつかった。
「けれど、シャー、私は貴方と出会ってから変われたと思っているのよ」
意味がわからずリーフィを見つめると、彼女は微笑んで続けた。
「今まで、流されて生きればいいと思っていたけれど、貴方と会ってから、そうじゃいけないと思ったの。自分の運命は自分で切り開かなければいけないって、私に教えてくれたのはあなたなのよ」
シャーは、返答できずに彼女を呆然と見つめていた。
「だから、私は誰の力も借りないで、過去と決着をつけるために、あの人を助けようと思ったの。それで、私は、新しい自分に生まれ変われるのではないかと思ったの」
「リーフィちゃん」
「だからね、シャー、私は、本当に貴方に感謝しているの」
リーフィは、珍しくやわらかく微笑んでいる。その瞳には、自分に対する信頼があふれている。
「オレは……」
その顔を見つめていたシャーは、反射的に彼女の手を振り払って引き下がった。
「シャー?」
怯えたように立ち上がって後ずさるシャーに、リーフィは首をかしげる。
「そ、そんなこと、大きな誤解さ。オ、オレは、リーフィちゃんの言うほど立派な男じゃないよ!」
シャーは、震える唇でそう告げる。もう一時もここにいられない。リーフィの視線に晒されたくなかった。
「オレは、もっとずっと屑野郎なんだよ!」
シャーはそういい捨てて扉に手をかけると、身を翻して夜の闇に走り出した。リーフィが慌てて外に出て彼の名を呼んだ気配がしたが、シャーは振り返らなかった。
相変わらず、焼け付くように胸が苦しい。シャーは、それを紛らわせようとひたすら暗い闇の中に駆け込んでいった。
誰もいなくなった部屋の中で、リーフィは一人ため息をついていた。
まだシャーの手当てをしたたらいが、そのまま残っている。立ち上っていた湯気は見えなくなっていた。もう冷めてしまったのだろう。
それを片付けなければならなかったが、なんとなくぼんやりとそのまますごしてしまっていた。ランプのともし火がゆらゆら揺れ、油の燃える音が耳についた。
彼女は一人暮らしをしていたから、一人にはなれていたし、部屋はいつもの部屋だった。それなのに、急になにもなくなって、がらんとしてしまったようで、寂しい感じがした。彼女らしくもなく心細い気持ちになり、夜の寒さすら感じられた。
そうしてどれだけ経ったのか、不意に扉をとんとんと叩く音でリーフィは顔を上げた。
誰だろう。シャーが戻ってきたのだろうか。
リーフィは慌てて扉に駆け寄り、扉を開けた。
そこには思わぬ人物が立っている。彼は、自分が名乗りもしないうちに扉があいて、血相を変えたリーフィが立っているのを見て、少しあっけに取られた様子だった。
リーフィも、少しは驚いていた。彼が自分の家を訪れるのは、想定していなかったのだ。
「ジャッキールさん?」
「すまない。夜分に恐れ入る」
闇の中にたたずむジャッキールは、わずかに表情を緩めた。軽装のジャッキールは、それでもやはり闇夜の似合う危険な空気を漂わせてはいたものの、なんとなく穏やかだった。
リーフィは、礼節にうるさいカタブツのジャッキールが、夜に一人で自分の家を訪れたことが気がかりだった。けれど、見たとおりの軽装であるし、彼の表情からして、何かが起こったわけでもないらしい。もし、何か事件が起こっているのなら、ジャッキールは、もっとかたい表情をしているはずだった。
けれど、だとしたら、一体何だろう。リーフィは、怪訝に思った。
「どうしたの?」
「いや、こんな宵に訪れるのもぶしつけかと思ったのだが、その、諸事情があり、飯を作りすぎてしまったので、……食べていただけないかと」
そういって、ジャッキールは、手に提げていた包みを持ち上げた。リーフィは、少しきょとんとしたが、その意味を理解して微笑んだ。
「それは嬉しいわ。今日、私、まだご飯を作っていなかったから。でも、ジャッキールさんが作ったの?」
「ん、いや、まあ、その、ちょっと、諸事情があってだな」
ジャッキールは照れたのか、少し慌てた様子で視線をはずす。ジャッキールにそういう趣味があるのは意外であったが、リーフィにはそのことがほほえましかった。
「ありがとう、ジャッキールさん」
リーフィは、そう答えてジャッキールに中に入るようにすすめようとしたが、彼のほうが先に口を開いた。
「ところで、だが、ここに先ほどアズラーッド……、いや、シャーが来なかったか?」
リーフィは、はっとする。
その表情で、ジャッキールには何が起こったのかわかったのだろうか。ジャッキールは、視線をさげて苦笑した。
「やはり、来ていたのだな?」
リーフィは、少しうつむいて、意を決したように顔を上げた。
「あのね、ジャッキールさん、私……」
ジャッキールは、片手をあげてリーフィの言葉を制止する。
「いや。それ以上話す必要はない。大体予想がついている」
「けれど、私……、シャーを傷つけてしまったのでないかと思うの」
ジャッキールの声は思いのほか優しかった。
「気にすることはない」
「けれど」
「別にリーフィさんが悪いわけではないのだ。あの男が、ああ見えて少し繊細なだけだ。だが、繊細すぎるのも厄介だな」
ジャッキールは苦笑する。
「明日、奴の方から話をさせるようにしておく。今日は安心して休んで欲しい」
「ジャッキールさん」
「それもあって、今日はこれをもってきたのだ」
ジャッキールは、リーフィに料理の入った包みを手渡した。
「それでは、私はこれでお暇させてもらう」
「あら、もう帰ってしまうの? せっかくお料理をいただいたのだし……」
玄関口で追い返すようなことは悪い、とばかり、リーフィは、彼を引き止めるが、ジャッキールは首を振った。
「いや、気にすることはない。このままいると夜も遅くなってしまうし……、それと」
ジャッキールは、意味ありげに微笑するとこう付け加えた。
「実は、今夜は少し野暮用があるのでな」
そうしてリーフィに会釈すると、ジャッキールは背を向けた。去っていこうとする彼に、リーフィは、そっと声をかける。
「ありがとう、ジャッキールさん」
一瞬、ジャッキールは立ち止まり、手を上げた。そして、彼の姿は闇の中に見えなくなっていった。
リーフィは、玄関口でしばらく見えなくなった彼を見送っていた。
*
酒場の中は少しざわついていた。
都の歓楽街を少し通り過ぎた所、少し質のよくない客の多い酒場だった。
女将は、今日もろくな客のいない酒場を見渡しながら、酒をついで回っていた。毎晩変わらない風景だ。客には少しの入れ替わりはあるものの、ほとんどが常連だった。毎日同じ顔ぶれだ。
が、その日は、珍しく目に付く客がいた。その男は見慣れない客で、きているものはそれなりに上等ではあったが、到底金のありそうな感じでもなかった。まだ若いが、なんとなく他の客と雰囲気が違っていた。
男は一人きりでやってきたのか、連れもおらずにひたすら一人で飲んでいた。 すでにずいぶん深酒をしている風だった。
女将は、少し警戒した。なんとなく不穏な空気を漂わせる男だったので、このまま無銭飲食するのでないかと不安になったのだ。
その時、その男と目が合った。ぎょろっとした大きな目で、あまり目つきがよくない。ひょろりと痩せていて強風で吹き飛ばされそうな体型だったが、今日の彼はそんなひ弱な男には見えなかった。すでに酔っ払っている彼だったが、その身には、危うげな殺気を放っていた。
「代わりをもってきてくれねえか」
男の周りには、すでに何本か瓶が転がっていた。女将は、居丈高な態度を作って男に近づいた。
「それはいいけど、ずいぶん飲んでるね?」
「いいだろう。オレの勝手さ」
男は不機嫌に言い捨てる。
「お金は持ってるのかい?」
「うるせえな。先に渡せば満足かよ?」
男はぶっきらぼうに言うと、懐から財布を取り出して中の硬貨をぶちまける。
「これで出せるだけもってこいっつってんだよ」
男は顔をあげて女将にそういった。 一瞬、ギラリとにらんだ視線が鋭くて、女将は少しぎょっとする。
「わ、わかったよ」
女将は、慌てて硬貨をかき集めると、そそくさと席を離れていった。
男、シャーは、残り少なくなった杯の酒を飲み干してしまって、ため息をついた。
酒には強い彼だったが、今日はそれでもかなり飲んでいる。少し目の前がゆらゆらしていたが、あの時胸を焦げ付かせたねっとりとした炎はまだくすぶっていた。まるで沸騰した金属のような、ねっとりとへばりつくような業火が、いまだに彼を苛んでいた。
理由はわかっているのだ。わかっているから、余計に、苦しみは消えない。むしろ、吐き気がする。
(聞かなければよかった)
シャーは、ぐらぐらする視界の中、一点を睨みつけていた。
向こうで酌女を抱いて馬鹿騒ぎしている客がいた。荒々しい凶暴な感情を抱えて、シャーはこぶしを握り締めた。そうでもしないと、あいつらを目の前の空いた酒瓶で殴り飛ばしてしまいそうだった。
女将にいいつけられたのか、女が彼の前に酒瓶を置いていく。愛想笑いでもしようとしたらしかったが、彼の表情をみておびえているのか、ぎこちなかった。
そんな反応を見せられるのは別に初めてではなかった。かつて、自分もそんな風に、恐がられる存在だったことがある。そのことを、そそくさと去っていく彼女を見ながら、シャーは酒瓶を手にとって思い出していた。
(そうだよ。オレだっていつまで経っても、そうそう変わっちゃいねえんだ)
シャーのイライラは募っていた。ひたすら酒を流し込んでいないと、自分の中の凶暴な獣に歯止めが利かなくなりそうだ。正直、この感情をどうしていいのかわからない。持て余していた。
相変わらず、男達が騒いでいる。その声が妙に癇に障るのだ。
「チッ、うるせえな。騒ぐならよそでやれよ。馬鹿どもが!」
ぼそりとシャーは吐き捨てた。
と、その声を聞きとがめたのか、近くにいた客がシャーを睨む。シャーは気づいてもいなかったが、どうやら騒いでいる客と彼らは同じ集団だったらしい。
「なんだ? 何か言ったか?」
屈強な男達が数名立ち上がって、シャーの周りを囲んだ。今日のシャーのまとう空気には危険なものはあったが、シャーはシャーである。背丈はあるが痩せっぽちで、それほどの貫禄もない。目つきはよくなかったが、基本的にはそんなに強そうな見た目ではない。元から絡まれやすい彼の体質は、ここにきても変わるものではない。
「兄貴が楽しそうに酒飲んでるのに、何か文句でもあるのかよ?」
男に凄まれて、シャーは、口をゆがめて笑った。
「馬鹿騒ぎすんなって言ったのさ」
「何だと! お前、兄貴を知らねえのか! 兄貴は……」
「そんな奴しらねえなあ!」
「てめえ!」
生意気な口を叩いた所で、胸倉をつかまれた。
「あぁ? やる気か?」
いつもの彼なら、余計な争いを避けて逃げる所だが、今日のシャーは、余計な争いがしたくて仕方がなかった。シャーは、男を下から睨みあげる。その目に、一瞬男の手が緩んだ。シャーは、手を振り払って立ち上がる。
「この野郎……」
酒場の客のほとんどが彼らのほうに注目していた。その半数以上は、二つ名があるらしいナントカの兄貴の身内なのだろう。
シャーは、いっそのこと都合よく思っていた。シャーは、そばに立てかけていた剣を腰におさめながらにやりとした。
「オレは、今日は機嫌が悪いんだ。手が滑って殺しちまっても文句言うなよ? 表出な!」
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