13.月光は死の香り

 黒い闇に赤い光が飛んだ。

 地面に叩きつけられた後、すりむいた膝の痛みを感じながらレルが見たのは、そんな赤い色だった。でも、それを赤い色と見たのは、視覚が混乱したからかもしれない。なぜなら、暗い夜に月明かりだけでその色がはっきりと見えるはずもないし、第一、その赤が飛んだのは、闇夜よりも黒い布の上にだったからである。

 一度火花が飛んだあとだったような気がする。いきなり、地面に水滴が落ちる音がして、レルは、起き上がった。

 目の前には男が立っていた。先ほど、入ってきた黒服の男だが、その男の足元で、ぼたぼたと音が鳴っていた。

「……き、貴様ァ……!」

 ジャッキールは、呻くような声で相手に言った。相手は、何も答えない。顔をみせないまま、暗闇にいる。

「お、おじさん!」

 レルは、ようやく状況を把握した。あの時、あの男が自分を突き飛ばしたとき、目の前の黒服の男は剣を振るうところだった。あの時、斬られると思ったのだ。しかし、彼女にやってきたのは別の衝撃だった。いきなり腕をつかまれて、そのまま彼女は前に引っ張り込まれたのだ。そのままレルは転んでしまっていた。

 そうだった。ジャッキールは、あの時、振り下ろせた剣を止めたのである。そして、レルを助けた彼には、大きな隙が出来てしまった。簡単に払えたはずの一撃をそのまま、左肩に受けてしまった。それでも、ジャッキールは、最低の防御に入ってはいたようだった。それは彼がかろうじて致命傷をおわなかったことでわかる。剣をかえして、ぎりぎりで傷をなるべく浅くすることはできたのだろう。

 だが、裾まで引き裂かれた黒いマントは、すでにさらに血で黒く濡れていた。

「あ……」

 レルは、口を押さえた。いくら剣を知らない彼女でも、黒服の男が自分のせいで傷を追った事実ぐらい把握できる。レルに気付いて、ジャッキールはそちらに目を向けた。

「何をしている! 早く逃げろ!」

「お、おじさん……」

「早く行けといっているのがわからんのか! 殺されるぞ!」

 その声にびくりと方を震わせて、彼女は慌てて走りだす。ジャッキールは、彼女が駆け出したのを確認し、男の方に目を向けた。彼は、ジャッキールに追撃をくわえるでもなく、少女を追いかけるでもなく、ジャッキールが目を返した直後、突然走りだした。逃げようとしているのに気付き、ジャッキールは、剣を振るったが、相手のほうが早い。剣が空を切り、男はそのまま、夜の闇に乗じて消えていく。

「待て!」

 ジャッキールは、そのまま足を運びかけたが、目の前の視界が揺らいだ。直後、一瞬遅れて激痛がジャッキールを襲った。眉をひそめつつ、ジャッキールは左肩を押さえて、片ひざをついた。

「ぐ……。くそっ!」

 奥歯をかみしめ、ジャッキールは、顔をあげる。すでに、男は逃げてしまっている。

「くそ、こんなときに……! あんなしくじりを!」

 一気に血の気がひいた顔が、いつにもまして蒼白に月の光にうつっている。剣を握っている右手で左肩を押さえるが、そう簡単には血が止まらない。

 ふいに、ばたばたと複数人が追ってくる足音が聞こえた。ジャッキールは、思わず唇を噛んだ。先ほど置いてきた例の男達が、まだ彼を追いかけていたのである。

「ふん、……しつこい連中だ」

 ジャッキールは、右手を離して、そのままふらりと立ち上がった。足元にできた血だまりに、黒いマントを伝って血がまだ流れ落ちて音を立てていた。

 すでに周りに、男達が散らばっていた。ジャッキールを取り囲む形を完全にとってから、隊長らしき男が進み出てきた。

「……ジャッキールとかいったな?」

「やはり、カディンの手先か? ……おおよそ、そのようなことだと思っていた。……フェブリスが狙いか?」

 ジャッキールは、目を伏せるようにしながら相手をにらんだ。

「あの方は、剣が欲しいだけだ。貴様の命などどうでもいい」

 隊長は、そういってジャッキールを見る。月明かり程度の明るさでも、ジャッキールが負傷していることは一目瞭然である。そして、それが軽くないこともすぐにわかる。

「その傷、下手すると命に関わるほどなのはわかっているだろう?」

 ジャッキールは直接答えず、鼻を鳴らして、口元をゆがめるばかりである。隊長の男は、口調をやや和らげて言った。

「……どうだ、剣を傷つけるのは、かの方のご意思でない。戦えば、剣が傷つくのは目に見えている。どうせ、あの方はお前を殺すことをのぞんでいるのではない。大人しくそれを渡すのなら見逃してやってもいい」

「見逃す?」

 ジャッキールはそれを反芻した。そして、思わずにやりと笑う。

「……ふふふふふ。見逃す? 見逃すだと?」

 ジャッキールは、いつもよりさらに青ざめた顔をひきつらせて、薄く笑った。その笑みが、いつにも増して見るものに悪寒を覚えさせるような鬼気に満ちているのは、けしてジャッキールが意識的にやっていることでもないのだろう。そもそも、血の滴る左手の指先が震えているのは、おびえや武者震いの類ではない。

「今、貴様、俺を見逃すといったのか?」

 ジャッキールは、笑いながら続けた。

「それは、俺に命乞いをしろということなのか? 貴様、それを正気でいっているのだとしたらとんだ笑い種だがな」

「渡す気はないということか? 月に酔って正気でも失って状況がみられなくなったのか? そのまま暴れても死ぬだけだ」

 ジャッキールは、はっと嘲笑した。

「死ぬ運命だというのなら、そのまま死ねばいいだけのことよ。今更、命が惜しくなるほど俺は臆病ではないわ! それに、先ほど貴様、俺に剣を渡せとかぬかしたな。生憎と俺が剣を離すのは、死ぬ時だけでな。フェブリス(これ)が欲しければ、俺を殺して奪い取ってみろ!」

 隊長らしい男は、肩をすくめた。

「やはり、狂犬は所詮狂犬だな。話も通じないとは」

 ジャッキールは、今はまだふらついてはいないが、それも時間の問題だろう。まだ出血も止まっていない彼が、勝てる筈もない。多少の怪我なら精神力でどうにかもっていけるかもしれないが、今の状態を見る限り、そんなたわいもない怪我ではない。

「殺せ。ただし、剣を傷つけないようにな」

 そういうと、彼は、ジャッキールのほうに手をやりながら、そのまま後ろ向きに歩いていった。その声に反応し、彼を取り囲んでいた男達が、ジャッキールのほうに一歩足を進めた。

 ジャッキールは、軽く頭を振る。目の前が多少かすんでいるのか、一瞬よくみえなかったらしい。それでも、ジャッキールは、月の光に反射する剣の数をばくぜんと数えて、相手の様子をうかがった。

「素人だな! 囲んだ程度で俺を殺せるとでも思っているのか? 先ほどの小僧の方がよほどましだ!」

 ジャッキールは、歪んだ笑みを浮かべていたが、息が少々上がってきていた。

「だが、今は生憎と貴様らに合わせて手加減できる体でもないのでな。悪いが、最初から飛ばしていくぞ……」

 一度深く息をつき、ジャッキールは、あがった息を軽く整える。周りの男達が、一斉にこちらに向けた剣を引き、そのまま駆け寄ってくる。ジャッキールは、それを冷たい目で見た。

「滅多に見せるものではない。幸運だと思って冥土の土産によくみておけ……」

 ジャッキールが、右手をふっと上にあげたと見えた時、先頭を切っていた男の影が突然斜めに崩れ落ちた。一瞬で、ジャッキールは倒れた男のところまで駆け寄っていた。そのまま、悲鳴も上げさせないままに、真横にいた男を、苦もなく斬り捨てる。

「何!?」

 部下達のざわめきに、隊長の男が振り返る。

 ざっと音がして、暗闇に部下が反りかえって血しぶきをあげながら倒れた。確認しなかったが、あれは即死だろう。そのまま、逃げ道を探りつつ、ジャッキールは、すれ違いざまに、向かってきた男達を伏せていく。

 それは、普通なら惨劇と見てもいい光景だった。だが、一瞬、彼はその光景に見とれてしまったのだ。それほどまでに、ジャッキールの動きは見事すぎた。すれ違いざまに、相手を切り伏せていく姿は、芸術的に美しい動きではあった。剣を交えるか交えないかのうちに、彼の部下達が倒れ、その返す刀で別の男が倒れる。それは最小限の動きで行われ、そこで彼の部下達が斬られているという事実さえなければ、剣舞にも見えかねないものだった。

 そして、それを、少なくとも戦闘経験のある男達を相手にしている、そして、それを行っている男が浅くない傷を負っているということを認識したとき、彼は驚愕した。

「あれだけ出血していてまだ動けるのか!」

 路地に入りかけたところを飛び掛ってきた男を刀ごと切り伏せ、ジャッキールは、そのまま路地裏に逃げ込んだ。引き裂かれた黒いマントが闇にいっそう黒く影を落としながらゆれる。

 そのまま闇に消えていくジャッキールを周りのものが追いかける。だが、彼は、それに続いて命令をだすことができなかった。ただ、呆然としてたっていただけである。しばらく、その様子をみやりながら、彼はいつのまにか呟いていた。

 ――なんだ、アレは……

 息をのみ、彼は再びぽつりとつぶやいた。

「あれは、本当に人間なのか?」






 建物の影に身を潜めていた彼の耳に、足音が遠ざかるのが聞こえた。肩で息をしながら、ジャッキールは足をすすめようと、一歩踏み出してその場で立ちくらみを起こし、そこに片膝をついた。

「さ、……さすがに、無茶をやったな」

 逃げるためとはいえ、十人あまりの人間を切り伏せながら全力疾走するのは、ジャッキールの今の体には堪えた。血に濡れた左手が小刻みに震えている。先ほどは両手をつかったが、この分だと左肩は当分あげられそうにない。

「く……!」

 痛みに顔をしかめつつ、ジャッキールは立ち上がると、足を引きずるようにして、近くの狭い路地に逃げ込んだ。

 ジャッキールは、肩口をおさえつつ、ふらつく足取りで壁際に身を寄せる。傷は左肩から入って胸の方までおりている。傷は急所までには到達していないから致命傷ではなさそうだった。手当てさえすれば、それで済む程度の怪我ではあるが、こういう追われている状態では十分命取りにはなる傷でもある。場所が悪かったのか、思ったより痛みが激しく、いくら彼でも、平静な顔を装うのには限界があった。そして、戦闘が長かったこともあって少々血を流しすぎた。一時的なものかもしれないが、足元がふらつき、目の前がゆれていた。

 まずいのはそれだけではない。逃げた後に血が点々と残ってしまっているはずだ。調べればそれから自分の足取りがわかってしまう。 朝まではこのままでは隠れられない。一時しのぎをその場その場で続けるしかない。

「……!」

 ジャッキールは、そのまま壁に身を潜めた。明らかに、今、人の気配がしたのである。

「動きがあったのはこっちか!」

「また奴か?」

「ああ、そうらしい」

 ばたばという足音と共に、声がした。一瞬、対応に迷ったジャッキールだが、相手が先ほどの一味ではないことを確認する。

「あの黒い服の男の仕業か?」

「だろうな。おまけに、それが斬りあいやっているという情報が流れているのだが」

(役人だな)

 ジャッキールは、構えていた剣を握る手を少し緩めた。さすがに役人を斬るほど、頭が回らないわけではない。そもそも、自分にかかっている罪状は冤罪なのだ。そんなことで、役人殺しをして、この国を追い出されてもつまらない。追われて殺されるような羽目になると、つまらないではすまない。

 覚悟は出来ているという彼でも、そんな不名誉な死に方だけは嫌だったのだ。一般人を無差別に殺害してまわった挙句に獄死か刑死かする、そんなことが流布すると思うだけで、彼のプライドは著しく傷ついた。どんなに身を落としていようと、自分は武人なのである。逆に言えば、彼はそのプライドに寄りかかって生きてきた。何があっても、それだけは捨てるわけにはいかない。

 役人達は、そのまま通り過ぎていった。それはお互いのためによかっただろう。ここで見つかれば、ジャッキールも相手を斬らねばならなくなるし、役人達も命を失いたくはあるまい。

 だが、今までの情報の流れ方をみるに、自分が傷を負っていることはすぐに伝わるはずである。やがて、血の跡をたどって、自分の居場所を誰かが知る。それは確実なことだ。役人達が斬り合いのことをしっているのは、間違いなく、誰かが情報を一々リークしているからか、役人の側に事情を知るものがいるかのどちらか――

「この期に及んで、役人にまでおわれるとは……」

 ジャッキールは、眉をひそめた。この状況は果てしなく「よくない」。最悪の事態といってもいい。

「俺は……ここで死ぬかもしれんな、本当に」

 ほとんどため息のような、息をつく。急激に体が重くなり、路地のガラクタの山の中に、半ば倒れこむようにジャッキールは、座り込んだ。ちょうど月の光が、くもの巣の張った真上から差し込んでいる。ジャッキールには、月の光が冷たいのか、暖かいのかよくわからない。ただ、彼にとっては、月の光が刃物の輝きによく似ているように思えただけである。それが、古いくもの巣にかかって、きらきらと散らばりながら降って来るのは彼のような無骨な男にも、何かの感慨を与える光景だった。

 ぼんやりとそれを見上げながら、ジャッキールはふと苦い笑みが浮かぶのを禁じえなかった。月の光に、先ほどの失態を思い出したのだ。

 月に酔った。そういわれると間違いない。昔から、自分には、そういう「よくない」癖がある。 だが、それなのに、それでもあの少女を咄嗟にかばってしまった自分に、ジャッキールは苦笑するしかなかったのである。あの時、彼女ごと相手を斬ってしまえば、ことはそれで済んだはずだった。しかし、ジャッキールにはそれが出来なかった。

 昔からそうだ。自分は、少し高潔すぎるのかもしれない。それで何度痛い目を見てきたのか。そう思うと、ジャッキールは、自嘲するしかなかった。しかし、その禁を破ったとき、ジャッキールは、「彼」としての終わりを迎えるのである。すでに、正しい道を外れた生き方をしている以上、そのこともよくわかっている。あとは、あのメフィティスに憑かれた男のように、無差別に人を襲う外道に成り果ててしまうだろう。

「まったく……」

 それにしても、こんな追われ方をするのは、別に初めてではなかった。その上で助かるか死ぬかは、彼自身の運次第だ。いつでもそうだったし、それは彼の生き方の中では、当たり前の事実でもあった。

「本当に俺も焼きが回りすぎだ」

 ジャッキールは、低く笑いながら目を閉じた。砂漠の街の寒さが、それだけでない悪寒とともに体の中に染み入る。

 朝になるころに、自分はどうなっているだろうか。このまま死んでいるかもしれないし、連中か役人にみつかって殺されるかもしれないし、そうなる前に自分で手を下すかもしれない。それは、今のジャッキールにはよくわからない。

 ただ、彼の手にはまだフェブリスが握られている。それを離すまでは、生きているということがわかるだけのことである。ジャッキールにとって、自分の生き死にとはそういう実感を伴っているだけのものなのかもしれない。

 閉じかけた瞳に、剣に反射した光が差し込んだとき、ふと、あの時あそこにいた少女が妙に気がかりになった。

 ――あの娘、果たして、あれから無事に逃げられただろうか。



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