第28話 マリーンの奇策

アグリオスに殺気を向けられてからマリーンは失神寸前の状態で立ち続けていた。

辛うじて意識はあるが指先はおろか瞬きまばたきすらままならない。

もはや目の前の光景は分厚い氷越しのように感じられ、あたかも北の果てで氷の棺に眠るフィーフィリアのように永劫の果てまで変わることがないかと思われた。

だが、アグリオスに殴られてボールが跳ねるように飛ばされるユウキを目にした時、恐怖で凍りついたマリーンの心から一つの想いが熱水の如く吹き上がった。

彼女を捉えていた氷の檻は微塵に砕け散った。


『助けないと!ユウキが・・・ユウキが殺されちゃう。』


だが縛めいましめは断ち切っても自分が非力な子供であることに変わりはない。

アスミ達の様に戦うこともユウキの様に相手を翻弄ほんろうすることもできない彼女には声援を送る事ぐらいしかできそうにない。


『悔しい・・・どうして私は何もできないの。力が欲しい・・・ユウキを助ける力が・・・ユウキを護る力が・・・』

10歳の少女が目の前の激闘に割り込むことなど根本的に無理がある。

だが、同じ歳のユウキが大人以上の動きをしている所を見てしまえば自分の無力を感じずにはいられなかった。


焦りと悔しさが煮え立つように入り乱れ、衝動のままにユウキを庇いに飛び出すのも時間の問題だった。

例え呼吸一つ分の時間さえかせぐことが出来なかったとしても、そしてユウキの運命を僅かでも変える事ができなかったとしても・・・。


自己犠牲の美意識に酔いかけていたマリーンだったが清水が湧き出すように不意に静かで安らかな気持ちが広がってゆく事に気づいた。


『・・・湧き出わきいずる想いの対価に泉の理を・・・』

何処かで声がした気がするがマリーンの意識に浮かぶ事はなかった。


『焦っちゃダメ。階段を登る時にいきなり3段目に飛び上がろうとしても一歩も前に進めなくなる。足元を見て、一段ずつ、着実に・・・』

ユウキしか見えなかった視界に、霧が晴れるように周囲の状況が浮かび上がって行く。

わき腹に血を滲ませながら立ち上がったアスミ、盾を手に対峙するエフィオテス、その奥には入り乱れて斬り合うダンダール達。

誰もが自分の事に手一杯でこの状況を変える事ができる者などどこにもいなかった。


『だけど、どこか一つでも綻びほころびができれば…』


ちょうど遠くに現れた男と目が合った瞬間にマリーンは自分のすべきことを理解した。


「!!お父さん遅いよ。助けて!早く、ユウキを助けて!」

力の限り振り絞った声はこの場の誰もの耳に届き、そして誰も無視することなどできなかった。



少女、マリーン・シュプリントの甲高い声が響くとゴルゾフはギョッとして目を見開いた。

この娘自体には特に注意する必要もないが、父親は探索者として名の知れたジョージ・シュプリントだ。

探索者としての能力、判断力そして戦闘力も極めて高い。

この瞬間、ゴルゾフはすべての欠片が揃ったように感じた。

恐れていた伏兵もジョージ・シュプリントほどの手練れであれば納得できる。

今まで潜んでいた理由は判らないが娘の危機に手出しせずにはいられなくなったのだろう。

だが、ツキはまだこちらにある。

いきなり背後を襲われていれば一溜ひとたまりもなかったが、子供が不用意に声を挙げた事で不意打ちだけは避ける事ができた。

「まだ何とかなる!」自分に言い聞かせる様に呟くとゴルゾフはマリーンの視線を追って後ろを振り向いた。



だが振り返った先にいたのは腰を抜かした若い男。

この男がジョージ・シュプリントなどではある筈がない。

はっと我に返ると同じように振り向いた仲間が二人、剣の腹で殴り倒される所だった。

ゴルゾフを含めたこの三人は乱戦の中で少女の叫んだ意味を理解できる程の冷静さを維持しており、すなわちまだそれだけの余裕を持っていた事に他ならない。

だがそんな者達が一瞬でも気を逸らしたらどうなるか。

そんな隙を見逃すほど聖者の盾は緩くはなかった。


「騙したなー!」

次々に倒されて行く仲間の姿を目にして、ゴルゾフは振り返りざまに少女を睨みつけた。

ずっと見えない敵に神経をすり減らしていたゴルゾフはこの嘘に我を忘れる程感情が爆発してしまった。


だが、彼はそんなことをすべきではなかった。

踏み込んできたダンダールに殴られてゴルゾフは意識を刈り取られた。




ファルクス使いの男が動かなくなるとアスミはエフィオテスの相手をしていた男の背中に斬り掛かる。


「エフィオテス!ユウキくんをお願い!」

「大丈夫か!」

「大丈夫よ。」

即座に答えは帰ってきたがアスミのわき腹は少なからぬ血で染まっていてとても大丈夫そうには見えない。

「子供が諦めていないのに泣き言を言う訳にはいかないわ。」

そこまで言い切られては言い返す言葉はない。

背後に目をやるとダンダール達の戦闘もあらかた帰趨が決しており、じきにこちらに向かって来ると思われた。

たった一声でこの状況を作り上げた少女に薄ら寒いものを感じながらエフィオテスは入れ替わるように走り出した。


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