第15話 水場の老人

その広場は細い路地を抜けた先に突然現れた。

まるで隙間なく並べた積木から真ん中の一つを抜き出したかの様に壁が立ち並んでおり、広場というより四角い穴に落ちた言われた方が納得できたかもしれない。


狭く囲まれた空間であれば日陰になっている時間も多いはずなのに、ここにはジメジメしたところはなく、むしろはっきり分かる程清々しい空気に満たされている。

北側の日向になっている一角に小さな東屋があり、そこに水が湧き出しているのだろう、小さな水路が伸びて広場を横切っていた。

広場の中央には一本の低いヤツカの木が生えており、青々とした葉を日傘の様に開いている。

この木は十分な神素があればエリアルが生成されて周囲の毒虫や害獣を退ける効果がある。

また、エリアルが無い状態でも薬として幾つもの効能が知られている上に縁起の良い木としても広まっているので貴族など裕福な家の庭には必ずと言っていい程植えられている。

もっとも小まめに手入れをしないとすぐに枯れてしまうのでこんな街中に生えている事は珍しかった。


木の横には周囲の住人が造ったのだろうか、古ぼけたイスとテーブルが置いてあった。

普段は近所の主婦が家事の合間に雑談をしたりお茶を飲んだりしているのかもしれないが、今は痩せた老婆が不機嫌そうに座っている。


広場に足を踏み入れたユウキ達を老婆の鋭い視線が捉えた。

ナイフで魚の鱗を剥ぐかの様に、荒々しく二人を観察すると不機嫌そうに顔を歪める。


このお婆さんは追ってくる奴らの仲間だろうか。

今の所、睨んでいるだけで話しかけてきたり何かをする様子はないが、背中を見せても襲い掛かって来ないとは言い切れない。

ユウキは警戒しながら、マリーンは居心地が悪くて逃げる様に東屋に向かって歩き出した。


あまりの居心地の悪さに、マリーンは茨の中を素足で歩いているかの様に感じられた。

その為、ようやく水場に着いた時にはすっかり疲れ果ててしまったので前を行く背中に寄り掛かりそうになった程だ。

とにかく早く血を洗い流してこの場を離れたかった


「汚い手をそこに入れるんじゃないよ!」

泉に手を入れようとした時にかすれ気味の高い声が二人に向けて放たれた。

歓迎されていない事は判っていたが思った以上に攻撃的な言い方をされて、まるで壁にさえぎられたかのように寸前で手が止まる。

「その水場はこの辺のもんが皆で使っているんだよ!血糊なんぞ洗った所の水を飲みたいと思うのかい!」


『どう言う企みだろうか』とユウキは裏の意図を考えていたが、この場では何の違和感もないことに気づいて密かに苦笑いを浮かべる。

老婆に怪しい所は特に見当たらない。

むしろ他人のテリトリーに紛れ込んだ異物は自分たちの方だ。


ユウキとマリーンがしようとした事は確かにマナーに反している。

カウカソスの街は水に恵まれているのであちこちにある公共の井戸や湧水は誰でも自由に利用することができるが放置されている訳ではない。

大抵の場所でライフラインとして、またそこを利用する主婦たちのコミュニケーションの場として大切にされており、近隣の者が修繕や清掃などのメンテナンスを進んで行っているのだ。

当然使う側にも求められるべきルールがあるのだが、普段から利用している者なら(それが自分のコミュニティのものでなくても)あえてルールから外れる様な事はない。

これは幼い頃から、それこそトラウマに近いレベルで摺り込まれて“水の信仰”とさえ言えるほど人々に浸透している事だったし、実際“湧き出る水を体現する女神アレトゥーザ”が存在して、水を汚すものには神罰を与えるのであえて神を試すようなものは皆無だった。

ユウキもマリーンもアレトゥーザの事は知っていたが、二人は言うなれば”かなり良い所の子”なのでこのような公共の水場を使った事がほとんど(大人がいない所では全く)なく、使う際のルールがある事すら思い至らなかった。

また老婆の態度から歓迎されていない事は判っていたので“なるべく係わらない様に”してしまった事もまずかった。

少なくとも会釈程度でも最低限のやりとりをしていればその辺りの事を注意されたかもしれない。


失敗に気づくと二人は立ち上がって老婆の所まで歩いて行った。

「ごめんなさい。私達、急いでいたので気づかなくて・・・。」

マリーンが言うと二人そろって深々と頭をさげた。

老婆は『ふんっ』と言って横を向いてしまう。

「まったく!挨拶も満足にできない、常識も知らないなんてどこの子だい!急いで居たってルールを無視していいなんて事にはなりゃしないよ。こんな当たり前の事に気づかないなんて普段からさぞ我儘放題にしているんだろうさ。」


ポンポンと飛び出す文句を二人は黙って聞いていた。

子供相手とは思えない容赦ない口調にマリーンはひたすら耐えている。

言っている事は一々もっともなだけに『しつけのなっていない』とか『親の程度も知れる』と言われると自分の所為で両親の品位をおとしめてしまった様な気がして余計に心に突き刺さり、終いにはうっすらと涙を浮かべて肩を震わせ始めていた。


一方ユウキは罵倒に近い老婆の話を至って冷静に聞いていた。

追われている身としてはここで愚図々々するわけにはいかないのだが、いい加減な対応をすればこの老婆は執念深く絡んできそうに思えた。

それに追手はユウキが仕掛けたにせの痕跡に惑わされて見当違いの所を探しており、まだしばらくは時間が稼げると思われた。

この辺りのテクニックはゴーザとの追いかけっこで磨いていたのでそう簡単には見破られない自信がある。


この時点で老婆が追手の仲間の可能性はかなり低いと思っている。

罠にかけたのだとすればユウキ達が現れた時点で何らかの合図を出して仲間を集める筈だが、追手の状況を見ればそんな事をした様子はない。

では、この老婆の対応は何なのだろうか。



「なんだい!」

狙い通りの反応をしているマリーンと違い、一向に聞き入れた様子のないユウキを忌々いまいましそうに睨んだ。

「おばあさんは僕たちの格好については何も言わないんですね。」

傍らでマリーンも気づいたのかおずおずと顔を上げる。


「いい服を着てるとでも言っててほしいのかい。お生憎様、うちは古着屋でね。そんな服は見慣れてるから『へへ~』なんてへりくだる事はないんだよ。」

変わらず乱暴な言い方だったがこのおばあさんが叱りつけていた事と言えば礼儀やマナーなど至極当たり前の、それこそ近所の子供に言っている様な事ばかり。

見るからに怪しい血まみれの子どもを前にしているのに、その事には一切触れない事をユウキは疑問に思っていたのだ。


「おばあさんはボク達の事を怪しいとは思わないんですか?」

「あんたたちが誰で、何をして来たかなんて興味はないんだよ。あたしゃ自分で見たもんしか信じないんでね。あたしが見たのは常識のない失礼な子どもが水場に粗相をしようとしていただけで、それ以外は関係ない事だよ。」


言い方は相変らずだったが何となく内面が見えたことで受ける印象は『オーガの様な形相の老婆』から『厳しいけど筋の通ったおばあさん』に変わっていた。

マリーンは縮こまっていた身体を伸ばして老婆の事を真っ直ぐに見た。

不謹慎かもしれないが今までも叱られている事に納得して反省していたが『大変な人に捕まった』という気持ちまで抑える事は出来なかった。

しかし、言葉を真摯に受け止める気になった事で”耐える事”から"積極的に理解しようとする事”に比重が移って行った。



叱っていた相手の雰囲気が変わった事は老婆にも感じられた。

男の子の方に”してやられた”事も自覚があるだけに面白くない。

妙に曲解している気もするが、今言った事はそのまま本心であるし、言葉の意味以上でも以下でもない。

”いいおばあさん”のつもりもないし、そんな者になるのはまっぴらだった。


そんな中で話の矛先を変えたのは流れを戻し、再度心を折るべく仕掛けた新たな攻撃だった。

「大体あんたは何だい!人が話をしているのに目も開けないなんて馬鹿にしているとしか思えないね。」

「気に障ったのなら謝りますが、さっき強い光を見てしまってまだ視力が戻らないんです。形だけ開いておくことは出来ますが、返って気になると思って。」

そう言って開いた左の瞳は何の反応もしないガラス玉の見え、ユウキの存在自体がまるで人形に変わってしまったかの様に異質に思えてしまう。


『やり難い子だね。』

老婆は心の中だけでそんな感想を漏らした。

『子供のくせに妙に落ち着いていてくじける気配がまったくない上に、意外な所に平然と切り返してくる。しかもスルッと懐に入られて微妙に怒るタイミングを掴ませないかと思えば受け答えは丁寧で素直と来ている。ただ、このままやられっぱなしは性に合わないんでね、こうなったら絶対に泣かしてやるから覚悟しな。』

些かおとな気ない老婆の決意はしかし実行される事はなかった。

「さっきは注意してくださってありがとうございました。僕たち、水場のルールを知らなかったので、危うくアレトゥーザ様の罰を受けるところでした。皆さんに迷惑を掛けない様にしますからすいませんがどうしたらいいか教えてください。」



同じセリフを言ったのがもう少し年上だったら、あるいは本音が透けて見える様な生意気な子供だったら嵩にかかって言い返した事だろう。

だが、何の下心も打算も無い頼み事は断り難かった。

また、そうであれば断る理由もない。

老婆は怒鳴ろうしていた口がだらしなく開いたことにさえ気づかなかった。


種明かしをすれば、タルタロスサーキットを開いているユウキには老婆の暴言に対しても何ら気分を害する事はなく、逆に子供をいたぶる事に多少の(愉悦の部分を差し引いてもある)”後ろめたさ”を感じていた分、老婆の方が自己嫌悪に苛まれていた。

またユウキはロジックサーキットを使えば気持ちを切り替える必要すらないので通常の言い合いに慣れた老婆にとっては話の展開が読めない、対応し難い相手だった。


老婆は抜けた毒気が口から出たとでも言う様に『は~』とため息を吐くとそれまでの剣のある態度を若干収めて新たな気持ちで二人の子供の顔を見た。

女の子は頬に血糊を付けているが非常に整った可愛い造形をしており、将来はさぞ噂に上ると思われた。

さっきまでは半泣きだったが今は目に光も戻って嬉しそうに見返している。

方や男の子の方は再び目を閉じた所為もあって感情が読めなかったが、邪心のない素直な気持ちでいる事は理解できた。

二人とも近所の子供には見られない品性が感じられ、やはりどこか“いい所の子”なのだろう。


「どこの水場でも一番上は飲み水用、二番目はきれいな水を汲む為の水溜め、少し離れた所にある三番目は足や汚れ物を洗う所だよ。そこの東屋に桶が置いてあるから二番目から水を汲んであそこの洗い場で洗い流しな。桶もきれいな水用だから直接手を突っ込むんじゃないよ。」

そう言って一つ一つ指差して使い方を教えて行った。

やり込められた仕返しなのか、多少つっけんどんな言い方まで消すつもりはなかった。


説明を受けた後、二人はお礼を言って水場に向かっていった。

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