第十四章 モンスター/スーサイド/ニューアリア③


「フューシャ・スライだ。思い出した。そんな名前の男に攫われてから、君はおかしくなった」

 

 サン・ファルシアまで、一週間を切った。

 最後の休日。

 

 しかし、くつろいで過ごすことは出来なかった。

 今日を逃せば、祭りが終わるまで、ほんの僅かな休息すら与えられることはない。

 にも拘わらず、シュリセが屋敷にやってきて、私の貴重な時間を邪魔していた。

 彼が私の部屋に入ってから、ようやく実のある言葉を発したのは、木の根コーヒーを三杯も飲み干した後だった。


 恋人であるシュリセを前にしながら、私はずっと、愛人のことを考えていた。

 ジャックの身体の味は部位ごとにファイル分けされ、ものぐさな私の頭の中に、整理整頓された唯一の空間を作り上げていた。

 私が朝、起きてから、夜、眠りに落ちるまで営業し続ける専用図書館。

 本能の赴くままに、本日のお勧めコーナーから巡礼を始めると、私は束の間、目の前の恋人のことすら忘れて、夢中になってしまう。


「妙な癖をつけたな」

 

 シュリセの言葉に、私は、慌てて我に返る。唇を小さく舐める癖は、昨晩の夕食時、父にもたしなめられたばかりだった。

 私は必要以上に喉元まで、舌を引っ込めてしまう。

 舌先が、緑色に染まっているのではないかと、馬鹿な恐れを抱いたのである。


「本題に入ってよ」


「関係ないわけじゃない。今日僕がここに来たのは、最近の君の生活態度を、たしなめるためなのだから」


『余計な御世話だ、子ども扱いしないで』。

 喉元まで出かかる。

 しかし、そんなことを気安く言える間柄ではなかったことを思い出し、緑色の舌先で、言葉を喉の奥へと押し戻す。

 

 恋愛小説を読んでいて、どうやら世間一般では、双方の親公認の恋人と言っても将来必ず結婚しなくても良いらしい、と気付いた時の衝撃を思い出す。

 滑稽なものだ。

 非常識を描くはずの小説に、自分とシュリセが常識的な関係でないことを教えられるとは。


「君の御父上と僕は、ずっと寛容だったはずだ。その砕けた言葉遣いも、公の場でわきまえるならと、注意することはなかった。髪に手を加えた時も、服を着崩す時も、エルフの誇りである美しい耳に、七つ穴をあけた時だって」

 

 シュリセが人差し指で、私の右耳の先端を優しく持ちあげる。ピアスは鳴らなかった。


「最高の自由を君に与えてきた」

 

 その言葉の論拠は、長い風雨になまじ耐えてしまったがため、私達の間に共通認識として存在しているとシュリセが勝手に思いこんでしまった、丈夫な張りぼてに過ぎなかった。

 シュリセは自分が我慢した分、私が自由になっているはずだと思っているのだった。

 費用対効果しか頭にない男性的な思いやりに、私は言葉も無い。

 そして今シュリセは、自分の中で仮想的に成立させていたバランスを、同じく自分の中で壊そうとしている。

 私がこんなにも他人事めいた気持ちで話を聞いていることを、シュリセは信じられないだろう。


「だがいくらなんでも、ここ数カ月の態度は目に余る。誘拐されたことが、君に一体どんな影響を及ぼしたのか、僕には見当もつかない。君は、一人でいることが多くなった。毎週末なんて、君は自主練習がしたい気分だなどと言って誰も連れず、行き先すら告げずに一人で出かけるようになってしまった。日が沈む前に帰ってくるなら、まだ良かった。だが、そこまでだ。君はとうとう、先日は夜明けまで帰ってこなかった。人探しの張り紙を出す一歩手前だったんだ。報奨金欄の為に、どれだけ横長の紙が用意されたか聞いたかい? 君の御父上は、君を愛している。君はこれから、女の盛りだ。自分がしっかりしているつもりでも、危険の方から寄ってくるようになる。なのに君が、君自身の手でその身を危険に晒すとなれば、恋人として、君の御父上に一人娘を任された者として、許すわけにはいかない」

 

 シュリセの言葉は、私に何一つ実感を湧かせなかった。

 この街に、私を傷つける度胸のある男がいるなどとは、これまでの生活から到底思えなかったのだ。

 シュリセの語る「ロズ・マロースピアーズの世界」を、どうしても私のものだと感じることができなかった。


 シュラウトで味わった、ジャックとの濃密な時間だけが真実……現実なのではないかとすら、考え始めていた。

 

 今こうして、屋敷で私と会話しているシュリセこそが、夢なのではないか。


 現実の私は今頃、葉を集めたベッドで横になっており、隣で一足早く眠りから覚めたジャックに、頭を撫でられているのではないか。


 恋人が何と言おうが、私は次にシュラウトでジャックに会った瞬間……私にとっては、夢から覚めたその瞬間に、ジャックの身体を求め、再び夜を明かすだろう。

 

 その内、夢の中でシュリセに「週に一日位、私を放っておいて」と、癇癪をおこす日も近いかもしれない。

 

 世界が、そんな風に出来ていればいいのに。


 想像してみると、堪らない快楽を覚えた。


「僕が何も知らないとでも思っているのか」

 

 シュリセが声を落とした。


 私の中で、快楽が止んだ。

 誰にも縛られず愛人を選んだ自分に対する誇りに、冷たく影が差した気がした。


「君を火事から救ったあの暗幕が何処から来たのか、調べてみた」


「ステラボウルズの秘密兵器だったんじゃなかったっけ? …………私にさえ、知らされてなかった」

 

 シュリセはもう、隠すつもりもないらしい。


『像塔の中で気を失っていた私は、気がつくとシュリセに助けられ、記者や群衆に囲まれていた』。

 

 シュリセの虚栄心と市民の願望が作り出したエピソードなんて、いつだってぶち壊してやりたかったにも拘わらず、ジャックの心遣いに免じ、これまで話を合わせてやっていたというのに。


「警察が、先日捕えられた闇行商人から面白い話を聞きだした。例の暗幕の素材である、滑りナメクジの粘糸を、ハーピーの姉妹と取引したそうだ。半分の半分の半分の半分にまで値切られたのと、片羽だったのもあって、強く記憶に残っていたらしい。しかし、あの出来損ないの翼種どもに、二等規制クラスの魔工品なんて作れるわけがない。なら、話は簡単だ。最近、ジンハウス姉妹が、汚らしいオークを脅して、小間使いにしているのは誰でも知ってる。暗幕は、プロの仕事とは程遠い、アマチュアの仕上がりだったそうだ。ならばオークの節くれだった指でも、ぎりぎり不可能な仕事と言うわけでもないだろうな。僕はあの日、ナルガノの畔を歩く奴を見た。奴が持っていたトランクの中身が、暗幕だったとしか考えられない。君は、奴に助けられたのか?」

 

 私は口を噤んだ。

 ジャックがいかに誇り高く私を、暗幕の中で突き放したか、シュリセに語っても無駄だろう。

 オークに助けられたなどと言う一生の汚点を、紙一重で私が世間に対し背負わずに済んだということについてだけ、胸を撫で下ろすに決まっているのだ。


「話はまだまだ繋がっていくぞ。気になったのは、なぜ街の底辺どもが、舞台暗幕なんてものをこさえたのか、ということだが、この答えも、やつらの人間関係の中にあった。あの、下種の異界生まれだ。奴は、オークの手がけた帽子なんかを頭に乗せていた。この時点で、異界生まれ、オーク、ジンハウス姉妹の繋がりまでが明らかになる。そしてやつらは何をしようとしているか? 馬鹿も極まれり! 異界生まれはメグラチカで僕に放った啖呵の通りに、仲間を集め、本気でサン・ファルシアに出場しようとしているんだ! しかも人をやって調べさせてみれば、残りのお仲間は、役立たずの警官、そしてさらには…………そう、フューシャ・スライだ! 攫われた時、君は奴の友達にでもなったっていうのか? なんてことだ、ここ数カ月の間に、僕らの物語の中で敵として現れた登場人物全員は、一本の線で繋がっていたんだ!」

 

 私は戸惑っていた。

 

 てっきり、ジャックと森で密会していることを突き止められたのだとばかり思っていた。

 

 しかし話の流れは、想像していなかった方向に向かい始めていた。

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