第十章 サロンについて③
「そのチャンスとやら、私がお預かりしますわ」
私は、気がつけばジャーノン親子に話しかけていた。
「少々、騒がしくしてもよろしくて?」
サロンの面々に問いかける。
老紳士達は、首を揃えて頷いた。
父と恋人だけが、私を目で諌めてきた。
ジャーノン親子は、目を見開いて私を見詰めている。
状況は実に
私は、爪先を優雅に、床に打ちつけ、鳴らす。
キヅタで出来たサロン全体が、小さく振動を始める。
サロンの天井に割れ目が作られ、夜空を覗かせた。
私とジャーノンの娘の足元が波打ち、徐々に隆起していく。
キヅタが盛り上がり、私達二人だけを、天井から、サロンの屋根へと送り出そうとしている。
娘は、せり上がっていく床の上で、助けを求め下方のジャーノンに手を伸ばしている。
私は素直に、愛らしいと思った。
今の内に、親子愛を満たしておくと良い。
誰の手も届かず、これまで自己を満たしていたものを容赦なく吸い取られる場所に、これから行こうとしているのだから。
視界の下の方では、老紳士達が我先にとサロンのドアを飛び出していく。
変形するサロンに恐れを為したわけではない。
中にいては、観賞することが出来ないからだ。
恋人が私に、ウィンクをくれる。
「僕がいなくて大丈夫かい」と言っているのだ。
父の顔は、見るまでもない。
愛娘の悪戯を許容する際の表情など、見飽きていた。
ジャーノンの娘と共に、サロンの屋根に出た。
それと同時に、天井の穴が塞がり、元通りになる。
すぐ眼下の通りには、この時間にしては多い量の、人波が見えた。
ジャーノンの娘は跪き、手の平で懸命に屋根を叩いているが、キヅタは室内に戻る道を形作りはしない。
私のサロンにおける権限は、主催者である父のものに準じている。
しかし、正当な客ですらないジャーノンの娘の命令に、キヅタが従うはずもないのだった。
私は、右耳に連なる七つのピアスの内、耳の付け根から数えて三番目を、指で弾いて、封じられている音楽を、解放する。
火のはじける音、土のうごめき、星の瞬きの音で構成された曲が夜空に、そして眼下の通りに向けて、響き始める。
曲名は、『星橋の炎蹄』。
勝手に決めてしまったが、娘も、こんな有名な曲すら知らずに、シャンディーノ塔を受験したわけではあるまい。
私は歌い始める。
ジャーノンの娘は腰を抜かしたままだ。
助けを求め、左右に視線を走らせている。
そして、娘はそれを見た。
暗闇から覗く猫の群れと同質でありながらも、決して可愛げのあるものではない。
忙しなく行き交っていたはずの眼下の人波が、いつの間にか、ぴたりと流動を止めていた。
みな一様に、サロンの屋根の私達を見詰めていた。
私は、彼女に手を差し伸べた。
彼女は、手を取ろうとしなかった。
ようやく、私の意図が汲み取られたようだった。
そう、私は彼女を助け起こすためだけに、手を差し伸べているわけではなかった。
「チャンスを預からせてもらう」という言葉の、その意味。
私は今、共に歌いましょうと誘っているのだ。
手を取ったなら、歌わねばならない。
彼女は震えていた。
私が感じているものと言えば、彼女の差しだす畏怖には余りにも釣り合わない、些細な興奮だった。
サロンの屋根における即興ステージは、滞りなく終了した。
ジャーノンの娘は最後まで、私の手をとることもなく、静かに泣き続けるばかりだった。
歌い続ける私を見詰めながらも、彼女自身は一節たりとも、歌おうとはしなかった。
当然の結果だった。
だが同時に、何故彼女がこうなってしまったのか理解できない私がいた。
シャンディーノ塔で学ばせてほしいと、彼女は私の父に頭を下げた。
それに応え私は、考えうる限り最高の待遇で、いわば体験入学をさせてあげたというのに。
いまや、憧れの全てが責め苦となって、彼女を襲っていた。
屋根の下を通りすがる者は、もういない。
なぜなら誰しもが、サロンの屋根を見上げ、そこに認めた私の姿に夢中になって、立ち止まるからだ。
群衆の視線の挙動は統率されていて、まず私、それからジャーノンの娘、そして最後に私に固定されて、微動だにしなくなる。
群衆のそんな視線は、オルヴィスタの歌姫の、パフォーマーとしての部分を、容易く破滅させた。
無理も無かった。
ステラボウルズにおいてさえ、私とデュオをとろうとするのは、私の恋人のみなのである。
少しでも私に劣る下手な歌を重ねれば、聴衆の視線の刃は、今よりもっと残酷な形で、娘の心を破壊しただろう。
ジャーノンの娘はきっと、自分の歌に自信を持っていた。
だから、そんな彼女は、自分がいとも容易くステージの邪魔者にされるなどとは、思いもよらなかっただろう。
実力と、努力と、才能の不足を突き付けられ恥をかいた初心者時代はもう来ないと信じ切っていたのだろう。
積み上げてきたものというは、それが崩れさった後、初心者の頃にはあったはずの、挑戦し成果を上げることに対する欲求すら残さない。
かつて、清々しく第一歩を踏み出させてくれたはずの道の始まりは一転、恐怖症の引き金となる。
彼女はいまや、涙を流しながら、口を開けたり閉じたりするだけの舞台装置だ。
ヒステリーに任せて、私の歌の邪魔をするといったようなことさえ、することはない。
なぜなら、彼女は打ちのめされると同時に、私の歌に誰よりも感動していたからだった。
だから、目で哀れを誘いながらも、「ステージから下ろしてくれ」の一言さえ、歌唱中の私に請願することは無かった。
そして、歌の時間が終わった後。
私はもう一度、跪く彼女に手を差しだした。
彼女は、ナイフを突き付けられ脅されている生娘のように、震えるだけだった。
眼下の群衆に視線を走らせれば、私を嫌味だと非難している者は一人もいない。
ジャーノンの娘の心情は、小説の記述的には理解できても、実感としては、やはり全く伝わってこない。
何もかもが、味のしない食物。
私は最後の微笑みを浮かべて、言った。
「再試験はいつでも。私、ロズ・マロースピアーズまで」
通りの向こうに、フューシャ・スライを見た気がした。
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