第七章 ミクシア祭の夜は凍る⑤
遥か上空、夜空の真っ只中に、少女が、存在していた。
浮いている、というような不安定さは微塵もない。
立っている、と言う表現が、しっくりくる。
しかし、あの場所は芸術院塔群の敷地ではなかったはずだ。
証拠に、彼女の足元、その遥か下方には、何でもない石造りの商店が位置し、屋根から炎を噴き出させている。
よって彼女が立っているのは、硝子の城の内部などではなく、正真正銘の中空としか考えられなかった。
彼女は、群衆が自分に注目していることに気がついたのか、顔を、遥か下方の地表に向ける。
彼女が、小さく手を振ったのがボルピナにも見えた。
割れんばかりの、歓声。
建物の中で騒いでいた者たちが店から次々に飛び出て来て、通りに充満し、群衆となり始める。
ボルピナが辛うじて理解できたのは、天空の少女が群衆にとって、正体不明の何かではない、と言うことだけだった。
群衆は、少女が何者であるかに気付いた端から、具体的な期待に、胸を膨らませているように思える。
ニューアリアの外からの観光客達は、何が起ころうとしているかについては、未だつかめてはいないようで、それはボルピナも同じだった。
しかし、天空に立つ少女が、群衆を熱狂させるだけの価値を持っているのだという事だけは、即座に悟らざるをえなかった。
少女の外見の美しさときたら。まるで、背景に抱える自然の星座から、一等星の立ち位置を乗っ取ってしまったかのようだった。
奇跡のような、人間の輝き。
よく見れば、その顕現は、夜空に一つしかなされていない訳ではなかった。
見えざる硝子の主塔。
その先端があると思しき位置を中心とした円周上の空には、ボルピナの頭上に位置する少女と同族である少年少女達が、同じように配置されていたのだった。
少年達は、腰に二本の儀礼短剣と、長剣を指したサー・スタイル。
少女達は、チェインメイルを銀糸で再現した装飾で、中が見られないように加工されたロングスカート。
ボルピナの右足の裏が、ため息を漏らした。
遠目でも、分かる。
ボルピナは、その種族を目にするのが初めてであったが、それでも見紛うはずがなかった。
天に立つ、彼ら彼女らの種族の名は。
「エルフ……」
ボルピナは、首の唇で呟いた。
種族が入り乱れ、美的価値観の錯綜するニューアリアにおいて唯一、全種族に対して誇ることができる、美の鮮烈なる基準。
「ステラボウルズだ!」
群衆が、口ぐちにその名を叫ぶ。
… … …
ニューアリアの誇る、十の塔群が一つ、シャンディーノ・ステラボウルズ芸術院。
シャンディーノは、群れの王の名。
ステラボウルズは、塔群の首席学生達を中心とする、表現者チームの名称であった。
シャンディーノが、己の名と並ぶ事を許した十八人のエルフ学生からなる集団。
いわば、今は現役を引退し後進の教育に専念しているシャンディーノの名誉を継ぐ、ショウ・パフォーマー達である。
それは即ち彼らが、通常の学徒とは一線を画した、ニューアリア、ひいてはエルヴェリン随一の芸術員であることを意味していた。
ステラボウルズの存在を知らない者は、損である。
それは、もぐり扱いされるからという意味では無い。
ステラボウルズのステージを見た後、あらゆる人間は、心を破裂させるほどの感動を知らずに一生を終えたかも知れないことに、恐れすら抱く程と、言われている。
… … …
天空の少年少女達から、歌声が舞い降りてくる。
『凛冽たる白肢
佳人の末枯れの果て』
透明な空気に、地層を刻んでいくかの如き、荘厳な合唱であった。
響く、という表現は、恐らくふさわしくなかった。
歌が風を帯びるなどと言う話は聞いたことが無かったが、周囲の建物から立ち上る陽炎は揺らぎ、ボルピナ、周辺の通りから集まってくる観客達も、これほどの密集にも関わらず、一瞬の清涼を共有していた。
『被覆の化身なり
猟士 焦土の腕に 堅忍を学べど
幽棲の羅熱にして 灰燼に帰すが如く』
混声合唱は、独唱のインパクトの群体でもあった。
一つ一つの個性ある歌声による、多重奏。
耳を澄ませば、音の厚みの中に、それぞれの歌声の特性、その輝きを感じ取ることが出来る。
艶麗な女人の影や、流麗な男性の人格が、明滅し、誘う。
だが、そのうちのどれか一つとて、くっきりとした形を掴ませることはない。
歌声は束ねられた美しさとなり、最大限の効果を発揮し、人の心を揺らす。
『骨芯の敬神 蚕食を逃れず
壟断者の兵站 偉観を誇れり』
ボルピナは、自分の身体が浮かび上がるような気がした。
祭という非日常から更に乖離した美しい異次元に、このまま連れされられるのではないか、という気分になった。
そしてそれは、他の観衆たちも同じだったはずだ。
ステラボウルズ。
エーテルは耳朶を流れ、聞く物の頭の内側に満ち、感動だけを実態とする不可視の天体を形成する。
言葉で説明出来ないのに、その確かな姿を誰にも掴ませないのに、そこにはっきりと存在し、人々を啓蒙し続ける美の極点。
理屈で定義しようとすれば、矛盾にすら辿り着きかねない、錦上に添えられし星の花園。
合唱は、第一の山場に迫りつつあった。
夜空の中に立つエルフ達。
その陣から一人離れ、硝子の主塔の方角……ステラボウルズ達の作る円の内側に向け、空を踏みしめ、駆けて行く。
地に蔓延る観客の目が彼へ、一心に向けられた。
『酷薄にして 雑色なる季節を厭う
暗色の輔弼 剣にて交わり』
駆け行く少年は、この、夜空を舞台にした催しにおいて初めて登場した、名のある「登場人物」であった。
歌は、これまでの合唱から、形態を変容させていた。
詩をその口で奏でるのは、円の中心へ駆けるその少年のみで、他の団員達は、コーラスでの補佐へと移っていた。
あれほど燦然としていた星々が、一つの輝きを引き立たせるためだけに、背景に従事する様は、ボルピナには余りに無謀で、もったいない演出に思えた。
だが、それは杞憂だった。
ボルピナは勘違いしていた。
ステラボウルズ、全ての星が一等星であったわけではなかったのだ。
勿論、それより下の等級の物が、混じっていたというわけではない。
一等星すら超える存在が、自身の輝きを、他のメンバーの輝きに併せ、絞っていたのだ。
チームとして、最大の力を発揮するために。
そして今、個人としての最高の輝きが、夜空に解き放たれようとしている。
駆ける少年は、サーコートを脱ぎ捨て、その下の、他のメンバーとは違う、白地に金刺繍を入れた衣装を露にする。
群衆が、熱狂する。
下方の大地、石畳の上はいまや、沸騰する鍋の表面だった。
風に煽られ落ちてくるコートに、まず翼種の女達が飛びつき、翼種の女達を、蜘蛛糸や水打ちが引き剥がし、乱戦が巻き起こる。
「シュリセよ! シュリセ・シールズ!」
女達が、エルフの少年の名を呼び乱れ狂う。
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