七 おろち

 

 長屋にもどったのは、日が暮れてから。

 四つの鐘が鳴ったあとなのだが、果たしてそれが夜の八時なのか九時なのか全く分からない。そもそも日没を六つとしているため、夏至のころと冬至のころでは、暮れ六つの時間が絶対的に狂っているはずなのだが、それに対する修正は何ひとつない。時計がないから仕方ないが、とにかく江戸の方々は時間にルーズだ。分単位で正確に電車が走っていた平成時代が懐かしい。

 木戸が閉まっていたので、木戸番に頼んで開けてもらい、おろちのいる長屋へ着くとなにやらいい匂いがしていた。

 いつも使っている底の浅い鍋で、豆を煮てくれていたらしい。新しい酒徳利もあるから、酒も多めに用意してくれていたようだ。

「すまん、軍鶏とすこし呑んできた」

「ええ」

 とくに文句を言われるわけでもない。おろちは大人しい女だ。見た目は三十路の手前くらい。これで案外子供っぽいところもある。雷が鳴って怖がったり、虹がかかって大騒ぎしたり。

 夕餉はいつも二階に運ぶことにしている。おれは古い一升徳利をぶら下げ、上にあがる。

 二階の窓は開け放たれ、すだれが掛かっている。床の間の香炉から香り高い煙が立ち上っている。外は冴え冴えとした月夜。鍋の中身が煮えるころには、江戸の街は寝静まっていることだろう。

 おれは手燭の火を行燈に移した。

 古い方の一升徳利には、まだかなり酒が入っている。今晩はこれで足りるだろうと、猪口になみなみと注いで、ふちから冷や酒をすすった。

 やがて、おろちが鍋を持って上がってくる。おれは箱膳を用意し、中から茶碗やら箸やらを取り出し、二人分の膳を並べ始める。これは早く食べたいからやるのだが、大抵おろちに注意される。

 いわく、「殿方がそのようなこと、致すものではありませぬ」と。

 だが、彼女は手伝ってもらって結構嬉しそうでもあるのだ。

「こういうことをしてくださる殿方は、なかなかおりませぬ故」

 とのことらしい。

 そして、食事のときに喋るのは、お行儀が悪いらしい。なので、黙って二人、横に並んで黙々と食べる。食事が終わると、かたづけは彼女がしてくれるので、おれは黙って酒をあおる。おろちは酒は飲まない。「お酒はきらい」だそうだ。

 行燈の風に揺れる火のなかで、おれが静かに酒をのみ、おろちは静かに針仕事をしている。布を糸がくぐる、しゅるしゅるいう音だけが響いている。

 ふいに、彼女がたずねた。

「虎之介は、いつから記憶がないの?」

「記憶がないからな」おれは笑った。「いつから記憶がないかもよく分からんのだが、気づいたときは東海屋の別邸で、ある朝目覚めたんだ」

 とそこまで喋ってから、ハッとなった。

 そういえば、その前の夢の記憶。あれは狗儡に追われて逃げていたのではないか? そこを頭部を撃たれて、川に落ちた。あれはどういう状況なのだろう? おれが果たして、本当に裏切り者であったとして、では誰の味方だったのだ? その目的は?

 僧・善秀の命を救うのが目的か? たしかにローマ字の暗号で善秀の名前は伝えられていた。誰から? 何の目的で?

 そう。謎はまだ何も解けていない。おれが佐々木虎之介? とすると、じゃあ、芹沢軍鶏や八俣おろちが本名か? 柳生丒兵衛は偽名であると本人が認めている。猿飛猴助に北沢馬琴、そして勝鹿北辰。……どうでもいいが、あの爺さんも雷威漢ライカンなのか? とすると、随分昔から雷威漢ライカンというものがこの江戸には存在することになるぞ。

「おろち、ちょっと聞くんだけど、おれたち雷威漢ライカンって、どこから来たんだ? つまり、普通に母親のはらから生まれた物なのか?」

 おろちは、否いなと首を横に振った。

狗儡くぐつは、人と犬の死体から作る。でも、雷威漢ライカンはちがう。作るところは見たことないけど、丒兵衛様は生きた人間から作るようなことを言っていた。ただし、たまに過去の記憶をすべて失ってしまうことがあると」

「作った?」おれは眉をしかめた。「おれたちは作られたのか? 元は普通の人間だったのか? おまえはその時の記憶があるのか?」

 おろちは泣きそうな顔で首を激しく横に振ると、手にしていた布と針を放り出し、おれに飛びついてきた。

「分かんないよ! あたしにも分かんない! あたしにある昔の記憶の最後は、燃える火の中で焼け死ぬところなんだ。あたしは焼け死んだ人間なんだ! 母親のお腹の中から生まれてきたのならいい。でも! もし自分が、狗儡のように、死体から作られた化物だったら……。そんなことを考えると、怖くて仕方ないの。本当にあたしは人間なの? こんな人間いないよね。もしかしたら、あたしは死体から作られた人形かもしれない。この身体には、赤い血が流れていないかも知れないんだ。だって、あたしがこの身体で目覚めるちょっと前の記憶は、十二歳の時に空襲で燃えた屋敷の中で炎に包まれて死んでしまう記憶なんだから!」

 わんわんと泣きじゃくるおろちの背中を優しく撫でながら、おれは心の中で叫んでいた。

 なんだって? いまなんて言った、おろち? おまえ、いま、『空襲』っていったか? 

 日本が空襲を受けたのなんて、昭和のときの一時期しかないぞ。おまえは、昭和の時代から来たのか? おまえ、いったい、何者なんだ? これは一体、どういうことなんだ?



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