七 おろちは、笑った



 和服はこういうときは、便利だ。

 雷威漢ライカンへと獣化して、巨大化しても、全体としてだぶっとした和服は破けない。ちょいと帯の苦しさを我慢すれば、人間の姿にもどって、前身ごろの合わせを直せば、そのまま着れる。これがぴっちりした洋服だと、こうはいかない。おそらく獣化した段階で、かなりの部分が破れてしまうだろう。

 とりあえず、着崩れを直して、襷を外し、端折っていた裾を戻したおれは、トラ柄着物の着流し姿に復帰した。後ろに回ってしまっていた大小の位置も、元にもどす。


 おれは縛られて転がされている嘉助たちへ近づいた。が、数歩歩み寄ったところで、嘉助が「ひいっ」と悲鳴を上げて、縛られたまま地面を這いずり、ジタバタと後ずさる。

「おい、嘉助。おれだ」苦笑しながら、近寄って手を伸ばす。嘉助は、その手がまるで毒蛇ででもあるかのように怯えて、身を反らした。

「助けて、助けて」

 縛られたままの不自由な体勢で無理に逃げようとする。

「よく見ろ、嘉助。おれだ、虎之介だ」

 おれは笑いながらを手を差し出す。

 が、嘉助は悲鳴を上げて必死に逃れようと足掻く。おれが一歩踏み出すと、泣きだしてしまった。

「助けて、だれかぁ」

 情けない声で絶叫し、涙と鼻水を流す。嘉助ばかりではない。おれの踏み出した一歩に反応して、他のみんなも悲鳴を上げて足掻き、後ろへ必死に逃げようとしている。端の方にいたお蜜っちゃんが、大声を出してわぁーん!と泣き出した。恐怖に耐えかね、どうしていいかわからず泣いているようだ。

 おれは差し出した手を引っ込めた。一度自分の顔を触り、もとの人間に戻っていることを確認する。そしてもう一度一歩近寄ろうとすると、そこにいた全員が身を竦め、息を呑み、涙を流しながら怯えた目でおれのことを見上げてきた。

 おれは呼吸も忘れ、みんなの目を見返した。彼らの目に映っているのは、佐々木虎之介という人間ではない。恐ろしい猛獣・トラの化け物だ。さっきまでおれのことを慕っていてくれたみんなは、今はもう、仲間を見る目でおれを見てはくれなかった。いやそれどころか、彼らの目はおれのことを、人間としては見ていない。なにか恐ろしい、凶暴な化物を見る、畏怖のこもった目を、おれに注いでいる。

 おれにはどうしていいか、全く分からなかった。

 話せばわかる、時間をかけて説明すれば分かると、人は言うかもしれない。

 が、おれのことを、恐怖に捉われ、恐ろしい化け物だと認識してしまい、絶対的な拒絶の光をもって見返してくる彼らに、一体どんな言葉を掛ければいいのか? おれには分からなかった。

 今のおれには、硬直し、言葉を失う以外、出来ることはなかった。

「虎之介……」背後からおろちが、低い声をかける。顔は大人っぽいが声は妙に幼い。舌足らずで妙にハスキーな声は、おれの心を落ち着かせてくれる。「あたしたちと行こう。もし『祖炉門ソロモンの牙』に合流するのが嫌なら、あたしの家にいればいい」

 おれは逡巡した。

 このまま、ここに無理に残るか? それとも、この女について行くか?

 だが、選択権は、おれには無かったのだ。嘉助たちには拒絶されている。ここに、この東海屋に残ることは、もう出来ない。おれは、この女について行くしかないのだ。

 おれは小さく嘆息した。

 いまさら文句を言っても仕方ない。おれは刺客であり、雷威漢ライカンでもある。普通の人たちと一緒には、所詮暮らせないのだ。嘆息は、それを認めるための一つの区切りだ。

 おれは女を振り返った。

「わかった、おまえについて行くよ」

「……そうか」

 女──おろちは、笑った。まるで少女のような、あけすけで無垢な笑顔だった。



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