原点・後編

 邪質の魔素によって世界は赤く染まり、人の生存域の確認できない今、原点といえるべきジェッテブルク山に立ち返った

 そこで、邪質の魔素と馴染みの深い樹人族の存在をタロウに示唆され、足元に開いた穴の下に見える景色を山から北へと移していく。

 さらに彼が一歩を踏み出せば、青い縁は淡く輝き、雲が強風に煽られたように払われて視界を広げた。まるで霞んだ雲間から見下ろすようで不安になる状況ながら、彼は悠然と立っている。


 そんな光景へとタロウは胡乱気な視線を向けるのだが、何を言うわけでもなかった。幾度かこの様子のタロウとやり取りし、その意味するところを知っている彼は、ただ困ったように笑みを浮かべるだけだ。


 足元を流れる景色は徐々に高度を上げて、大森林全体が把握できるような位置に立つ。中心あたりに高く盛り上がる樹冠を目に留め、移動しようとして動きを止めた。


 樹人族の国は、樹門と呼ぶ、木々が絡まり合うように密着した分厚い層に守られている。そうした木々の絡む樹壁は外へ向けて幾層かがあり、その間の幅は広がっていくものの、住人はそれを基準に領土を定めているようだった。

 森葉族に囲まれていながら樹人族という形にまで変容したというならば、隔絶された時が要る。

 空までも隙間が見当たらないかのような樹門のせいだけで済むだろうかと、疑問が生じたのだ。

 たとえば、人々が自然と忌避した記録のある水の地のように、別の要因もありうる。


 樹皮のような肌が邪魔素に偏った世界で生き延びることに特化したためかもしれないというならば、それだけ環境の邪魔素濃度が高いということであり、聖魔素の存在は随分と昔に希薄になったか消えていたろう。

 ジェッテブルク山が現れてしばらくは、森葉族の中にさえ聖魔素を持つ者は多く残っていたとなれば、邪魔素のみの濃い場所を無意識に避けていたのかもしれない。


 考えてみれば、大森林内で魔脈による被害は多くない。あくまで他の場所と比べてはという意味ではある。

 言うまでもなく、大森林のジェッテブルク山側は魔脈に食い破られて、緑の地に亀裂が入ったように崩れ落ちてもいるのだ。

 ただ、その辺りで食い止めたと見えなくもない。


「邪魔素の方を、調べてみよう」


 彼は見方を変えることにした。聖魔素ではなく、邪魔素へと意識を向ける。

 あくまでも彼は聖魔素の主に過ぎないが、性質は違えども元となる魔素は同じだというならば、視えなくはないのだ。

 が、やはり非常に力を削る。自ら切り替えることができなければ、すべての魔素情報が飛び込み、まともに地上を見ることもできないだろう。


 彼は大森林全体を頭に思い描くと、手を伸ばし、空間との繋がりを強める。青が重なり銀と見まがう白が瞬いた。

 タロウはまた何かを口に含んだような微妙な面持ちで彼を見やり、先ほどは何も言わなかったが今度こそ呟いた。


「……さすが邪神」

「そうかな。照れくさいね」

「褒めてねぇよ」


 彼と同じく聖質の魔素で作られた姿ではあるのだが、タロウがこの空間に直接触れることはできない。そのせいで、彼の行動が神がかったように映るらしい。

 最近では空間の力を拝借する度にタロウは邪神と呼ぶようになったのだが、彼自身にはそう呼ばれるほど並外れたことを起こした自覚はないため、どうにも面映ゆい気持ちでいる。


 この空間に訪れる時というのは、睡眠時の一部の時間に過ぎない。この空間で過ごした時間の長さと同じでないのは、彼が空間に働きかけて調整するためだ。

 だからこうした調査も、それを利用しているに過ぎない。そういった理屈を折に触れて説明するのだが、それでもタロウは呑み込めないでいるようだった。

 タロウとは違い、彼は長期間を過ごした記憶が強すぎた。だから、ただの魂の癒着率の高さによるものだと考えているに過ぎないのだが、ともかく。


 彼は、目にしたものに息を呑む。

 聖魔素ほど明確に把握できるはずもない邪魔素の流れが、くっきりと映っていた。


「驚いたな……私だけでは、とうてい気付けなかっただろう」


 血管に流れる血のように、邪質のマグの網が、大森林を形作っていた。

 細い網の目の中心。樹門一帯は赤く、太く、天へと昇る。

 中心から渦を巻くように伸びた大森林内に一定の間隔である樹壁も、赤い幕を下ろしたように濃い。

 彼には、まるで葉の広がるキャベツのように感じられた。それもそのはず。


 それは、木だった。

 たった一本の。


 限界まで邪魔素を取り込み膨らんだ、木。

 それを告げた途端にタロウは取り乱した。


「ぅげぇっ、まじか、巨大ヤブリン草の悪夢再びかよ。確実に草レベル最大値、草魔王だろ! ……あれが、俺の真ラスボスだったか」

「いや、邪竜の質とは違い、何かの意思で歪められたものではないようだよ」


 何か嫌な思い出でもあるのだろうか。大森林の正体を知ったタロウは、憎々し気に地上を睨む。


「それで伐採は、難しいだろうね」

「はっ! つい」


 なぜかナイフを手にしていたタロウだが、すぐに戻した。


 彼は感嘆の吐息を漏らす。


「やはり、他人の視点は必要だと実感したよ。思うに、あの変質し続ける木のお陰で、周囲への邪魔素による影響が緩やかになっていたんだ」


 それは、ささやかな奇跡を見付けたように心が浮き立つ事実だった。


 ――ああ、あの時に似ているんだ。


 聖魔素の研究が行き詰まり、邪魔素の活用へと方向転換した研究院の実績を目にしたときのことが甦っていた。

 すでに世を去った後であり自ら手を掛けたわけではないが、研究院の躍進を誇らしく思ったものだ。


 ――いつでも希望は、こんな場所にと驚くようなところにある。


 彼の晴れやかな気持ちとは裏腹に、タロウは相反する気持ちに戸惑うような顔つきだ。

 短絡的に喜んでしまったが、見落としもあるだろう。気を引き締め直した彼は、タロウに向き直る。


「繰り返すが、思いつきで構わないから、些細なことでも伝えてほしい」

「あ、いや、あれ敵じゃないのかーと……良かったんだけどな」


 タロウは渋々といった風に答え、彼は不思議に見るも、考えに没頭しだした様子を見て目の前へと意識を戻す。




 レリアス王都の西側にある山脈は灰色一色だが、かつては青い山脈と呼ばれてもいたように聖魔素の名残りがあった。

 パイロの荒野は、邪竜が現れるまで魔脈が通っていないようだった。

 北の大森林は、森の木そのものが邪魔素を取り込んでいった。


 そして、その中心、ジェッテブルク山の地下。

 深く深くに、聖魔素は散らばっている。

 水の地だった頃の名残りであり、この一帯が聖魔素の水に満ちて、結界のような働きをしていたのだとしたら。

 周囲の環境が奇跡的なバランスで、崩壊を食い止め続けてきたのだろう。


 そうだとしても、このままでは人の世は遠からず崩れていく。


 先ほどのささやかな感動も、霧散する。

 あの巨大な木でさえも、すでに限界まで抱え込んでいるのだと評したばかりではないか。外からは死の砂に、内からは魔脈の山々に阻まれて、これ以上に身を広げることは叶わないでいるのだから。

 彼は一つ、か細い溜息を吐く。


 知らず、両手を伸ばしていた。

 青い空間が、彼の腕に絡みつき、全身を飲み込んでいき、一体となる。

 彼の意思を形にしていくために。


 これは、誰かの提案にかこつけた行動ではなかった。

 彼自身の意思のみで、この世界に関与する決意。


 タロウから、魔素のバランスを戻そうと提案された時点では、ここまでのことは判明していなかった。

 だから人体に邪魔素の影響がない程度に、聖魔素を戻しただけだ。


 しかし、それでは、間に合わない。

 人の生きる場が崩れ去るのは、時間の問題だろう。


 ――邪神、か。


 タロウが呼ぶ名の意味を、彼は考える。


 ――そうだ、とっくの昔に、僕の心は闇に呑まれていた。


 両親への申し訳なさや、妻と娘のためと心を誤魔化してきたが、目覚めてからの彼は日本の生活に馴染めないでいた。


 こちらで死んで、本当に元の体に戻れるかなど確証もないのに、他人を似た境遇に引き摺り込んだ。

 あのときに、すでにまともな精神状態ではないのだと自覚しておくべきだったのだ。

 今もまだ、こちらの世界でのことばかりを考えている。再び死して還る世があるなら、こちらだと自然に受け止めていた。

 この世界についてタロウと話していても、己の視点がどこにあるのか理解していた。

 完全に外側の人間である自覚がわずかでもあったなら、タロウが指摘するようなことなど自ずと至れたのではないかと思うのだ。

 だのに、いつも、この世で生きていた頃の人格が口を開いている。


 ――きっと、魂の髄から、僕はこちらの人族となってしまっていた。


 それで善の側であるつもりでいたなど、笑えもしない。

 今さら、誰かの前で取り繕う必要がどこにある。


 いずれは、この空間をタロウに渡すことができるかもしれないし、譲渡はできないのかもしれず、ただある日から呼び寄せることができなくなるのかもしれない。

 そうなれば、しばらくタロウは気をもむだろうが、その内諦めざるをえまい。

 いや、自分で言ったでははないか。

 仮に魂と呼ぶ自身の魔素と、この空間の融合度の高さによるなら、彼が消えればタロウがこの世界に訪れる手立ては絶えるだろう。

 それまで、彼は、本当にただ世界を彷徨い歩くことしかできないのだろうか。


 ――いや、今は僕にしかできないことがある。


 聖魔素が聖獣として意識を持っていた頃、人と関わりたくないためか、地上に姿を現さない個体も多かったという。

 山の地下で広がらずに揺蕩っているのは鱗鰭族の想いが残っているためか、二度と地上に戻りたくない理由があるのかもしれない。


 それでも、と、彼は地下深くに沈んでしまった聖魔素へと呼びかける。


 ――どうか応えてくれ。このままでは、すべてが失われてしまう。


 じわりと、動く手応え。

 ゆっくりと、願いは伝播し拡散していく。


 彼の全身だけでなく、彼を中心とした空間自体が、銀の反射めいた青白い光に輝いている。

 しかし、それは燃え尽きる様ではない。

 前回に試したことで気が付けたことだ。バランスを戻すためといって外へと誘導した聖魔素が、わずかでも邪魔素を取り込んでいる。

 その度に、彼の力も増していく。

 地上が少しだけ、鮮やかさを増した気がした。



 ようやく眩む光が、潮が引いていくように去る中、驚愕に目と口を開いた顔と目が合った。

 同時にタロウの悲鳴が響き渡る。



「なにしちゃってんだよ!?」



 後で彼は、タロウにめちゃくちゃ説教されるのだった。


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最弱だろうと冒険者で生きていく! ~異世界猟騎兵英雄譚~ 桐麻 @kirima

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