鱗鰭族の稚魚・後編
雨が降った。
水の地一帯の地面を逆さまにしたのではないかという土砂降り。
見渡す限りの空が水に支配されている。
落ちてくる水の礫が肌を叩く痛みなど気にしていられず、枝葉を組んだ庇の下から飛び出して空を仰いだ。
少なくとも稚魚のぼくらには生まれて初めての体験だった。
一晩経っても雨は止まなかった。
大人の不安げな様子も目に入らず、ぼくらは、はしゃいだ。
稚魚の仲間と視線を交わす。
――これなら、外に出られる。
そんな気持ちを、誰もが期待に満ちた顔に滲ませていた。
これを逃せば、次には大人になってしまった後かもしれない、水の地の外を見ることができる機会だと思ったのだ。
少しだけ覗いてみよう。
ちょっとだけだ。きちんと戻れるだけの距離を進むだけ。
それなら見てみよう。
いつもならば、そのちょっとが不安なのだけれど。
ほらと、仲間が空を指さす。
空は水に満ちている。
「これなら、大丈夫」
それは誰の呟きだったろう。けれど、皆が同じように自分自身に言い聞かせていたに違いなかった。息を呑む音が鳴った気がした。
その呟きの後、少しの沈黙を破って、ぼくらは行動を起こしていた。増水に備えて忙しく立ち働く大人たちには、邪魔にならないように縁にいると偽って。
水の地との縁も曖昧になっていた。身を低くして草地に紛れ込み、木々の陰に隠れて、水の地の喧騒が聞こえなくなると、ぼくらはまとまって歩き始める。
水辺に寄る動物には、足先の細いものが多い。
ぼくらの、指の間に薄く膜の広がった足では、あまり硬い地面を行くのに向いてないのだと実感していた。
それでもぼくらは進んだ。
ばしゃばしゃと、足元から馴染み深い音が響き続けていたから。
普段の外の地より、足の裏に柔らかな感触があったから。
全身に雨粒が叩きつけ、それは水の地の中よりも冷たかったけれど。
それでも、ぼくらが外を行く助けであり邪魔ものにはならない。
次第に不安は去り、状況に慣れてきたぼくらは、空に向けて歓声を上げていた。
たのしくて、うれしくて、ぼくらは歩き続ける。
仲間と一緒だからと、いらない心強さまで持ってしまった。
だから、戻るための体力を残しておくことなんか、すっかり頭から消えていた。
足の裏が、じんじんと痛み始めるのに気づいた。
いつもなら急ぐときは水の中を掻き分けていくぼくらにとって、歩き通してきたという慣れない運動のせいだけではない。
「静かになってきたね」
ぽつりと、呟いていた。
足元から響く水の音は、いつの間にか消えて、雨は霧のように頼りないものに変わっていた。
まるで、入れ物を引っくり返した後に、懸命に雫を振り落とそうとしているように。
知らず、ぼくらの歩みは止まっていた。
どんよりと、力強いまでに暗く重い雲間に、青い筋が顔を覗かせていたのだ。
そこから光が、天上を支配していく。
我に返ったように、ぼくらは一斉に背を向けていた。
ぼくらだって、曇った空よりは晴れた日が大好きだ。
でもそれは、水面に浮かんで眺めたときのことだった。
全身を包む水が、ことさらに肌に心地よく思えたから。
あんなに厚く空を覆い隠していた雲が、散り散りになっていく。
すっかり、いつもの鮮やかな青い空が、冷たい水の代わりに暖かな日差しを振らせている。
目尻に涙がにじむ。
好きな青空は、こんなのではなかったのにと、赤味を帯びた腕を見下ろした。
浅瀬の石ころを見下ろすようだった、透けた鱗の下に見えている淡い肌が、血を滲ませたような染みを作った。
日差しを受けた背中が、じくじくと痛んでくる。
はやく、はやく帰らなければ。
頬を零れ落ちた涙でさえ、乾く舌を潤すようにして、ぼくらは行きがけよりも懸命に足を動かしていく。
だというのに、水の地は一向に近付かない。
どうして、どうして、どうして。
こんなに遠かったはずはないというのに。
ぱり、と乾いた音が響き、ふと視線を落とすと赤い水が滴った。
細かくひび割れた皮膚が痒く、無意識に掻いてしまっていたのだ。
鱗が捲れるようにして剥げ落ち、そして――掻いていた手の水かきが、割れていた。
思考が止まる。
その光景は、遠いところで起きた出来事のようだった。
無意識の危機感だけは、さきほどよりも、もっと急がなくてはと体を急き立てる。
鱗が割れたことで、必死に保とうとしていた気持ちも折れたのだ。
保っていた意識は途切れ、朦朧としていた。
歩いて歩いて、ようやく日に煌く水面が見えたとき、安堵の余り座り込んでしまいそうだった。しかし、ここで止めては、もう動けなくなってしまう気がして、重い足を引き摺っていく。
干からびたのではないかと思っていた涙が溢れ、安堵の地を歪ませる。そうして、見覚えのある青い鱗が、跳ねるのが見えた。助けに駆け寄る姿に、とうとう、ぼくの足は止まった。
水際では、大人たちが不安げな顔でうろついており、ぼくらを見つけた途端に騒ぎ始めていた。
ぼくらを見た女性の悲鳴が上がり、瞬く間に浅瀬へと抱えられていく。
別の嗚咽が聞こえた。
それは悲痛な叫びに変わる。
あのとき、帰ってこれたと思ったとき、安堵の余りに動けなくなった者もいたのだ。
水辺に眠り一晩経って、どうにか歩けるほどには回復した。
いつもなら、こっぴどく叱られるはずの、大人たちの声はなかった。優しく手を引かれて、起き上がったぼくら稚魚は水の縁へと連れられていく。
そこには、青い雫を絞り出すようにして、女性が座り込んでいた。
その身が覆いかぶさるのは、見覚えのある姿。
全身がひび割れ、見るも無残に赤黒く染まった亡骸だ。
流水のように輝く鱗は残っていない。ぼくらの誇りである、研磨した石にも劣らぬ鱗の輝きは、泥のような赤に塗りつぶされている。
辛くも生き延びたぼくらは、横たえられた動かぬ友の身へと、皆で順に一掬いの水をかけていった。
つらかったろう、くるしかったろう。
身の丈を超えた好奇心が、ぼくらを殺した。
これは罰なのだ。
生きられぬ地と知っていて、浪漫だなどと嘯いて、馬鹿な事をしでかした。
だって先祖は、はっきりと残していたではないか。
外は枯れ果てているのだと。
大人たちは言い聞かせたではないか、幾度も。
到底、ぼくらに生きていける世界ではないのだと。
体の傷は癒えても、ぼくらの鰭は酷く歪んだまま、もう元に戻ることはない。
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