第21話 取引


 人間界での生活を碧--天使--は満喫していた。

 毎日はあまりに穏やかで、気づくと二週間が過ぎている。

 月日が経つのが早く感じられた。

 優一も碧も、今の生活に馴染みすぎている。

 碧は何故かコミュニケーション能力が高かった。

 いつの間にか、ご近所さんと顔見知りになっている。

 優一さえ、挨拶もしたことのない相手だ。

 何年もこのアパートに住んでいるのに、隣の住人の顔さえ知らない。

 しかし碧は直ぐに近所のおじいさんおばあさんたちと仲良くなった。

 昼間は暇なので、一緒にお茶を飲んで井戸端会議に参加しているらしい。

 いろんな近所の噂話を仕入れて来て、優一に教えてくれた。

 そんな碧の話を聞きながら、一緒に夕食を食べる時間は優一にとって大切なものになりかけている。

 しかし、人生の先輩たちの話をいろいろ聞くことは、いいことばかりとは限らない。

 ある日、碧はとんでもないことを言い出した。

「ちょっと相談したいことがある」

 夕食後、碧は言いにくそうに口を開く。

 優一はドキッとした。

 嫌な予感がする。

「何?」

 それでも、優しく尋ねた。

「実はバイトをしようと思っている」

 碧は優一がまったく予想していなかったことを言った。

「……えっ?」

 一瞬、優一は碧の言葉を理解できなかった。

「バイトって、働きたいってこと?」

 思わず、確認する。

「そうだ」

 碧は大きく頷いた。

「……」

 優一は困惑する。

「なんで?」

 最初にそう尋ねた。

 天使に働く必要があるなんて、思えない。

「生きて行くためには、仕事をして稼がないとダメだろ?」

 碧は尤もなことを言った。

「……確かに、そうだけど……」

 優一は頷く。

「そう簡単にバイトなんて出来ないだろ? どこでバイトするつもりか知らないけど、履歴書とかどうするんだ?」

 困った顔で聞いた。

「それは……」

 碧は言葉に詰まる。

 迷う顔をした。

「実は、なんとかなる」

 そう呟く。

「……」

 それを聞いた優一は微妙な顔をした。

「どうして、なんとかなるんだ? 他人の戸籍を買うとかそういう話なら、犯罪だから止めてくれ」

 頼む。

 危ない人と知り合ったのではないかと、心配した。

「そんなことはしない」

 碧は首を横に振る。

「そもそも、戸籍って買えるものなのか?」

 不思議そうに聞いた。

「今の世の中、お金を払えば買えないものなんてないんだよ」

 優一は悲しげに答える。

 そんな世の中が正しいとは、思えなかった。

「そうなのか。世知辛い世の中だな」

 碧はため息をつく。

 おじいさんおばあさんとお茶しているせいか、碧は難しい日本語もだいぶ覚えた。

「じゃあどうやって戸籍を用意するの?」

 優一は尋ねる。

「……」

 碧は黙りこんだ。

 説明したくない。

 しかし、優一は引き下がらなかった。

「言わないなら、バイトは認めない」

 首を横に振る。

 毅然とした態度で、突っぱねた。

 碧は困る。

 深くため息をついた。

 仕方ないという顔をする。

 優一は折れそうになかった。

「実は、天使になり損ねた天使と人間のハーフはけっこうな人数、この世界にいる」

 小声で打ち明ける。

「天使と人間が交わると、生まれてくる子供の半分くらいは天使の羽を持たない、人間の子供として生まれてくる」

 碧の説明に、優一は頷いた。

 父にそう聞いたのを覚えている。

「天使になれなかった子供は人間界で人間として育つ。たいていの子供には天界の記憶も天使の子供だという認識もない。だがたまに、自分が天使との間に生まれた子供だと知らされて育つ子供がいる。そういう子供は、天使が人間界で暮らすのをサポートしてくれるんだ。そういう組織が世界各国にある。もちろん、日本にも。そこでは繁殖のために人間界に降りてきた天使のフォローや諸事情で人間界で暮らすことになった天使のバックアップをしているんだ。あと、人間として生まれた天使の子どもの養子先を探したりもする」

 碧は説明した。

「そこが戸籍を用意してくれるの?」

 優一は尋ねる。

「ああ」

 碧は頷いた。

「そんな便利な組織があるなら……」

 優一は考え込む。

「偽装結婚する必要とか、ないよね?」

 健一と結衣の話を持ち出した。

「……」

 碧は黙りこむ。

 困ったように眉を顰めた。

「健一は堕天使だ。天界から墜ちたものに組織はバックアップしない」

 首を横に振る。

 それは尤もな話だ。

 墜ちるということは、天界を裏切るということだ。

 天使のための組織が助けてくれるわけがない。

「天界を裏切ったから、ダメなのか」

 優一はぼそっと呟く。

「……」

 碧は何も言えなかった。

 沈黙だけが部屋に流れる。

「結衣ちゃんが偽装結婚したり、産んだことにしなくても、生まれてくる子の戸籍を作る方法はあるんだろう?」

 優一は碧に尋ねる。

「……ある」

 ぼそっと碧は答えた。

「そうか。凄いな」

 優一は感心する。

「……」

「……」

 奇妙な沈黙が生まれた。

「碧」

 静かな声が、天使を呼ぶ。

 ちらりと碧は優一を見た。

「取引をしないか?」

 優一はそう持ちかける。

「取引?」

 碧は嫌な予感を覚えた。

 眉をしかめる。

「生まれてくる子の戸籍をなんとかしてくれたら、碧の頼みを何でも一つ、叶えてあげるよ」

 優一は約束する。

「……バカだな」

 それを聞いて、碧は呆れた。

「私が、天界に来てくれと頼んだらどうするんだ? それでも、お願いを聞いてくれるのか?」

 問いかける。

 しかし優一はにやりと笑った。

「碧はそんなお願いはしない」

 言い切る。

「……」

 碧は困った顔をした。

「何でそう思うんだ?」

 問いかける。

「本当は、オレに天界に来て欲しいなんて、思っていないんだろ?」

 優一は尋ねた。

「東京までついてきたのも、オレを説得するためじゃない。本当は、人間界で暮らしてみたかったんじゃないのか?」

 ズバッと核心を突くことを言う。

「そんなことはない」

 碧は否定する。

「でも、東京に来てから碧はオレを天界に誘わなくなった」

 優一は囁いた。

 じっと碧の目を見つめる。

「……」

 碧は黙りこんだ。

「本当はずっと人間界に興味を持っていて、いつか人間界で暮らしてみたいと思っていたんじゃないのか?」

 優一は何故かそれを確信する。

 一緒に暮らして、そう感じた。

 碧は純粋に人間界で人間としての暮らしを楽しんでいる。

 バイトをしてみたいというのも、そんな人間世界での暮らしを満喫する一環に思えた。

「違う」

 碧は首を横に振る。

 だがその否定は弱々しかった。

「碧がオレに協力してくれるなら、オレも碧がずっと人間界で、オレと一緒に暮らせるように協力する」

 優一は約束する。

「……」

 碧は困った。

「……少し、考えさせてくれ」

 そう言う。

 考える時間を貰った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます