第20話 名前


 天使との生活は思いのほか快適だった。

 天界に行く気など欠片もない優一は、このまま楽しく暮らせればいいなと思い始める。

 天使も、上京してからは無理に天界に誘うことはなかった。

 天使は毎朝、朝食を作って優一を起こしてくれる。

 留守の間には掃除や洗濯をしてくれた。

 それが終わると夕食の買出しに行き、手の込んだ料理を作る。

 天使は器用で、モバイルなどの電子機器もあっという間に使いこなした。

 ネットのレシピサイトを見て料理をつくるくらい、わけない。

 天使はどんどん、人間界に慣れていった。

 優一は同棲しているような気分を味わう。

 だが同棲や結婚より、天使との暮らしは楽だ。

 天使は優一に見返りを何も求めない。

 掃除をしたり洗濯をしたり、料理を作ったりするのが楽しいようで、毎日家事に励んでいた。

 そんな姿を見ていると、可愛いと思うし、情も湧く。

 それが天使の作戦なのかもしれないと、疑った。

 だが何故か、東京に来てから天使は天界のことをほとんど口にしない。

 天使はただ、人間のような生活を楽しんでいた。

 天使が何もかもやってくれるので、優一はすっかり甘える。

 そんな毎日は楽しかった。

 だが一つだけ、不便なことがある。

 天使には名前がなかった。

 天界では名前が必要ないらしい。

 だが、一緒に暮らしながら呼びかける名前が無いのは不便だ。

 天使が作った夕食を二人で食べた後、優一はそのことを切り出す。

 天使が後片付けを終えてTVの前に座るのを待って、口を開いた。

「話しがあるんだけど……」

 楽しそうにTVを見ている天使に話しかける。

「なんだ?」

 天使は返事をした。

 しかし、目はTVの画面に向いている。 

「名前がないと不便なので、なんとかしよう」

 提案した。

「名前?」

 天使はTVではなく、ようやく優一を見た。

「ないとダメなのか?」

 問いかける。

「ないと不便だよ」

 優一は頷いた。

「そうか……」

 天使は少し考える顔をする。

 不自然な沈黙が続いた。

「……じゃあ、名前を付けてくれ」

 何かを決意したように、そう言う。

「オレがつけるの?」

 優一は戸惑った顔をした。

「他に誰がつけてくれると言うんだ?」

 天使は問う。

「いないな」

 優一は納得した。

「どんな名前がいい?」

 天使に尋ねる。

「好きにつけていいぞ」

 天使は何故か上から目線で言った。

「好きにつけていいと言われても……」

 優一は困る。

 ペットさえ飼ったことないのに、名前をつけたことなんてあるはずがない。

「どんな名前でも私は構わない」

 天使は自分の名前なのに、興味がないようだった。

「構わなくないよ」

 優一は苦く笑う。

「名前は大事だから」

 諭すように囁いた。

「何故、大事なんだ?」

 天使は首を傾げる。

「何故って……」

 改めて聞かれると、優一も困った。

「親の願いが篭っているから」

 そう答える。

「……それは私には関係なくないか?」

 天使は尤もなことを言った。

「……確かに」

 優一は認める。

 自分でもそれは思った。

「でも、ずっと呼ばれる自分の名前なんだから、簡単に決めちゃダメだ」

 首を横に振る。

「そういうものなのか」

 天使は一応、納得した。

「だが、どんな名前がいいのかなんてわからない」

 困った顔をする。

「優一が呼びやすい名前をつけてくれ」

 頼んだ。

 真っ直ぐ、優一を見る。

 その瞳が、本来は碧色であることを優一は思い出した。

「碧(みどり)という名前は?」

 思わず、口をついて出る。

「ミドリ?」

 天使は不思議そうな顔をした。

「瞳の色、本当は碧色だろ?」

 優一は理由を説明する。

「ああ。瞳の色の名前か」

 天使は納得した。

「碧か……」

 自分の名前を口にする。

「いい響きだな」

 優しく笑った。

 その笑顔に優一はドキッとする。

 男の姿のままなのに可笑しな話だが、最近、天使を見ているとドキドキするようになった。

 天使は端整な顔立ちに反して、中身は妙に可愛らしい。

 素直で、嘘がつけなくて、全てに対して真摯だ。

 そんな天使を嫌いになれというほうが無理な相談だろう。

「優一」

 天使は優一を呼んだ。

「何?」

 優一は返事をする。

「ありがとう」

 天使は礼を言った。

「こんな風に楽しく人間界で過ごせるなんて、思わなかった」

 喜ぶ。

「優一といると楽しい」

 愛の告白みたいなことを言った。

 だが、そんなつもりが無いのはわかっている。

 相手は天使だ。

 ドキドキするだけ無駄だと思った。

 恋愛感情を持ち合わせてはいない。

 それでも、優一にとって天使はすでに大切な存在になっていた。

「オレもこんなに楽しく毎日を過ごすのは久々だよ」

 優一は囁く。

「ずっと一緒に居られたらいいのに」

 天使はぼそっと独り言のように呟いた。

「それは天界に来いって意味か?」

 優一は苦く笑う。

 天使は何かを言いたげに口を開いて、止めた。

「……そうだ」

 小さく頷く。

 本当に言いたかった言葉は違うことは優一にもわかった。

 だが、それを尋ねるのは自分のためにも天使のためにもならないと思う。

 気づきかけたことに、優一はあえて蓋をして気づかないふりをする。

 暴いてはいけない何かがそこにある気がした。

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