第10話 幸福


 裕二と<天使>の奇妙な同棲生活は唐突に始まった。

 抱き合った後、<天使>は裕二の腕の中で眠る。

 心地よい疲労感に、裕二もぐっすりと眠った。

 ジリリリリ。

 めざまし時計の音で、目が覚める。

 裕二の手がめざまし時計を止めた。

 <天使>は裕二の腕の中で、もぞりと動く。

「おはよう」

 <天使>が起きたことに気づくと、裕二はそう囁いた。

 チュッと触れるだけのキスする。

 <天使>はぼーっとしたまま、そのキスを受けた。

 身体は心地よい気だるさに包まれている。

 それが昨夜の情事のせいだと、気づいて顔を赤くした。

 少し恥ずかしい。

 だがそれ以上に、幸せな気持ちになった。

 ずっとこうして、裕二の腕の中で朝を迎えたいと願う。

 裕二は名残惜しそうにもう一度キスをすると、起き上がった。

 今日は平日で、仕事がある。

 朝食を作って、結衣に食べさせなければならなかった。

「どこに行くんだ?」

 ベッドを降りる裕二に<天使>は横になったまま尋ねる。

「朝食を作る」

 裕二は答えた。

「私がする」

 <天使>はそう言うと、身を起す。

「料理できるのか?」

 裕二は驚いた。

「得意な方だ」

 <天使>は答える。

 ちょっと誇らしげな顔をした。

 そんな<天使>が裕二は可愛い。

「それじゃあ、頼む」

 <天使>に甘えることにした。

「ああ」

 <天使>は頷き、ベッドを出ようとする。

 だが、自分が裸であることに気づいた。

 天使の姿に戻った時、着ていた服は消えてしまった。

 他に着替えはない。

 ローブはあるが、動き難かった。

「服を貸してくれ」

 <天使>は頼む。

「わかった」

 裕二は頷いた。

 自分の服を貸す。

 <天使>は裕二より少し小柄だった。

 大きいだろうが、着れないこともないだろう。

 <天使>は裕二の服を着た。

「裕二の匂いがする」

 <天使>は微笑む。

 その言葉に、裕二はドキッとした。

 一瞬、朝から誘われているのかと勘ぐる。

 だがおそらく、それに深い意味はないのだろう。

 本当に自分の匂いがしたから、口に出しただけに違いない。

 裕二は苦く笑った。

 着替えた<天使>に裕二はキッチンの使い方を教える。

 教えられたことを、<天使>は直ぐに覚えた。

 料理を始める。

 本人が言った通り、<天使>は料理が上手なようだった。

 美味しそうな匂いがキッチンに漂う。

 安心して任せられるのを確認してから、裕二は子供部屋に向かった。

 結衣を起しにいく。

 トントン。

 ノックしてから、ドアを開けた。

 結衣は子供用のベッドで、すやすや眠っている。

「結衣、朝だよ」

 裕二は娘を起した。

「うーん」

 結衣は小さく唸る。

 それでも、目は開けた。

 裕二の顔を見て、ほっとする。

 昨夜のことは覚えているらしい。

「パパ、げんき?」

 裕二に問いかけた。

「ああ、もう元気だよ」

 裕二は頷く。

 ガンは治ったと、裕二は感じていた。

 根拠は何もない。

 ただ、ずっと重かった身体は楽になっていた。

 動いても、息が切れない。

 <天使>が治してくれたのだと確信していた。

「よかった」

 結衣は微笑む。

「さあ、下に行ってご飯を食べよう」

 裕二は促した。

「うん」

 結衣は微笑む。

 裕二は娘の着替えを手伝った。

 それを終えて、手を繋いで一緒に一階に降りる。

 ちょうど朝食が出来上がったところらしく、<天使>が食事をテーブルに並べていた。

「あっ、ママだっ」

 結衣は声を上げる。

 だだっと<天使>に駆け寄った。

 足にしがみつく。

「危ないよ」

 <天使>は結衣が怪我をするのを心配して、注意した。

「ごめんなにゃい」

 結衣はそう言って、謝る。

 呂律が回らなくて、可愛らしい言い方になった。

 そんな結衣を<天使>は抱っこする。

 二歳の結衣はまだ上手に言葉を言えない時がある。

 そんな結衣が可愛くて、裕二は微笑んだ。

 <天使>に甘えてしがみつくその姿こそ、わが子ながら天使のようだと思う。

 にやにやしてしまった。

 だが一つ、裕二には気になることがある。

「なんでママなんだ?」

 娘に問いかけた。

 どうして<天使>をママと呼ぶのか、尋ねる。

 一瞬、結衣が自分と<天使>がそういう関係であることを知っているのかと焦った。

「だって、いっしょにくらすひとはママなんでしょう?」

 結衣はそう言う。

 よくよく話を聞くと、そう教えたのは隣の家に住むおばらしい。

 おそらく、結衣が一緒に暮らして欲しいと駄々を捏ねたのだろう。

 その時、ママじゃないから一緒には暮らせないのだと、説明したようだ。

 結衣は妻の従姉妹である彼女が大好きだ。

 実の母親を知らないのだから、無理もない。

 結衣にとって、彼女は母親と同等の存在だ。

 だから、夜になると離れなければならないのを嫌がる。

 一緒に暮らしたいと、駄々を捏ねた。

 しかし、彼女にも裕二にもそんなつもりはない。

 結衣のためだけに再婚するというのも、躊躇われた。

 彼女に申し訳ない。

 彼女の説明は間違っている訳でもないので、裕二は訂正しないことにした。

 <天使>をママと呼ぶことを許す。

 ママが出来たことを結衣は喜んだ。

 はしゃいで、<天使>の側から離れない。

 そんな結衣を<天使>に任せて、裕二は自分の食事を取った。

 久しぶりに朝食をしっかり食べる。

 結衣には<天使>がごはんを食べさせてくれた。

 自分が食べさせる時より、結衣は素直に食事する。

 いい子にしていた。

 <天使>にとても懐いている。

「結衣のこと、任せてもいいか?」

 裕二は<天使>に尋ねた。

 結衣の面倒を見てくれるか、確認する。

「ああ」

 <天使>は頷いた。

「他にすることもないし、結衣ちゃんと遊びながら、裕二が帰ってくるのを待っているよ」

 にこっと微笑む。

 それは本当に奥さんみたいだった。

 そんな<天使>に、裕二は愛しさを募らせる。

 <天使>の近くに行って、チュッと頬にキスをした。

「何?」

 <天使>は驚く。

「行って来ます」

 裕二は笑った。

 カバンを持って家を出ると、隣の家に寄る。

 そこに住む結衣のおばに、結衣を預かってくれるベビーシッターが見つかったから、しばらくは結衣のことを気にせず養生してくれと告げた。

 彼女はここ数日、体調を崩している。

 具合がよくなかった彼女はそれを聞いて、安堵した。

 体調が悪い時に、結衣の面倒を見られる自信がない。

 ベビーシッターが誰なのかということまで気にしている余裕はなかった。






 こうして、親子のような、夫婦のような、裕二と<天使>と結衣の三人での生活は続いた。

 <天使>は結衣の面倒をよく見てくれる。

 ママと懐いてくれる結衣が<天使>は可愛いかった。

 男性体の自分には知るはずのなかった母性が芽生える。

 結衣の面倒を<天使>が見てくれるので、裕二の生活はぐっと楽になった。

 帰ると食事が出来ていて、結衣はすでにご飯を食べ終えている。

 <天使>は結衣を膝の上であやしながら、裕二と一緒に食事を取った。

 結衣が寝た後は夫婦の時間で、一緒に風呂に入ったり、ベッドでいちゃいちゃしたり、新婚夫婦みたいなラブラブな毎日を送る。

 幸せすぎて、それが一週間で終わるのが裕二は怖くなった。

 毎日カレンダーを見ながら、一日が終わるのが本当に早いと思う。

「このまま、帰したくない」

 裕二は<天使>を抱きしめて、何度もそう言った。

 <天使>も同じ気持ちであった。

 だが、天使が人間界で暮らすことは許されていない。

 唯一の例外は墜ちた場合だ。

 地に墜ちて堕天使になれば、天界に戻ることが許されない。

 人間界で暮らすしかなかった。

 だが、墜ちるということは悪魔になるということだ。

 簡単に決断できることではない。

 天使の自分は受け入れることが出来ても、墜ちて悪魔になった自分が受け入れてもらえるとは<天使>には思えなかった。

「……」

 裕二の言葉にいつも返事が出来ない。

 口を塞いで、言葉を奪うように自分から裕二にキスをした。

 残り少ない時間を惜しむように、二人は暇さえあれば抱き合う。

 少しでも長く、触れ合っていたかった。

 だが快楽に身体が溺れれば溺れるほど、心が苦しくなる。

 終わりが見えている関係は、辛かった。

 最後の夜、<天使>は涙をこぼす。

 帰りたくないと泣いた。

 だが、帰らなければ墜ちるのだと伝える。

 裕二はどういう意味なのか、詳しく聞いた。

 そして堕天使になれば一緒にいられることを知る。

 裕二は堕天使となって、自分と結衣と一緒に暮らそうと<天使>に囁いた。

 それがどんなに残酷なことを言っているのかわかっていながら、言わずにはいられない。

 天使にとって堕天使となるということは二度と天界に戻れないということだ。

 それが辛くない訳がない。

 だから、無理にとは言えなかった。

 例え二度と会えなくても、自分も結衣も<天使>を愛していると囁く。

 <天使>はポロポロと涙をこぼした。

 覚悟を決められない自分を嘆く。

 だが、生まれた場所を捨てるのは簡単なことではなかった。

 <天使>は天界をさほど好きではなかったが、それでも、簡単に捨て去れるほど思い入れがないわけではない。

 仲間もいた。

「少し考える時間が欲しい」

 <天使>は呟く。

 一度天界に戻り、冷静に自分の心と向き合いたいと思った。

 自分が捨てられないものはなんなのか、もう一度考えたい。

「わかった」

 裕二は頷いた。

 <天使>がどう決断しても、反対しないと最初から決めていた。

 <天使>の気持ちを尊重したい。

「墜ちると決めたら、私は天使ではなくなる。角が生えて、白い羽は黒く染まる。そんな姿でも、受け入れてくれるのか?」

 <天使>は尋ねた。

「もちろん」

 裕二は頷く。

「どんな姿でも、愛しているよ」

 優しく微笑んだ。


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