前略、家族になりました。

@miraisatuki

第1話 満員電車

 「えーん。えーん」

 小さな女の子が泣いていた。

 ポロポロ。

 ポロポロ。

 女の子の頬を大粒の涙が伝って落ちる。

 それは見ているだけで、胸が痛くなる光景だった。

「どうしたの?」

 泣き声を聞いてそこにやって来たその人は女の子に問いかける。

「パパが……。パパが……」

 女の子は泣きじゃくり、言葉が上手く出てこなかった。

 説明できない。

「パパはどこ?」

 その人は優しく女の子に問いかけた。

「こっち」

 女の子はその人の手を掴む。

 小さな手にぎゅっと握られ、その人は戸惑った。

 女の子の手はとても温かい。

 人の温もりを、その人は初めて感じた。












 満員電車は人間の大事な何かを奪い取る。

 朝、最寄り駅から電車に乗り込んだ瞬間、優一はどっと疲れを覚えた。

 朝から、気が重くなる。

 仕事に行く前にすでに疲れ切るのは、絶対に何かが間違っていると思った。

 電車の中の誰もが同じことを考えているはずなのに、満員電車はなくならない。

 それは自分が何かをしなくても他の誰かが何とかしてくれるだろうという、他人任せの日本人の気質のせいなのかもしれない。

 だが優一も、そんな満員電車の中にたくさんいる誰かを責めることは出来ない。

 優一自身、『いつか誰かがなんとかしてくれるだろう』と思っている一人だ。

 自分で何とかしようという気持ちは、さらさらない。

 田所優一はごくごく普通の、サラリーマンだ。

 大学入学を機に田舎から上京し、そのまま都会で就職する。

 そんな人間、都内にはたくさんいた。

 珍しい話でもなんでもない。

 容姿も学歴も普通だ。

 中肉中背で、背は低くもないが、高くもない。

 顔立ちはそう悪くないと自分で思っているが、かといってイケメンというほど整ってはいなかった。

 イケメンと言うのがどういう顔のことを指すのか、優一はよく知っている。

 イケメンの顔を見ながら、優一は育った。

 優一の父はとても整った顔立ちをしている。

 田舎に置いておくのがもったいないくらい、男前だ。

 昔から、よくモテる。

 在宅で仕事をしていたが、そんな父目当てに自宅にはよく女の人が出入りしていた。

 母は小さい頃に亡くなって、顔も覚えていない。

 写真でしか見たことがなかった。

 多くの女性が父の後妻になることを狙っていたが、父がなびくところを見たことは一度もない。

 家に上がりこんだ女性は食事の支度をしたり、息子である優一や昼間だけ預かっている隣の家の女の子の面倒を見てくれた。

 それが終わると、父は女性を追い出す。

 今にして思うと、ずいぶん酷い話だ。

 都合よく、女を利用する。

 だが女性の方も、そんな父のことを知っていながら家にやって来ていた。

 自分だけは違うという自信があるらしい。

 そういう女を小さな頃からたくさん見てきたから、優一は女性に夢も幻想も抱かなかった。

 女というのはリアルで現実的な生き物だ。

 意外と計算高い。

 優しいと思って手を出すと、後で痛い目を見ることを知った。

 そんなことを満員電車に揺られながら、優一はつらつらと考える。

 暇つぶしに、とりとめのないことに意識を向けた。

 就職して5年。

 満員電車にはいまだに慣れない。

 現実逃避でもしないと、耐えられなかった。

 電車の窓に映る自分の顔はとても疲れている。

 優一はそこそこ名前が通った大学に通い、大手ではないがそれなりに名前が知られている会社に就職した。

 安アパートから毎日満員電車で通勤し、自分の顔を一番長く見るのは鏡ではなく電車の窓という生活を送っている。

 そんな変わり映えしない毎日が続き、気づけば優一は先輩と呼ばれる立場になっていた。

 仕事は大変だが、それなりに上手くやっていると自分では思っている。

 傍から見れば、順調な方だろう。

 自分でもそこそこ幸せだと思っていた。

 だが優一には、心の奥に棘のように刺さったまま抜けないものがある。

 ことなかれ主義の優一は、そのことからずっと目を背けていた。

 だが時折、今日みたいな満員電車の中で暇を持て余している時などに、不意にその棘は痛み出す。

 父のことを思い出すと、胸の奥が痛かった。

 18歳の時、優一は逃げるように東京に出て来た。

 大学入学と言う大義名分はあったが、本当の理由は別にある。

 実家に居たくなかった。

 他にも大学は選べたのに、家から一番遠い大学に進学を決める。

 女に夢も希望も持っていない優一だが、人並みに初恋の相手はいた。

 彼女は隣の家に住む幼馴染で、遠い親戚らしい。

 二軒の家は隣と言いながら、同じ敷地の中に建っていた。

 母親同士が従姉妹だと聞く。

 たが彼女の母親は優一が生まれる前に亡くなっていた。

 彼女の父は仕事が忙しく、在宅で仕事をしていた優一の父が昼間は彼女を預かることになる。

 優一は彼女--結衣--と一緒に育った。

 三つ年上の結衣はいつも優しい。

 優一は結衣が大好きだった。

 姉のように慕っていたが、思春期を迎え、異性として意識する。

 それが初恋だと、気づいた。

 だが気づいても、告白は簡単になんて出来ない。

 思春期の子供はいろいろ複雑だ。

 自分で自分の気持ちがコントロールできず、いろんなことが上手く出来ない。

 告白しようとすると、結衣に逃げられた。

 さりげなく、交わされる。

 気持ちがばれているのかもしれないと思い始めた高校三年生の冬、優一はとある光景を見てしまった。

 たまたまいつもより早めに学校から帰ると、結衣が家に来ていた。

 玄関先の靴で、優一はそれを知る。

 その頃には結衣が優一の家に来ることは滅多になかったので、優一は驚いた。

 優一は18歳で、結衣はすでに成人している。

 二人とももう子供ではない。

 学校から帰っても、面倒を見てくれる大人は必要なくなっていた。

 だからこそ、久しぶりに結衣に会えることに優一は胸を躍らせる。

 思春期の照れくささが先立ち、こっそり結衣の顔を見ようと思った。

 隠れて、リビングの様子を覗きこむ。

 しかしそこで優一が目にしたのは、ショッキングな光景だった。

 結衣と父が抱き合っている。

 父は優しく結衣を抱きしめ、背中を撫でていた。

 その顔は今まで見たどんな顔より、優しい。

 何かを結衣に語りかけていた。

 結衣のことをどれだけ愛しく思っているか、優一には伝わる。

 優一は二重の意味でショックを受けた。

 父子家庭で育った優一は、なんだかんだいってファザコンだ。

 父を愛しているし、父に誰より愛されていると自負している。

 その自分の根底にある父の愛を、優一は信じられなくなった。

 自分より、結衣の方が大切なのではないかと、疑う。

 結衣にも裏切られたと感じた。

 結衣が自分を愛してくれないのは仕方ない。

 それに対して文句を言うのは愚かなことだと、優一にもわかっていた。

 愛されないことを嘆く女はたくさん見てきたので、そんな風にはなりたくないと子供の頃から固く心に誓う。

 だが優一にとって父がどんなに大切か知っていながら、自分から父を奪うのは あまりに酷いと思った。

 結衣の行動に、優一は傷つく。

 父のことも結衣のことも許せなかった。

 優一はそっとその場を後にする。

 家を出た。

 その日の遅くに何事もなかったように家に帰ると、進学のために上京して家を出ることを父に話す。

 感情に任せて家を飛び出したりしないあたりが、自分らしいと優一は思った。

 問題と向き合うのは怖い。

 父に結衣との関係を問い詰めることも出来なかった。

 だが、18歳の少年が一人で生きて行く大変さは優一にもわかっている。

 ちょうど受験で、いくつか受けた大学から合格通知が届いていた。

 大手を振って家を出る理由はある。

 優一はその中で一番遠い大学を選んだ。

 滅多に家に帰らなくても、不審に思われない場所で一人暮らしを始める。

 長期の休みもバイトがあるからと家に帰らなかった。

 そのまま二度と帰らないつもりだったが、そういうわけにもいかない。

 優一があまりに家に帰らないことに、父が痺れを切らした。

 帰らないなら自分が顔を見に上京すると言い出す。

 そう言われると、優一も弱い。

 父に怒りを覚えていたが、嫌いにはなれなかった。

 縁を切る覚悟はない。

 男手一つで育ててくれた父には感謝の気持ちもあった。

 渋々、年に二回は帰ることを約束する。

 年末年始とお盆には実家に帰ることにした。

 だがそれもたいていは一泊二日で直ぐに東京に引き返す。

 結衣には会わないようにした。

 そうやって、10年近くが経つ。

 優一は27歳になっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます