第107話 灯

 屏風はもう描くだけの状態になっているのに、菊の足は長谷川の工房に向いていた。

 時間が無いのに、どうしてなのかはわからなかった。誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない。それはあの戦闘的な絵師以外に居なかった。

 等伯はいた一杯いっぱい下絵したえを並べていた。

 横たわる釈尊しゃくそん枕辺まくらべに寄り添う阿難あなん尊者そんじゃ、天を突く沙羅しゃら双樹そうじゅ、嘆き悲しむ天人てんにんしゅ、弟子たち、そして様々な動物たち。あの、子犬を産んだ洋犬ようけんまで混じっている。

「これは又、大きいですね。」

 菊は驚嘆きょうたんした。

はんじゃ。」

 等伯は言った。

「久蔵の供養くように寺に納めようと思っている。」

 菊は涙ぐんだ。

 達丸も、久蔵の後を追うかもしれない。

「涅槃とはあちらの言葉でニルヴァーナ、といってな。吹き消す、という意味じゃ。煩悩ぼんのう妄想もうそうが無くなった、ということじゃ。これを描けばそうなるか、と思ったが、はて、なかなか消えぬもんじゃ。」

 ひとごとのように言った。

「しかし我ら絵師は、絵を描くことでしかいやされぬ。」

 ぐ菊を見た。

「お釈迦しゃかさまの最後の説法せっぽうをご存知ぞんじか。」


   なんじみずからをともしびとし、

   汝自らをよりどころとせよ

   ほうを灯とし、法をよりどころとせよ


「お釈迦さまは亡くなるとき、弟子にこうおっしゃったそうじゃ。自分の命は満月のようなものである、と。空に雲がかかって見えなくても、その向こうには必ず月があって、煌々こうこうと輝いている、そのように命は永遠に続いていくものだ、と。自分が去っても、教えをかてとし、誰かに照らしてもらうのではなく、おのれ自身で心に灯をともし、己の行く先を照らしていけ。自分が説いてきた教えは、自らを作り成す教えであり、己を形成しつつ他人を救っていく教えである、と。諸々しょじょしょうは過ぎ去るものである。おこたることなく、修行にはげめ、と。」

 この人は仏画ぶつがの絵師だった、と気づいた。

「ぬしの絵はわしの絵とは全く方向が違う。が、それでええんじゃ。」

 この人のしんにはいつも仏の教えがある。だからるぎ無いのだ。

おくするな。己の心の灯に従い、己の道を行くがよい。」

 菊はたずねた。

「たとえ結果がどのようになろうとも?」

「言ったじゃろう。武士から絵師になった者が多いと。刀を絵筆に持ちえたのじゃ。」

 古武士こぶしは言った。

たたかえ。これはいくさぞ。」



 帰り道、鴨川かもがわに差し掛かった。

 土手どてに立って、川を見つめた。

 戦が無くなって、河原はすっきりした。一時いちじあふれんばかりに建っていた流れ者たちの小屋は、いつの間にか姿を消した。そこここに転がっていた死体も片付けられて、死臭が漂うこともなくなった。

 太閤が御土居おどいを築いてからというもの、土手のあたりはくわが入れられた。御土居というのは高さ数メートル、底部の幅十数メートルの堤防ていぼうである。外側には数メートルの堀が設けてある。出入り口は十箇所かしょに設けられてあるが、都の内と外をへだてて、随分ずいぶん出入りが不便になった。

 けれどそれでも、岸辺に寄せる波は、昔も今も変わらない。

(あたしの本当の人生は、ここから始まったと言っていい)

 河原では、兵士の一隊が槍の訓練をしている。午後の日差しに照らされて、槍の穂先がきらきらと光っている。

 指揮官の号令に合わせて、幾筋いくすじもの光が宙を舞っているのを、見るともなしに見ていると、ふと、甲斐での暮らしが思い出された。

(松はよく、甲斐ではこうだったのに、ああだったのに、と言っていた。でもあたしは、そんなこと思い出したりはしなかった。思い出す暇さえ無かったのだ)

 甲斐のことを考えると、心の奥底がじんわりとれてくるのを感じた。

 全てが懐かしかった。

 何の心配もしていなかった。

 全てが平和だった。

 美しいもの、優しいもの、温かいものに囲まれ、そんな暮らしがいつまでも続くのが当然だと思っていた。

(あたしたちは清潔で美しい衣装を身にまとっていた。兄上たちのいくさ支度じたくでさえ、美しかった)

 兵士たちのよろいが泥や染みで汚れているのを見ながら、菊は思った。

 あれは血の跡かもしれない。

(兄上たちが、いえ伝来でんらいの鎧を身に纏い、名だたる馬にまたがって、戦場に向かう姿の、美しいことといったら)

 武田は強かった。

 戦に出ても、父や兄や、その馬回うままわりの者たちの鎧が血に染まることは無かった。

(だからあたしは本当の戦を知らなかった)

 でも本当の戦を知った今もなお、あの凛々りりしく華麗な武田の武者たちが、今でも何処かで馬を並べて駆けているのではないかと思ってしまう。

 そう、あたしの心の中でいつまでも、いつまでも生き続けているのだ。

 胸が痛くて、呼吸が出来なくなった。

 菊は耐え切れず、胸を押さえて、ひざを折った。

 ひたいを草原に埋めた。

 耳元でざわざわと風が鳴った。

(描きたい)

 焼け付くように思った。

 武田に居たときは、自分の描きたいものを思う存分ぞんぶん、描いていた。

 武田が滅んで以来、ずっとずっと、どうしたら客に気に入ってもらえるか、そればかり考えて描いてきた。

 そうしなければ生きてこられなかった。

 でも今、失敗すれば命が無いというこの仕事を引き受けた今になって菊は、自分の思い通りの絵を描きたいという欲求をどうしても押さえられなくなっていた。

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