第107話 灯
屏風はもう描くだけの状態になっているのに、菊の足は長谷川の工房に向いていた。
時間が無いのに、どうしてなのかはわからなかった。誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない。それはあの戦闘的な絵師以外に居なかった。
等伯は
横たわる
「これは又、大きいですね。」
菊は
「
等伯は言った。
「久蔵の
菊は涙ぐんだ。
達丸も、久蔵の後を追うかもしれない。
「涅槃とはあちらの言葉でニルヴァーナ、といってな。吹き消す、という意味じゃ。
「しかし我ら絵師は、絵を描くことでしか
「お
汝自らをよりどころとせよ
「お釈迦さまは亡くなるとき、弟子にこう
この人は
「ぬしの絵はわしの絵とは全く方向が違う。が、それでええんじゃ。」
この人の
「
菊は
「たとえ結果がどのようになろうとも?」
「言ったじゃろう。武士から絵師になった者が多いと。刀を絵筆に持ち
「
帰り道、
戦が無くなって、河原はすっきりした。
太閤が
けれどそれでも、岸辺に寄せる波は、昔も今も変わらない。
(あたしの本当の人生は、ここから始まったと言っていい)
河原では、兵士の一隊が槍の訓練をしている。午後の日差しに照らされて、槍の穂先がきらきらと光っている。
指揮官の号令に合わせて、
(松はよく、甲斐ではこうだったのに、ああだったのに、と言っていた。でもあたしは、そんなこと思い出したりはしなかった。思い出す暇さえ無かったのだ)
甲斐のことを考えると、心の奥底がじんわりと
全てが懐かしかった。
何の心配もしていなかった。
全てが平和だった。
美しいもの、優しいもの、温かいものに囲まれ、そんな暮らしがいつまでも続くのが当然だと思っていた。
(あたしたちは清潔で美しい衣装を身に
兵士たちの
あれは血の跡かもしれない。
(兄上たちが、
武田は強かった。
戦に出ても、父や兄や、その
(だからあたしは本当の戦を知らなかった)
でも本当の戦を知った今も
そう、あたしの心の中でいつまでも、いつまでも生き続けているのだ。
胸が痛くて、呼吸が出来なくなった。
菊は耐え切れず、胸を押さえて、
耳元でざわざわと風が鳴った。
(描きたい)
焼け付くように思った。
武田に居たときは、自分の描きたいものを思う
武田が滅んで以来、ずっとずっと、どうしたら客に気に入ってもらえるか、そればかり考えて描いてきた。
そうしなければ生きてこられなかった。
でも今、失敗すれば命が無いというこの仕事を引き受けた今になって菊は、自分の思い通りの絵を描きたいという欲求をどうしても押さえられなくなっていた。
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