第94話 切腹

 二月の末、千利休が死んだ。

 豊臣政権の『内々うちうちのことは利休が、公儀こうぎのことは秀長{秀吉の弟}が』仕切っていたといわれるほど権勢けんせいを振るった男の、突然の死だった。一月末に秀長が亡くなると、坂を転がり落ちるように失脚していった。

 台所で泣いている妙をんを、揚羽がなぐさめている声が聞こえてくる居間で、菊は慶次郎を迎えた。

 さすがの彼も憔悴しょうすいした顔をしていた。

「激しい雷雨にあられまで混じる大荒れの天気の中、居士こじの屋敷を取り囲んだのは、上杉の兵三千だ。居士の茶の湯の弟子の諸大名の中には、居士の身を奪って助けようとする者もいるのではないかといううわさがたっていたからだ。側女そばめが堺の亭主と一緒に、屋敷の裏からこっそり中に入り、居士を説得したが、無駄ムダだったらしい。関白は、あの女が何とかしてくれるのを期待していたんだ。びを入れさせるか、ひそかに逃がすか、何とか出来ないかと思ったんだろう。でも居士は腹を切ってしまった。」

「何で?何で、紅が出てくるの?」

「そりゃ、身内みうちだからさ。」

 慶次郎は、知らなかったのか、という顔をして、

「あの町で倉庫業をいとなんでいる連中は皆、納屋なやせいなんだ。あの女の亭主の家のほうが本家ほんけすじなんだが、先々代が亡くなった頃から没落していて、居士の家のほうが盛んになっていた。今ある店は、あの女と亭主が再興したってわけさ。もっとも、あんまり折り合いはよくなかったらしい。居士はあの女を『ぎつね』って呼んでたっていうし。親戚一同、亭主をたぶらかす悪女だと思っていたらしい。」

 何でも、と慶次郎は言った。

 あの女が、亭主と景勝、二人の男を天秤てんびんにかけているというので、利休が長老ちょうろうとして意見したところ、

『お二方ふたかたとも、この命をけて、大切に思っております。殿方とのがたなら、悪戯いたずらごころで大勢の女子おなごと関係を持っても何も言われないのに、女子なら、どんなに真剣にお付き合いしていても悪く言われるのは何故でございましょう。』

と、面と向かって反論したので、

「居士はさ。真面目まじめな居士には我慢ガマンならんような女だよな。」

「そうなんだ、知らなかった。」

「何が面倒メンドーって、これで戦に歯止はどめが無くなっちまったってことさ。」

 慶次郎が、真顔まがおで言った。

「俺の大伯父は、武田との戦の後、領地をもらうより茶道具が欲しかったと言って嘆いていた。何、ちっぽけな、どうってことない茶入れなんだけどな。そっちのほうが、関東の広大な土地よりいいんだとさ。鎌倉の頃から、武士は土地を得て、主人に忠誠を誓っていた。その価値観を根本から変えたのは総見院そうけんいん{織田信長}だ。あの男は古典の教養にうとかった。代わりに考えた価値観が、茶道具だ。分け与えられる領土には限りがあるから、戦いの褒美ほうびとして、いくらでも作れる茶道具、しかも、土くれみたいな地味なやつほど素晴らしいっていう価値観の太鼓判たいこばんを押してくれる居士みたいな存在は、土地を与えなくても部下を満足させる、上にとっては魔法の瓢箪ひょうたんみたいな便利な存在だったんだ。その、土くれから金を作り出す仕組みを、関白はつぶしてしまった。うなるほど金を持っていて豪勢ごうせいな屋敷に住んでいる連中の、究極きゅうきょくにたどりついた趣味を、卑賤ひせんな身分の出の関白が、結局理解しなかった、といえばそれまでなんだが。」

 ごろりと横になって、天井をながめた。

「これからは、部下の歓心かんしんを買う為には、土地を与えなきゃならない。でももう、奥羽まで制してしまった。与える土地が無いんだ。後は、土地を求めて海を渡るしかないだろう。いよいよ朝鮮、ひいてはみんとの戦が始まるぞ。」

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