第79話 朝霧
「何のお
松は姉を、
慶次郎の一件以来、姉に頭が上がらなかったけれど、これでようやく立場が逆転した。
「
信虎もきつく叱られて、
「あの爺さんにはいい『薬』だわ。これでちょっとは大人しくなるでしょうよ。」
松は満足そうに言ってから、
「それにしても達丸ときたら。
松は自分のことは
菊は何も言い返せなかった。
確かにあたしは達丸のことを見ていなかった、と菊は反省する。
でも、じゃあ、どうすればいいっていうの?首に
達丸は最近、
慶次郎のことも悩みの種だった。
彼と暮らすということは、
奥方が
『恋人』などという便利な言葉も無い時代だ。
『好き』というだけで、
強くて
実際、彼と街を歩いていると、遊女たちの
だけど彼の本質は。
彼の心は、深く深く傷ついている。
ならず者どもは、彼の心の傷口から流れる血の
(あたしは本当に、彼のことをわかっているんだろうか。お嬢さまが珍しい生き物を見るように、自分と育ちの違う人間に
でももし、二人が離れ離れになったら。
(彼は今度こそ、本当に
怖かった。
幼い頃、母に聞かせてもらったお
大きくなっても、自分の
側室は
(でも、今のあたしは違う)
現実は、全ての物語の
甲斐の
命があるだけでも幸い、と思えたのに。
今では、そんなこともすっかり忘れて、あれも、これも、一つ得られれば又もう一つ、と願い
あたしは何と欲深いことであろうか、と。
暗闇の中で、菊はふと、目を覚ました。
起き上がると、隣の部屋に通じる
引き戸を、なるべく音がしないように、そっと開けて、外に出て行く
菊も素早く
ひたひたと歩く自分の足音が聞こえそうで、菊は少し
彼女が歩くに連れて、霧の
その中に、先を急ぐ人影が、ぼんやりと浮かんでいる。
(全く達丸ったら、一体、
達丸はいつも、朝ご飯を食べようという頃になって、疲れきって帰ってくる。
手も足も、ドロドロになっている。
何処へ行っているの、と聞いても、
菊は最近、達丸がわからない。
(今日こそは、現場を押さえてやるんだから)
達丸は鴨川の川べりに出た。
深く
川辺には、大きな影が立っていた。
「おはよう。」
達丸が声をかける。
慶次郎だった。
手を挙げて挨拶を返すと、二人そろって茂みの中に入っていく。
素早く
春とは名のみの冷たい水の中に手を突っ込んで、何やら熱心に探っていたかと思うと、竹の
「わあ、すごい、すごい!」
達丸が歓声を上げる。
「やっと捕まえた、こいつがきっと
慶次郎も満足そうだ。
菊も何が入っているか知りたくて、つい身を乗り出してしまった。
ガサガサッと枯れた葦が鳴った。
達丸と慶次郎は同時に振り向いて、菊に気が付いた。
「叔母さま。」
達丸がニコニコしている。
「見て、すごいでしょう。」
黒光りする背をくねらせ、
「鯉は今、腹に卵を持っているんだ。脂が
慶次郎も子供のように笑っている。
達丸は
「こうやって描いておけば、いつ、どれだけ取れたか、後から見てもわかるよね。」
いつの間にこんなに上手くなったんだろう。
菊は達丸の
いつも側に居たのに、あたしは何も気づかなかった。それはあたしが、達丸を武将にすることしか考えていなかったからだ。
でもこの子の才能は……絵にある。
突然、バサバサッと音がして、三人は顔を上げた。
霧を破って、日の光が何本もの矢になって空を照らす。
朝焼けの空に、何十羽もの鶴が列を作って飛び立ち、
達丸が歓声を上げ、絵筆で、この光景を写し取ろうとしている。
「俺が漁をすると聞いて、ぜひ見たいから、と言うんで……。男の子って、狩りだの漁だの、
慶次郎が
何だか、誰かから伝え聞いたことを話しているようだ。
彼は、達丸に、誰かの姿を重ねているんだろうか、と菊は思った。
妻と子を手放した夫。
夫も子も無い妻。
父も母も失った子。
たとえ、世間一般の物の見方から外れた間柄であっても、この瞬間、心が通い合っていれば、その関係を、あたしは良しとしよう、と菊は思った。
たとえそれが、鶴が大空の
その日から菊は、達丸に武将になれとは言わなくなった。
代わりに紙と絵筆をたくさん与え、工房に好きなように出入りさせて、職人たちの仕事を見たり手伝ったりさせるようになった。
ようやく
当時、子供の
信虎は名だたる
そういうところには必ず、
信虎は宝物を見せてくれるよう頼み、達丸に
礼に、といって達丸に
達丸の言うところによると、
「お
という経過があって、信虎のほうも何がしかの礼をもらい、達丸は絵の勉強になって、
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