第18話-07 斬苦与楽



 日が沈む。

 ほの白く、月が夜天へにじみ出す。

 七色樫が墨の弾け散るようにこずえの影を伸ばす下、ふたりは静かに対峙した。

 片や魔王をその剣で斬り、生きた伝説となった剣聖、デクスタ。

 此方こなた快刀乱麻の活躍で、勇名響かせ始めた気鋭、緋女。

 この師弟のいずれが優っているか、しかと言える者がどこにあろう。緋女の構えは基本の正眼。対する剣聖は無造作に刀をぶら提げ無形の位。体勢の完成度まで五分と五分。このまま刃を交えれば、いずれかが生き、いずれかは死ぬ。その運命を予感させずにおかない緊迫した気配があたりに走る。

「お師匠様、おやめください」

 と、二番弟子ミラージュが水を差した。緋女にとっては、初めて聞いた妹弟子の声であった。

「無益です。お師匠様が勝つに決まっています。真剣勝負をする意味など……」

「ミラージュさん」

 デクスタの声色は、たしなめるでもなく、叱るでもなく、どこか優しげな、なだめるような響きがあった。

「心配ないわ。よく見てなさい」

 それが緋女には、むかむか来るのだ。

 妙に親しげな師と妹弟子の関係に嫉妬している、というわけではない。ただ、今は勝負の最中。剣士が一度「やる」と決めたことに口をはさむミラージュもミラージュなら、集中を解いてまで返事をしてやるデクスタもデクスタだ。ぬるい、と緋女には思えた。目の前にいるのは緋女だ。真剣を抜いた刃の緋女だ。侮っているのか? 片手間であしらえると思っているのか? 勝負の場では一瞬の油断で首が落ちると、剣士の心得を教えてくれたのは師匠なのに。

 ――ナメんじゃねーぞコラァ!

 緋女が圧縮した気迫を息に乗せて吐き捨てる。

 その一瞬で、あたりの気配が一変した。ミラージュの身が凍り付いた。デクスタの顔色が変わった。恐るべき剣気。三昧サマーディの境地――全神経を剣に集中させた究極の心理状態に、緋女はこの一瞬で没入したのだ。異変を察知した虫がひたりと鳴きやむ。夜風が肌をひりつかせる。月光までが息を飲み震えだす。

 デクスタの額に汗が一筋走った。

 “折り合いの首輪”に縛られた緋女は、三昧サマーディを常に維持しなければ動けない。だがそれは飽くまで入口の段階に過ぎない。自分の身体機能を把握するのと、戦場の全事象を掌握するのとでは格が違う。この段階へ至るために、かつての緋女は何十何百と剣を振り回すことを要した。試合の中で少しずつ気持ちを盛り上げ、ようやく精神を高みへ導いていたのだ。それが今やたった一呼吸ひといき

 ――ここまでやるようになったか、緋女。

 今の緋女には、デクスタの動きが髪の毛一本に至るまで掌中のことのように感知されているはずだ。そこへ磨きぬいた剣技が加われば、対手の動きにはことごとく先手を取り、仮に不意を打たれても即座に最適の返し技を放つことが可能。

 これ即ち、無敵。

 デクスタの知る限り、ここまでの剣境に至った人物は他にただひとりしか存在しない。

 剣聖デクスタ、彼女自身である。

 ――愉しみに待った甲斐があったわ!

 剣聖の眼が、ぎらりと光る。

 固唾を飲んで見守るミラージュの前で、剣の師弟は睨み合い……

 

 刹那、

「うわッ!?」

 叫ぶミラージュの眼前で巻き起こる旋風。矢よりも音よりも速い、光、としか思えぬ太刀の一撃が左右から激突し火花を散らす。闇夜へ響く剣戟の声。渦巻くように互いの剣が絡まり圧し合い弾かれ合って、ふたりは土砂を蹴散らし互いに後退、間合いを置いて再び睨み合う。

 唖然とするしかない。

 ミラージュとて腕には覚えのある女。世間では若き天才などともてはやされたこともあるのだ。その彼女にさえ、全く見えなかった。ほとんど人間の領域を超えつつある速度でのぶつかり合い、その余波が辛うじて捉えられただけだ。

 見れば瞬きひとつほどの間に、緋女はすっかり息が上がっている。おそらくこの一瞬に何十合も刃を交わし、神経をすり減らすような駆け引きを繰り返したに違いない。

 一方の剣聖デクスタはいまだ涼しい顔。構えの時点では互角に見えたが、実のところは力の使いかたに差がありすぎる。同じ動きは可能でも、体力の消耗は緋女の方が数段大きい。

 それでも――行く!

 意志を剣に込め緋女が走る。狙いは胴。が、これは悪手。いきなりの胴打ちは大ぶりすぎる。勝負を焦っての一撃必殺狙い、その浅はかさを師の剣は的確に咎める。神速の打ち下ろしで緋女の剣を弾き落とし、そのままの勢いで緋女の小手へ切先を打ち込む。

 勝負あり――と思われたその時、太刀の軌道から緋女の手が消えた。

 剣を弾き落とされた勢いを逆利用して素早く腕を下げ、小手打ちを避けたのだ。しかも、いつのまにか緋女の構えが下段に切り替わっている。

 狙いは……

 ――足斬り!? 卑怯!

 ミラージュが眼を見開く。

 ――いや、うまい!!

 デクスタの脳裏に戦慄走る。

 かつて緋女に敗北を味わわせた巨人戦士ゴルゴロドン、彼に教わった異色の技がデクスタの足に喰いかかる。不意を打たれたデクスタは小さく跳躍、太刀の上を飛び越えてこれを避けるが、この対応こそまさに緋女の狙うところ。いかなる達人であろうと地に足が付いていなければ回避は不可能、打ち込みにも力は乗らない。今や無防備となった空中の剣聖へ、緋女の掬い上げるような一撃が襲い掛かる。

 が!

 と、鈍い音が暗闇へこだました。

 全てが終わった後、月明かりの中へ浮き出てきたのは、ひとつの彫刻のように絡み合い、ぴたりと静止した師弟の姿だった。

 渾身の力を込めた緋女の一撃は、師が振り下ろした太刀によってあえなく横へ弾かれ……

 師デクスタの剣は、わずかに緋女の肩口を捉えそこない、紙一重で空を斬っていた。

 引き分け、である。

 沈黙。

 示し合わせたように同時に飛び退き、互いに感嘆の溜息を送り合う。

 今デクスタが使ったのは、穿天流“体”の奥義“浮島斬り”である。基本的に対魔獣を想定しているこの流派に甲冑の弱点を狙う足斬りの技は存在しないが、相手から仕掛けられた場合の対処法は伝えられている。そのひとつがこれ……体裁きの妙によって、どのような不安定な体勢からでも、どのような不安定な相手に対しても、充分な威力の剣を繰り出すことができる。極めれば、地に足のつかぬ空中からでさえ緋女の剛剣を弾き返してしまえるのだ。

 無論、門弟である緋女も同じ技を会得している。師がこの奥義で反撃に出ることは読めていたはずだが、それでも仕掛けたのは剣速で押し切る自信があったから。あのタイミング、あの踏み込みなら回避は不可能のはずだったのだ。

 つまりこれは、純然たる技の練度と精度の差。緋女もまだ、剣聖デクスタの領域には一歩及んでいない……のこと。

 悔しさを奥歯で噛み潰す緋女へ、デクスタが向けた微笑みは、慈母の如くに優しかった。

「悔やむことはないわ。いい攻め手だった。この5年、あんたがどんなふうに頑張ってきたか、剣を見ればすぐ分かる。

 よく、よくここまで……」

「ごめん。あたし、勝手ばっかして……」

「それが嬉しいのよ。あたしが教えた以上のことを、あんたはこの世界から学んでくれた。これならもう、何も心配することは……」

 と。

 そのときだった。

 にわかにデクスタの言葉が途切れ、その顔面が土気色に変じた。ミラージュが小さく声をあげる。緋女はわけも分からず立ち尽くす。ふたりの弟子の目の前で、デクスタは急に、血を吐いた。

「お師匠様ッ!!」

 悲鳴を叫んでミラージュが駆け寄る。抱き支える。膝をつかせる。激しく咳き込み、喘ぐデクスタ、その口から真紅の、火のように熱い鮮血が、二度も、三度も走り出る。妹弟子が師の背をさすり、勇気づけようと懸命に呼びかけているのを、緋女はただ茫然と見下ろすことしかできない。

「何をしている!」

 ミラージュが緋女へ一喝した。

「水を汲んで来いッ! 貴様、一番弟子だろうが!!」

 あっ……と我に返り、太刀を放り捨てて緋女は駆けだした。すぐさま戻った緋女の手から、ミラージュは水差しとカップをひったくる。ようやく咳の落ち着いたデクスタに一口含ませ、うがいをさせ、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて飲ませてやる。

 緋女はなすすべもなく立ち尽くし、やがて、震える拳を握り固めた。

「師匠、病気……なのか」

 答えはない。

「だから勝負を止めようと……?

 だからあんな言い方を……!

 ……いつからだ!?

 テメーっ……あたしが旅立つ前から悪かったんだな!? 師匠ッ!!」

 デクスタは血をぬぐい取り、血の気の引いた顔に、しかし強がり笑いを浮かべる。

「しかたなかったのよ。

 いつかあたしの元から卒業させなきゃ、と思ってた。でも知ってしまえば旅立てなくなる。あんた、優しいからね……」

 見上げる恩師のまなざしが、緋女の心をくちゃくちゃにする。

「騙してたことは事実。

 ごめんね……緋女」

 剣聖が。魔王をその剣で斬った女が。土をも融かす業火の中から緋女を救い出した勇猛の士が。何度打ちかかっても、どれほど懸命に挑んでも、まったく歯が立たなかった無敵の師匠が。緋女の意識に10年ものあいだ壁として立ち塞がり続けた偉大な目標が。この世の他の誰よりも、いちばん尊敬しているひとが。

 こんなに弱々しく。

 こんなに隙だらけで。

 緋女の眼に、しおれた本音を晒している。

 緋女はもう立っていられなくなり、崩れるように、デクスタの目の前へ座り込んだ。

「……いいよ。許してやる」

 固く閉じたまぶたの裏に、浮かぶものは旅の想い出。

「この5年間、いろんな人と話して。戦って。一緒に暮らして……ちょっと分かった。

 人間はみんなウソつきだ。

 悪いやつは、酷いウソを……

 いいやつだって、優しいウソを……

 他人をだまして。

 自分をだまして。

 どうにもならない困りごとに、ギリギリのところで都合をつけて。

 それでどうにか、生きてる」

「幻滅した……?」

 緋女は首を横に振る。

「それでもあたしは師匠が……この世界が大好きだ」

 師の口から、こぼれるものは安堵の微笑み。

「……いい出会いをしてきたようね」

 よっ、と気合を入れて、師が身体を起こした。転がっていた愛刀を拾い上げ、月光に照らして刃の具合を確かめている。戦いを続けようというのだ。勝負の続きをやろうというのだ!

 慌てて止めにかかるミラージュを押し退け、デクスタは口の中の血塊を吐き捨てた。緋女に向かい、師の威厳そのままに問う。

「答えを聞こう。

 あんたは何故、剣を振る」

 緋女もまた立ち上がり、己の刀を掴んで応えた。

「苦を斬り、楽を与えるために」

 互いを見据えて構えを取る。五体の機能、五感のはたらき、それらを超えた森羅万象への理解、すべてを太刀というひとつの筋へ集約する。今や己と世界に区切りはなく、彼と我とに境はない。かつて言葉を持たなかったころ、ただ本能によって身を置いていた境地へ、緋女も、デクスタも、深く深く沈み込んでいく。

 確信があった。

 おそらくこれが、最後の

 万感の、思いの果てに――

 走る。

 デクスタのといが夜気を裂く。緋女のこたえ明々あかあか燃える。師弟の刃が交わり絡み、微かな苦悩の軋みが走り、その直後。

 一方の刀が、真っ二つに折れ飛んだ。

 デクスタの、剣聖の巧技を乗せて打ち込まれた剣が。

 愕然としたのは緋女の方。信じられぬものが目の前にある。

 緋女の剣の刀身から、目もくらむような緋色の炎が灼灼と燃え上がっていたのだ。

 この炎のが、師の太刀をき斬った。その色に、輝きに、そしてなにより肌にチリつく熱量に、緋女は覚えがあった。

 ――まずい!!

 背筋を駆け抜ける悪寒。脳裏に蘇る最悪の記憶。緋女は奥歯を噛み締めながら総身の力を剣に注ぎ、刃の走りを引き止めんとした。もういやだ。意思がほとばしる。もう二度と! 魂が叫ぶ。二度と真情こころき棄てたくない!

 ――それが生きるってことだろ! 游姫ユキ!!

 一瞬の葛藤、その後に。

 緋女の最後の一撃は、師デクスタの喉……その一寸手前で静止した。

 ――止まっ……た……

 脂汗まみれであえぐ緋女の目に、刀身の炎が揺らぎ映った。役目を終えた“ローア”の火は、たちまち薄れ、夜風の中に溶けていく。

 その一部始終をしかと見届け、デクスタは口許に痛快の笑みを浮かべる。

「見事よ、緋女……」

 そして再び血を吐き、倒れた。

「師匠!?」

「お師匠様ッ!!」

 ミラージュが泣き出す。緋女が駆け寄り抱き起す。ふたりの愛弟子が懸命に呼びかけてくれる声を聴きながら、剣聖デクスタは静かに――眼を閉じた。

「師匠……?

 師匠っ……

 師匠ォォ―――――ッ!!」

 慟哭は夜空を駆けた。雲を越え、星を越え、果て無き宇宙の暗闇さえもついに尽き果てる無限の彼方まで。



(つづく)

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