第16話-10 さよなら、パストラール



 ヴィッシュは目を開いたまま夢を見た――それが夢と呼べるなら。おぼろげな意識で暗い宿舎の壁を見つめながら、同時にそこに幻を見ていたのだ。追憶と現実が選り分けようもなく混ざり合い、次々に目の前に現れる。手を伸ばせば触れられるほどの存在感で。

 ヘルムートとドミニクが取っ組み合いの大喧嘩を始めた時。命懸けでヴィッシュが割って入り、ふたりをひざまずかせて訓戒していたら、そこにナダムが乱入して茶化して踊ってめちゃくちゃにひっかきまわしていったっけ。

 小兵のピッケバッケがルーニヤに惚れて、公衆の面前で愛を打ち明けたこともあった。「私に勝ったらやらせてやる」なんて返されて。もちろんぎったぎたに叩きのめされた。あれから20回は挑戦を繰り返していた。勝てたことはないけれど、その根性をルーニヤも憎からず思っていたらしかった。

 アランには手がかかった。身体が弱すぎて、訓練しても体調を崩すばっかりで……だが誰よりも真剣に国の未来を憂えていた。故郷を守るために必死で戦っていた。その志が無性に好ましかった。ナダムとふたりがかりで、慎重に丁寧に稽古をつけてやったものだった。そのかいあってか少しずつ彼も成長していった。

 メイルグレッド! 彼女が入隊してきたときは参った。漆を流したような美しい黒髪の下で、朝露に濡れた野の花のように愛らしい瞳をきらめかせて、ヴィッシュをぽうっと見つめてくるのだから。とどめに「よろしくお願いいたします、勇者さま」だって。あのあと夜明けまでナダムにからかわれ続けたのだ――

「俺は勇者なんかじゃないよ」

 宿舎の書き物机で作戦計画書と格闘しながら、ヴィッシュは溜息を零した。ナダムは2段ベッドの上で仰向けになり、呑気に酒香木ワインウッドの小枝を噛んでいたが、それをチョイとつまみ取って、ヴィッシュの方に差し下ろしてきた。

「乙女の憧れを無闇に蹴散らすもんじゃねえぜ」

「俺はお前みたいにはできないよ、ナダム」

 小枝を受け取り、口にくわえる。奥歯でひと噛みすると、葡萄酒に似た微かに甘い香りが、口いっぱいにふわりと広がってくる。心に重く圧し掛かっていた気後れが香気に溶け流されていくようだ。

「女遊びの話じゃねえ。勇者のことだ」

「どういう意味?」

「ガキの頃からずーっと考えてきたことがあってさ……」

 ベッドの縁にあごを預け、ナダムは優しく微笑んで見せた。

勇者ヒーローの条件って、なんなんだろうな?」



 記憶が途切れ、混乱する。脳の中を砂嵐が吹き荒れていく。身もだえするほど不愉快な雑音が耳の奥で響き、それが収まった時、ヴィッシュの追憶はがらりと場面を変えていた。

 石畳の整備が間に合っていない、土むき出しの凸凹道。

 建設途中の石壁、雨ざらしのまま立ち並ぶ木の柱、雑草ばかりがのさばる空き地。

 そこを行きかう職人の、軍隊を思わせる勇ましい掛け声。商機を逃すまいと駆け回る商売人。荒々しく石くれを蹴散らしていく荷馬車の列――

 ここは第2ベンズバレン。10年前、まだ着工から間もない時期の。未完成で、異形で、そのくせ火傷しそうな熱気に溢れた混沌の都。

 その片隅の道端の、先日の雨でできた泥だまりの中に、ヴィッシュは膝を抱えて座っていた。

 何日も、何日も、そうしていた……

 毎日のように新しい建物ができていく。毎月数千の人間が流れ込んでくる。一年もすれば見違えるほどの大都会になるだろう。むせかえるように濃密な生命の息吹。血潮さながらに躍動する人々。中には親切な通行人もいて、ヴィッシュの足元に、数枚の貨幣を放ってくれた。

 生きよ、と、ちっぽけなコインが囁いていた。

 どうでもいい。

 心の底から――どうでもいい。

 転がされたままにしていたコインは、翌朝、他の誰かが抜け目なくさらって行った。

 それでいい。欲しい者が持っていけばいい。生きればいい。この世界には生きたい者だけが生きるべきだ。希望を失くした自分は、もう立ち直る気も失くした自分は、このまま道端で、ごみのように座り込んだまま、漫然と死を迎え入れればいい。

 ヴィッシュは目を閉じ、膝の間に頭を埋めた――

 ある夕暮れ、けたたましい鴉の叫び声で目が覚めた。僅かに頭をもたげ、ヴィッシュは空を見た。紺と朱の狭間で不安げな紫色に波打つ空。その中で2羽の鴉が格闘していた。激しく絡み合い、ぶつかり合い、小さな黒いくちばしに殺意を籠めて、剣のように戦わせていた。

 やがて1羽が敗れ、墜ちた。

 ヴィッシュの正面、道を挟んだ向かい側の泥の中に。

 負傷した鴉は、無様に喘ぎながら、しきりに翼と脚をばたつかせていた。だが、流血するほどに傷ついた翼だ。飛べるはずがない。無駄なあがきだった。

 ヴィッシュはじっと、鴉がのたうつさまを見た。

 やがて鴉は動かなくなり、泥の中で丸くなった。

 ヴィッシュもまた、目を伏せた。納得と安心の闇の中に、己の意識を埋没させて。



   *



 ミュートは廃城の尖塔の上にだらしなく座り、そこから《骨剣》を投げ下ろした。城の中庭では、ぴったり16人のが狂ったように逃げ惑っている。周囲を石壁に囲まれ、門や壁の裂け目は《骨剣》の棘にはばまれ、それでも人々は生き延びる希望を求めて駆け回る。絶壁にすがりつく。よじ登ろうとする。肌身を引き裂かれること覚悟で棘の垣根の隙間に身体を滑り込ませていく者もある。そこへ頭上から《骨剣》が来る。背中から串刺しにされる。頭蓋が真っ二つに割れる。左足を失くし泣き叫ぶ少女にはとどめの一撃が降り注ぐ――

「あっ! 逃げんなよ逃げんなよ……逃げるとあたらないだろーっ」

 ブツブツ文句を垂れながら、ミュートは撃つ。撃つ。ひたすら撃つ。

 意味などない。ただの遊びだ。暇つぶしだ。

「っしゃ! おらっ! はい楽勝ー!」

 ついに標的を全滅させて、ミュートは握り拳を高々と突き上げた。大急ぎで脇に据えておいた蝋燭をもみ消す。燭台をつまみ上げ、じいっと水平に蝋燭を見る。あらかじめ目盛りを刻んでおいた蝋燭に火を点け、燃えた長さで時間を計っていたのだ。

「あ―――――! 惜っしい―――――! 自己ベスト更新ならずっ! ハハハ……」

 誰にも祝われず、誰にも慰められず、誰にも咎められず、ミュートはひとり、笑っている。

 泣きながら、泣きながら、笑っている。



   *



 緋女は、血の滴る生肉に豪快にかじりついた。口を閉じてもぐりもぐりと吟味して、飲み下してから、うん、と頷く。

「けっこういけるぜ、これ」

「たくましいことで……。」

 カジュが《光の矢》を飛ばながらげっそりと顔をしかめた。緋女が味見しているのは、背後に積み上げられた魔獣の肉である。蛸とエビと狼を足して皮膚を裏返しにしたような不気味な代物。カジュなどはとても食べようという気にならないが、緋女に言わせれば、腹が減っては戦はできぬ、である。

「で。腹ごしらえ済んだなら交代してよ。」

「OK、休んでな!」

「はーどっこらしょ。」

 カジュが後ろに下がって座り込む。その背に魔獣が飛びかかる。が、代わりに前へ進み出た緋女の太刀が、一撃でばっさりと魔獣の首を斬り落とす。

 ふたりはもう丸一日以上、交代で休憩しながら、無限に湧き出る魔獣と戦い続けているのだ。

 この異世界から脱出することは不可能。できることはがミュートを倒してくれるまで耐えることだけ。カジュの調査でその結論に達した。

 だから戦う。

 1分でも、1秒でも長く。

 悲壮感はまるでない。不平不満も。後悔も恨み言も。

 緋女とカジュにあるのは、計画と行動。それのみ。

「オラァー! かかってこいやァー!」

 元気よく挑発する緋女に、新手の魔獣が殺到する――

 緋女の大暴れを音楽のように聞き流しながら、カジュは、つん、と爪先で魔獣の死骸をつついた。確かにおなかは減っている。背に腹は替えられぬ、という言葉もある。うーん、と唸って腕を組む。

「……火を通せばなんとか……。」



   *



 夜の暗闇が、深く、深く、世界を包む。ヴィッシュはまだ夢の中にいる。

 現在が見えた。静かで安らかな孤独。

 過去が見えた。優しく甘やかな仲間たち。

 死に絶えた街の兵舎の壁と、遥か昔に失くしたかけがえのない友達の笑顔が融け合い、そこに、1羽の鴉が紛れ込む。頭が痛い。耳の奥でキンと不愉快な高音が響き続けている。ヴィッシュは目を開いた。鴉がいる。倒れている。自分は何を見ているのだろう。現在でもなく、過去でもないなら、これは。

 あの鴉だ。

 不意にヴィッシュの意識が覚醒した。

 そうだ。あの日。第2ベンズバレンの泥の中で迎えた朝。

 鴉が動き出した。

 ゆっくりと差し始めた曙光を浴びて、傷ついた鴉が頭をもたげる。朝日を見つめ、空を見つめ。自分がそこにいるということに今初めて気づいたとでも言わんばかりに、戸惑い気味に視線を振る。白い光が徐々に翼を温めていく。

 鴉が揺れながらもがいた。

 立ち上がろうとしているのだ。泥の中に足をつき、重い身体を支えようとしているのだ。

 まるで太陽に戦いを挑むかのように。

 よろめき、ぐらつき、たたらを踏んで、しかし鴉は、立ち上がった。

 2本の脚のみで泥の底から自分自身を押し上げた。

 ヴィッシュは思わず身を乗り出した。目が離せなくなっていた。彼が見つめる前で、鴉は大きく羽を広げた。羽ばたいた。あの傷ついた翼では飛べるはずもないのに。傷口はいまだ塞がらず、血さえ乾ききっていない。血飛沫ちしぶきむごく飛び散り、土の上に斑点模様を描きだす。だが鴉は諦めない。羽ばたく。できるはずだ。俺は飛べるはずだ。闇色の眼が力強くそう主張していた。

 いつしかヴィッシュは拳を握り締めていた。

 手の骨が震えた。食い縛った歯がきしんだ。眼は涙の海に没していた。ヴィッシュは鴉を見守った。がんばれと、負けるなと、飾ることもできない素のままの言葉が彼の口を衝いて出た。聞こえたのか? 声が届いたのか? 鴉が、ぐん、と躍動した。

 飛んだ。

 鴉はついに地を蹴り、飛び上がった。太陽へ。真っ白な朝日の中へ。恐れも知らず挑みかかって行った。漆黒のはずのその全身が、白紫に燃えていた。

 やがて鴉の姿が空の果てに融けて消え。

 気が付けば、ヴィッシュは、立ち上がっていた。

 立っている自分に驚き、そして――



「正義ってやつは難しい。

 何が正しくて何が間違いか。そんなのは人によって違う。正義と正義がぶつかり合うこともある。正義のつもりでしたことが他の誰かには最悪だってこともある。口うるさく他人の正義にケチ付けてくる奴もいる。とかくこの世はめんどくさい……」

「分かるよ。魔族にだって魔族なりの言い分はある。そういうことだろ」

 ナダムはゆっくりと頷いた。

「だから正義を行うやつは、友達なんか持てねえのさ。信じられるのは自分の胸にある愛と勇気だけだ。共に戦う仲間たちは友達じゃねえのか? まあ世間流に言えば友達かもな。でも、だからといって大目に見たりはしない。もし悪に染まったのなら、

 分かるか? 勇者ヒーローは本質的に孤独なんだよ」

 いつのまにかヴィッシュは書き物の手を止め、ナダムの話に聞き入っていた。酒香木ワインウッドの枝も脇に置き、じっと彼の目を見つめた。ナダムの期待が、信頼が、希望が、彼の目を通じてヴィッシュに流れ込んでくる。

「つまり――勇者ヒーローってのは、ひとりで戦う者を言うのさ」



 ――

 暗い宿舎の中で、ヴィッシュは茫然と立ち尽くしていた。過去が、未来が、現在いまの自分と共にある。追憶の残響が脳の奥で囁いている。ナダムの声が遠く、しかし確かに彼の中にある。

け。お前ならできるさ」

 ヴィッシュは宿舎の入口に立った。いつのまにか長い夜は明けていた。朝日が東の屋根の上からまっすぐにヴィッシュの目を刺した。だが彼はもうひるまない。逃げない。右手で剣の感触を確かめる。左手で鎧の乱れを整える。

 肩越しに兵舎の中を振り返ると、そこに、白い埃がゆったりと舞い、まるでヴィッシュを見守っているかのよう。

「さよなら、みんな」

 安らぎに背を向け、太陽に挑む。

「――ちょっと世界を救いに行ってくる」



(つづく)

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