外伝-02(終) 恋人に、メリークリスマス!
実験室は、かつて一夜を明かしたあの雪山よりも冷たく、これまで過ごした幾千の夜よりも深く静まり返っていた。
ひとり、ガラス器を手早く組み立て、薬品を調整し、ピペットで汲み上げては並べた容器に注いでいく。反応を起こす前に手早くレーベンス処理をせねばならず、その際の分圧比には有効数字3桁目の誤差さえ許されない。簡単に見えて、実はかなり微妙な操作を要求される実験だ。とはいえ、カジュの卓越した技術を以ってすれば――
カジュはもう気づいていた。
昨夜あれほどロータスの技に感動したのに、今となってはあれがただの児戯に過ぎなかったとはっきり分かる。美の魔法使いと呼ぶべきひとの技術は、おそらくあんなものではないのだろう。もっと崇高で、恐ろしくスマートで、素人目には凄みがさっぱり分からないほど、はるか高みに存在するもののはずだ。
今、カジュが自らの手で進めている作業のように。
リッキーが戸をあけて入ってきたことには気づいていた。だが彼女は無視した。何を喋っていいか分からなかったし、何か喋りたい気分でもなかった。
「手伝おっか?」
呆れ半分に目を細めて、リッキーが言う。カジュは振り向きもせず、
「どういう風の吹き回し?」
「こないだ世話になったお返し」
「殊勝な心がけだね」
カジュは肩をすくめる。
「でも、いいよ。セットしちゃえば計測は1時間おきだし。あのときの貸しは、もっと大事なときに返してもらうから」
「大事なときって」
責めるような言葉が、背中に痛い。
リッキーは溜息まじりに言った。
「……どうかしてるよ」
「いつもどおりだよ」
「いつものお前なら『こんなのやらされる筋合いありませんが何か』くらい言ってるよ!」
カジュの手が止まった。
単に実験操作が終わってしまっただけだ。彼の言葉に打ちのめされたわけではない。
だが、手持ち無沙汰になってもなお、彼女は振り返りもしなければ、言葉を返しもしなかった。
「ほんとにいいのかよ? クルス、楽しみにしてたぞ。お前だって」
「行ってきなよ。ロータスと約束してるんでしょ」
それっきり。
ふたりの間に、言葉は無かった。
リッキーの姿は消え、カジュは椅子に腰掛け、読書しながら暇を潰した。
定期的に計測を行い、実験ノートにペンを走らせ。
僅かな仕事を終えると、また本の世界に没頭した。
夕日を浴びながら、ひとり。
*
器具を片付け、実験ノートを職員室に提出し、誰もいない渡り廊下を戻るころにはもう、半分近く欠けた月が東の山裾から昇り始めていた。
もうじき夜半を迎える。クリスマス・イブが過ぎていく。もう少しで時間切れ。もう少しで終わる。もう少しで――
――もう少しで、解放される?
溜息をついて、カジュは窓におでこをくっつけた。冷気が肌にはりつくようだったが、その寒さも罰として受け入れた。
――カジュは、ずるい。
と。
窓の向こうで、夜空にふわりと飛び上がる小さな人影があった。《風の翼》の術だ。背丈からして生徒らしい。じっと目を凝らし、それがよく見知った人物であると気づいたとたん、カジュは駆け出した。
長くもない足を懸命にばたつかせ、慣れない運動に息を切らせて、中庭に飛び出すと、
「《風の翼》っ」
不可視の翼を羽ばたかせ、少女は夜空に舞い上がる。
澄み切った空。
張り詰めた
さざなみのように心ばかりが
ついに彼の姿を見出した。
鯨の背のような丸みを帯びた屋根の上に、彼はいた。クッションを敷いて、膝を抱えて、毛布に肩を包んで、じっと、街のほうの空を見つめているようだった。その後ろにカジュは降り立った。
降り立って、黙った。
この
でも、彼もまた、何も言わない。
その沈黙に導かれ、カジュは囁くように、呼んだ。
「クルス」
クルスが振り返る。いつもどおりの無表情で。
「やあ。」
「……ごめん」
彼はまた、自分の仕事に戻ってしまった。闇を見つめるという、大切な仕事に。
「もういいよ。」
「そうじゃなくて」
言葉に詰まった。何をためらう。なぜここまで来た。言うなら今しかない。言わなければ生涯悔やむことになる。そんな気がする。だから、
――行けっ!
「邪魔が入って、今日、行けなくなって、カジュは……ほんとは……ほっとした」
クルスは何も言わない。
「誘ってくれたのは、うれしかった。でも、何していいのかわかんなくて。何が起きるのか、わかんなくて。怖くて……カジュは、逃げた。
だから、ごめん」
白い息が、カジュの頬を包み込む。
「寒いでしょ。」
振り返ったクルスは、微笑んでいた。
「おいでよ。ひとりぶんしかないけれど。」
そう言って広げて見せた毛布と座布団は、確かに、ひとりぶんしかなかった。
*
いかにからだの小さいふたりとはいえ、ひとつしかないクッションを共有し、一枚しかない毛布を纏うとあっては、吐息がかかりあうほど密着するしかない。遠慮したせいでおしりがクッションからずり落ちそうになり、クルスの腕がそれを支えてくれる。腰に回された手の感覚にからだが熱くなり、同じように相手の体温も上がっていき、ぬくもりは混ざり合って融合した。ふたりはひとつのものとなって、四つの目で、同じところを眺め続けた。
「……ごめん。」
彼の息が耳をくすぐる。
「実はボクも……。ほっとした。」
訝るカジュに、クルスは苦笑する。
「わからなかったんだ。何していいか。」
「なんだそれ?」
「だいぶん勇気を出して、誘ってはみたんだけど。」
「無計画!」
「耳が痛いよ。」
イタズラ心が起こり、カジュは、がぶりと彼の
「痛。」
「おしおき」
「受け入れよう。」
「なんだ、偉そうに」
「虚勢を張っているんだ。」
ふたりは笑った。
ふたつの口から発してさえ、笑い声は、ひとつだった。
そのとき、遠くの空に光の花が咲いた。
わあっ、と思わずカジュは声を挙げる。クルスはこれを待っていたのだ。そういえば、誰かが噂していた。夜には街で花火が挙がると。それを一緒に見た男女は、永久に想いがつながりあうとか、なんとか、それらしい伝説があるのだと。
伝説なんてあてにならない。そんな都合のいい魔術が、そんじょそこらにあるものか。
そうは思うが、しかし。
隣を見れば、クルスの瞳の中に、色とりどりの花火が
「ねえ」
「うん。」
「“好き”って、具体的にどういうことかな」
「うん……。ぜんぜん分からない。」
光。遅れて、音が届く。
「ねえ、クルス」
「うん。」
「カジュは……。」
口をでかかった言葉は、花火の音にまぎれて消えて。
かわりに、後ろから招かれざる客が現れた。
「イッエ―――――ッ!! メッリークリッスマァース!!」
ぼぱぱぱぱん! ぼぱぱんぱん!!
いきなり背後で乱射されたクラッカーに、カジュは思わず飛び上がる。こんなバカなことするバカはあのバカしかいない! 振り返れば、リッキーのバカがひとりで4本もクラッカー握ってバカみたいな奇声を挙げている。いや、バカみたいなのではない。バカだ。
「なんだよキミは!」
「なんだキミはってか! そうです! わたしがサンタさんです!」
「酔ってんじゃねえのか」
「酒に頼るよーな
後ろから《風の翼》でふわりとやってきたのはかわいらしいコート姿のロータスで、手にはごちそう山盛りのバスケットが提げられている。声も無く、彼女がはにかむ。
「あの……あの……うん」
「何も言わないのかよ」
「よっしゃああああ! クリスマスパーティじゃああああ! やろうども!!」
「誰がやろうどもだ」
「めりくりーっ!」
「……………!」
リッキーに呼ばれて次々に屋根の上へ登ってきたのは、見慣れた顔のクラスメイトたちだった。デュイ、アニ、オーコン、その他3、4人。わらわらとひしめき合って、烏合の衆がガヤガヤやりはじめる。飲み物の栓が音を立てて弾け、ローストした肉とふかふかプディングをカラスのようにむさぼりだす。
「よーし食え食え!」
「はいめりくりーっ!」
「何回目だー」
「メリクゥール!!」
「メリクリウス・アントニヌス!!」
「メリクリウス・アントニヌス・テオッドトス!!」
「誰それ」
「知らねーのかよ!!」
「知るよしもねえよ!!」
隣でクルスが笑っている。カジュは広いおでこに血管浮かす。
「あ――――も――――おまえらうるせ――――っ!」
「申し訳ねえええええええええ! お詫びのしるしに肉どうぞ!」
「食べるけど!」
「あ、花火!」
「たーまやー!」
「かーぎやー!」
「炭酸ストロンチウムー!」
「きれい……」
「じゃああれは?」
「
「からの、巨人鋼。」
口を挟んだクルスに、周囲がおおっと声を挙げる。巨人鋼の炎色反応なんてそういえば見たことなかった。
「また来た!」
「硝酸バリ、と酸化銅?」
「はい質問! 配合比何対何でしょー!」
「知るかっ! 6:4くらいでしょ! 誰か分光分析してよ!」
「無茶言うなー!」
ぜんぜん中身のない大騒ぎの輪から外れて、カジュは大げさに溜息をついた。横ではクルスがくすくす笑っている。睨んでやる。悪戯な微笑が返ってくる。
カジュは彼以外の誰にも聞こえぬように、騒ぎにまぎれて、囁いた。
「メリークリスマス」
応えもまた、ふたりだけのセカイの中に。
「メリークリスマス。」
With all Good Wishes for Christmas
and a Happy New Year!
■次回予告■
山に面倒な魔獣が湧いた。依頼を受けて討伐に向かうヴィッシュたちであったが、時には悪い日もあるもの、どうにも意見が噛み合わない。小さなしこりを抱えたまま仕事にかかる3人に、予想外の敵が襲い掛かる。果たして彼らは、この難局を乗り切ることができるのか?
次回、「勇者の後始末人」
第11話 “齟齬+疎通”
Conflict // Communicate
乞う、ご期待。
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