■後記
後記
空は、野晒しの車軸から剥がれ落ちた鉄錆の色だった。
ドース百連丘陵へは、普段の足なら3日、馬を乗り継げば1日というところだ。だが街道は敵の布陣によってズタズタに分断され、ヴィッシュたちは険しい山越えを余儀なくされている。鎧を脱ぎ捨て、武器は軽いナイフ一本きりに絞り、可能な限り身軽になろうと発案したのも、少しでも負担を軽くするためだ。
にもかかわらず、敗戦で疲労困憊した仲間達は、行程の半ばを待たずひとりまたひとりと脱落していった。ヴィッシュは脱落者に何も残さなかった。食糧も、水も、言葉でさえも。死に
彼らも何も求めはしなかった。
手向けるべき言葉も、それを紡ぐだけの力も、とうに
彼ら討魔中隊が魔王軍の罠にはまり無残な敗北を喫したのは、4日前のことだ。この時点で生き残りは隊の半数以下。隊長ヴィッシュは拠点の街へ退却することを決めたが、物資のほとんどを失い、多数の負傷者を抱えた状態で険しい山岳地帯を越えるのは、自殺行為のようなものであった。
それでも往くしかない――なぜなら、魔王軍に蹂躙されたこの国に、他の安息の地など残されてはいなかったからである。
彼らは、ヴィッシュを恨んでいただろうか。間抜けにも偽情報に踊らされ、暗愚にも勝てぬ戦いに部下を追いやり、無能にも死の行軍に引きずり込んだ、この隊長とは名ばかりの若造を。
その問いの答えはもはや知る由もない。答えは消失した――仲間たちの命とともに。
敗残兵の一団は、ついにヴィッシュとナダムを残すのみとなった。
今、ヴィッシュはナダムに肩を貸し、身を寄せ合い、ひとつの生物のように進んでいる。昨日ナダムが足を痛めた。今朝食糧が尽きた。数時間前の休息で水が尽きた。そして無限にも思える上り坂は、
道の脇に、枯れかけた木が一本見えた。その根元に、身を畳めばふたり入れなくもない程度の狭い木陰があった。どちらからともなく休息を提案し、他方がそれに応えた。言葉でも身振りでもない不可思議な方法でだ。先述の通り、言葉を発する体力は互いに残っていなかった。
ふたりは、倒れるように木陰に座り込んだ。
今日に入ってというもの、休息の回数は目に見えて増えていた。自覚はしていたし、早く街に戻りたいのもやまやまだったが、だからといってどうしようもなかった。彼らの身体は既に限界を超えており、このうえ無理を重ねれば仲間たちと同じ運命に見舞われることは明白だった。
少しずつ、少しずつ……辛うじて命を繋げる程度の休息を重ねながら、すり足のように前へ進むより他に、やりようは残されていなかったのである。
どれほどの時間、地面に転がっていただろうか。突如、ナダムが笑った。
驚いて目を遣ると、ナダムは本当に笑っていた。
「提案があるんだ、ヴィッシュ」
喋るな、消耗する、と
「おれを置いていけ」
沈黙があった。
ヴィッシュは何も言わなかった。目を合わせようともしなかった。ただ、狭い日陰に小さく畳んだ体を収め、じっとうずくまっていただけだった。予感がしていた。この腹の立つ相棒との付き合いは短くない。物も言わず、友の肩を借りて歩いている間、彼が何を考えていたのか、想像できないヴィッシュではなかった。
「お前にはまだ体力がある。怪我もしていない。頭も切れる。お前なら生き残れる」
再び――沈黙。
「だが、このままおれを担いでいけば、お前は力尽きるだろう。そしておれも死ぬだろう」
沈黙。
「なに、おれのことは気にするな。ここでのんびり待っているさ。街についたら迎えをよこしてくれりゃいい」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
ヴィッシュは――拳を握り締めた。残された最後の力を絞り出して。
「言いたいことはそれだけか」
沈黙。
「何のために俺が――仲間を見捨ててきたと思ってるんだ」
沈黙。
「倒れたヤツらの水と食料を剥ぎ取って、ここまできたのは何故なんだ」
沈黙。
「俺がお前を見捨てるっていうのか!」
沈黙。
その後に、理解の微笑みがあった。ヴィッシュは、親友のこの笑顔が気に入らない。こいつはいつもそうだった。したり顔をして、人の頭の中を覗き見たかのように言い当てて、一番腹の立つところを針の穴を通す正確さで突いてきて、そしていつも――
そしていつも――
「お前は誰も見捨てちゃいない」
いつも――
「
*
「ドゥニル。
メイタリヤ。
ビックバック。
アゼリ」
今や、空は
「アラン。
ハッサン。
ネーダ。
ジガ。
ソイム。
ワッケーニ。
ヤジ」
ヴィッシュは歩む。闇に閉ざされた夜を、ただひとり。もはや共に歩むものはひとりもいない。ヴィッシュは真の孤独をこのとき知った。ひとたび知れば逃れられぬ。この後、彼は10年に渡って漆黒の道を歩むことになる。
「アダルブレヒト。
ドミニク。
エッボ。
エアハルト。
ヘルムート。
ヤン。
カールハインツ。
ペーター。
ラファエル」
一歩、一歩、歩むごとに、ヴィッシュはひとつの名を呼んだ。今更彼らを懐かしんだとてなんになろう。死んでしまった者たちに、一体何をしてやれるというのだろう。せめてその名を忘れぬようにと呪文のごとく唱えたところで、その声がどうして彼らに届くと言えよう。
それでも。
「スヴェン。
イザベラ。
ボイル。
レミル。
ジェラルド。
リサ。
クリス。
レビン。
デイビッド。
コリン。
ルーニヤ。
ニコル。
ヨーギー。
ミケラ。
チッコロ。
フロント。
スーデラ。
メイルグレッド……」
それでもヴィッシュは、彼らの名を、顔を、細かな想い出のひとつひとつを、我が胸に刻まずにいられなかった。
「ナダム」
最後の名前を呼んだとき、ヴィッシュは、ついに峠を越えた。
視界が開けた。場違いなほどに美しい光景がそこに広がっていた。空気。土。湿気と、熱気。闇と夜、木々と星。生と死とその狭間にあるものたち。何もかもが神々しい。なぜだろうか、涙が零れた。青白い月の光が遥か彼方の空から射し込み、ヴィッシュの瞳を
これは、希望の光であろうか? それとも――
“
ナダムのくれた言葉が蘇る。
「……やってやる」
固く拳を握り締め、眩い月を睨み返し、ヴィッシュは獣のごとく咆哮した。
「死んでたまるか。
見てろ! 俺は絶対に生きのびてやる!!」
*
あれから10年。
ある朝、ヴィッシュは妙に静かな心持ちで目覚め、不意に思い立って、戸棚から小さな布片を取り出した。衣服に縫い付けられていたものを切れ味の悪いナイフで切り取ったであろうそれは、古ぼけた手縫いの紋章であった。
シュヴェーア帝国軍、討魔中隊の隊章である。
「ごめんな、みんな」
ヴィッシュは囁いた。紋章を撫でる彼の指には、10年前にはなかった傷がみっつも刻まれているのだった。
「きっとみんな笑ってるよな。いつまでいじけたままなんだ……ってさ」
と、そのときだった。外の通りで悲鳴が上がる。ヴィッシュは窓を叩き開け、朝もや煙る第2ベンズバレンを眺め観る。その先に尋常ならざる魔性の痕跡を見て取ると、上の階めがけて声を張りあげた。
「
廊下に出たところで、階段を駆け下りてきた仲間たちと合流する。何が起きた、と目で問うてくるふたりに向かって、ニヤリと不敵な笑みを返して、
「行こう。
新しい仕事のお出ましだぜ」
「勇者の後始末人」第1部:結集篇
完
■次回予告■
氷のように冷えた朝、街を襲った恐怖の魔獣。かつてない数で迫りくる敵を相手に、後始末人たちは窮地に追い込まれる。迫りくる第2ベンズバレン壊滅の危機に、ヴィッシュが
次回、「勇者の後始末人」
第6話 “万魔襲来”
Bad Fellows
第2部:胎動篇、堂々開幕――乞う、ご期待。
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