現実3-3

 夜の風は穏やかだ。自然の風を感じるのは何年ぶりだろう、春の暖かい香りが私の周りをゆっくりと流れている。見上げると、桜が全面に広がっている。美しく、けれども儚く。月の影に揺らめく。私は視線を戻すと、急がなければと自らに言い聞かせる。見つかってしまえば、すべてが無駄になってしまう。それに、二度目の機会を得ることはないだろう。辺りを見渡すと建物を取り囲むように塀がある。私の背丈を大きく越える高さがあり、私には乗り越えられそうにない。塀が途切れているところを探さなければならない。私は塀の近くまで行くと、沿って歩きだした。

 驚くほどに体が軽い。月が私に力をくれているのかもしれない。空に浮かんでいる月は満月に近く、存分に太陽の光を反射してくれている。そのため、闇に慣れた目が、足元に生えている草も見分けることもできる。しばらく歩くと塀の終わりが見えた。角を一度曲がって進んだところだ。この建物の入り口のようで、石畳がそこから建物の玄関へと続いる。運がいいことに門が開いている。私は門の前まで来てから一度だけ建物を振り返った。三階まであるようで、正面には開閉式のガラスの戸が着いている。中の電気はほとんど点いていないようで、真っ暗なたたずまいが不気味に存在している。私は再び外を向くと、門から外に出た。先は広くない道路に面していて、歩道さえない。左右に伸びていた道をそれぞれ見ると、左には電柱が遠くに見えている。右にはしばらく何もなく、二十メートルほど進んだところに車が止まっている。その車の中で、ふと、何かが動いた気がする。明かりもほとんどなくはっきりと見えないが、人が乗っているようだ。

 私は考えた結果、右の道を進む。暖かさを失ったアスファルトの冷たさが、私の地肌を通して伝わってくる。あそこから出てきたところを、それも裸足で歩いているところを見られるのは、正しい判断ではないかもしれない。けれど、あの手紙を信じる限り、あの車の中に見える人影はきっと松田晴美であろう。不安と、好奇心とが交差する中、私は一歩一歩、ゆっくりとではあったが、確実に歩を進める。

 車の後方五メートル後方に差し掛かったとき、その車の後部座席の扉が開く。まるで私を招いているようだ。私が驚いてそこに立ち止まると、その扉から見慣れた顔が降りてきた。やはり晴美だ。月明かりに青白く浮かび上がったセーラー服姿の晴美は、私の姿を確認すると、嬉しそうに走りよってくる。そしてそのまま私を抱きしめる。立ったまま彼女と並ぶと、彼女の背が私より頭一つ分小さいことに気が付く。そのためか、強く抱きしてめくる彼女が、一層いとおしく感じられた。私の耳元で背伸びをした彼女が、ありがとう、と囁く。

 それから私は彼女に連れられて一緒に車の後部座席に座る。彼女が先に乗り、私とずっと手をつないでいたため、私が車の扉を閉める。車は近づくと、深い赤色をしていた。きっと太陽の光の下では、鮮やかな赤色をしているのだろう。外車のようで、左側に運転席がある。

「いいよ、出して」

 彼女がその運転席に座っている人に話しかける。エンジンがかかり、車がゆっくりと動き出す。斜め後ろから運転席を見ると、座っているのはまだ若そうな男性だ。髪も短く、眼鏡が光っている。

「来てくれるって信じてたよ」

 車が安定して走り出すと、隣に座っている晴美が話しかけてくる。そちらを向くと、彼女もこちらを見ている。私は静かに相槌を打つ。彼女に握られている左手がとても温かい。少し痛いほど強く握っている彼女の手は、私よりも幼く感じる。彼女はそれから前を見て運転席を指す。

「紹介しとくね。前田春樹、私の彼氏」

 彼女の紹介に合わせて、運転中の前田春樹が右手を軽く上げて、よろしくと答える。声は思ったより高い。

「今、二十七だっけ?」

「そう。それくらい覚えておいてよ」

「まぁ、頼りにならないだろうけど、覚えといたげてよ」

 おいおい、と運転席から彼が答える。

「でも、私、迷惑じゃない?」

 私は二人の様子に、自分の居場所がよく分からなかった。それに対して、彼はそのままの姿勢で、私を制止する。

「あー、それは言わないで。もう何度も晴美と話し合ったから。今さら、持ち出すことじゃないし、それが俺たちの結論だから」

「そうそう。だからあーみは何も心配しないでいいんだよ」

 晴美が私の左手を両手で握り締める。じんじんと暖かさが伝わってくる。私は、頷きながらありがとう、と答える。いつの間にか左目から流れていた涙をごまかすように目を閉じて、顔を傾ける。

 そのまま私は、春樹が住んでいるマンションに連れてこられた。足を拭いて中に入ると、まずその大きさに驚く。二人は同棲しているようで、晴美の生活道具も多く溢れている。

「今日からこの部屋を使って」

 彼女は部屋の一つを私に案内する。

「いろいろ話したいけど、疲れてるでしょ。とりあえず明日話そ」

 彼女はそれだけ言うと、他の部屋へ行ってしまう。部屋は八畳くらいの大きさがあり、入ってくる扉には内側から鍵が掛けられるようになっている。本棚があり、「恋愛心理学」「幸せになるための100の法則」「非登校時代」などの本がたくさん置かれている。けれどどれもとてもきれいで、読まれているようにみえなかった。本棚の上には小さなコンポが置かれている。薄い水色の透明色で、安っぽいつくりであったが、懐かしいカセットも入れる場所がある。部屋の中央には背の低い机がある。高さは三十センチほどで、木でできているようだ。上にはレースの布が掛けられていて、表面が見えなくて残念に思った。

 私は奥にあったベッドに座ると、その柔らかさに一瞬視線が定まらない。昨日まで使っていたベッドとは違い、厚いマットが弾力性に富んでいて、こんなに心地がいいとは思わなかった。私はそのまま寝転ぶと布団を被る。全身を暖かさが包み込む。そのまま部屋の様子をぐるりと見る。壁も天井も天然の木でできているようで、部屋全体から温もりが伝わってくる。天井についている電灯も丸いカバーが付けられていて、暖かい光を放っている。

「ありがとう」

 私は誰も近くにいないのにそう呟く。それから布団を頭まで被ると、その暖かさに身を任せる。思えば、あっという間の一週間であった。まるで変化のない日常が続いて、私の記憶に残ることはほとんどなかった。それに比べて今日はどうだろう。夜中にこれほど動いたこともなかったし、見るのも聞くものすべてが真新しかった。一瞬一瞬が感動の連続で、あそこから抜け出してから今までの時間の、なんと長く溢れていたのだろう。やはりあそこは服衣だったのだと、あらためて思う。

 心地よい疲労感が体を駆け巡る。私の体はベッドの柔らかさと部屋の暖かさに解けてしまったようだ。そのまま、私は深い眠りへと落ちていく。

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