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その日、三十度以上

 関東で迎える夏も、気づけば五度目を数えていた。

 あと何度経験すれば、この暑さに慣れるのだろう。そんな日は、永遠に来ないような気がした。


 人生の夏休みとも呼ばれる学生生活が終わり、江上はこの春から社会人になった。

 春先は気疲れが激しく、毎日どうしようもないくらいに消耗していたが、今は冷房の効いたオフィスの中と、茹だるような暑さの屋外とのギャップに苦しめられている。

 仕事は順調とは言えないが、それでも親元を完全に離れて自活出来るようになったおかげで、随分と精神的に楽になった。

 学生時代は寮生活だったが、江上の入社した会社に社員寮というものがなく、初めて一人暮らしを経験することになった。

 学生寮で一緒だった、賑々しくて世話好きな同居人の存在が、たまに恋しくなったりもする。

 同居人——橘川は修士課程に進んだ。しかし、江上の退寮とともに橘川も寮を出て一人暮らしを始めたのだという。

 理由を聞けば、真顔で「お前以外の奴とは暮らす気になれない」と返されて、江上は何とも言えない気持ちになったのだった。

 橘川とは何でもないことでよく連絡を取り合っては、たまにご飯を食べに行く。

 学生時代から今に至るまで、橘川とはほとんど何でも話せる間柄だった。

 それは今でも変わっておらず、全く違う環境に身を置くようになってからも、近況報告をしあうのを楽しみにしている。

 しかし、ただひとつだけ、江上には橘川に話せていないことがあった。

 といっても、社会人になってからのことではなく、学生時代のことだ。

 それでも江上の中ではいつまでも風化しない、鮮やかなままの出来事だった。

 江上の中に焼きついて離れない、事件とも呼べるそれ。

 そして、その事件の中心人物。

 ハロルドセンのボーカル紙島とは、あの日以来、一度も連絡を取っていない。



 メールアドレスなら知っていたから、紙島と連絡をとることは可能なはずだった。

 けれど江上がそうしなかった理由は、もしアドレスが変えられていてメールが返ってきてしまった時に受けるであろうショックから逃れるため、というのがひとつ。

 もう一つは、あの白昼夢のような出来事が、江上が再び紙島との縁を結ぼうとした瞬間に霧散してしまいそうに思えたためだ。

 あの時長い夢を見ていたのだと言われても、きっと江上は納得する。

 ハロルドセンの解散ライブの日から始まった、あの短くも決して忘れられない日々を。



 だからこそ。

 だからこそ江上は、ほんの小さなその記事にひどく心を乱されてしまった。

 毎号購読している音楽雑誌の最新号、ページの三分の一にも満たない記事には、こんな見出しが躍っていた。

「『ハロルドセン』紙島、新バンド始動!」



 紙島の新しいバンドの、初ライブのチケットは、売り出しが始まると同時にとった。

 会場は知らないハコだった。

 調べてみれば、場所は決してアクセスがよいところとは言えないし、キャパだって百にも満たないような規模だ。

 ハロルドセンの解散ライブが行われた箱と比べても、随分と小さい。

 それでも江上は構わなかった。

 また、紙島の歌が聴ける。

 それならどこだっていい。



 地下にあるそのハコは急な階段を降りた先にあった。ドリンク代を払ってコインを受け取り、フロアに入る。

 そこは、大学の二番目か三番目に狭い教室ほどの空間だった。

 それなりに狭い、ということは頭ではわかっていたものの、予想よりも遥かに狭い。

 ステージとフロアはそれほど高さが変わらなかった。高低差はせいぜい一メートルくらいだろう。

 柵があるとはいえ、危険じゃないのだろうか。

 江上の整理番号は真ん中くらいだったので、既にステージ前三列ほどにはみっしりとオーディエンスの姿があった。

 その後ろ、まだそれほど人が密集していない空間を通って、なるべくステージの近くの場所を陣取る。

まだ照明が控えめに点けられたステージ上には、見覚えのある黒いジャズマスターが置かれていた。

 嬉しい気持ちが、けれどまだ認めきれず、胸の内で暴れている。

 まだだ、まだステージにの姿はない。

 喜ぶには、早い。

 江上が逸る気持ちを押さえつけている間にも、フロアには人の姿が増えていく。

 更に気付けば、ステージ上にローディが姿を見せていた。入念に楽器の状態を確認していく。

 ローディが下がると、いよいよフロアのざわめきも大きくなった。

 あちこちで生じる話し声が、SEと交じり合って混沌とした音像を描き出す。

 そして、そのときがやってきた。

 フロアの明かりが落ちる。気の早い誰かが指笛を鳴らした。

 ステージが、白く強い光で照らし出される。

 かみしま、と誰かが叫ぶのが聞こえた。

 ステージ袖から姿を現した男が、応えるように小節をあげるのが、江上の目にも見えた。

 紙島は。

 江上の、かつての神さまは。

 見覚えのある金髪ではなくなっていた。

 真っ黒の、それもあの時より短い髪で、けれどあの時と同じ華奢な体で、狭いステージを歩いてくる。

 オーディエンスががなり立てる只中で、江上は静かにステージを見つめていた。

 周囲の音は耳に入らなくなっていた。

 ただ、大声で泣き出したいような、思い切り怒鳴り散らしたいような、腹の底から笑いたいような気持ちが縺れて、胸の内でわだかまっている。

 江上の視線の先で、紙島がジャズマスターのストラップを肩にかけた。マイクに口を寄せる。

「……結構時間、かかっちゃったけど、」

 すかさず誰かが、「待ってたよ!」と叫ぶ。

 その方向に目を向けて紙島が苦笑する。「はえーよ、最後まで喋らせろよ」

 言い返すと、今度は野次が飛んでこなかった。

 静かになったフロアに、紙島が視線を走らせる。

 そして。


「戻ってきたぞ」


 不敵に笑う男が、真っ直ぐに江上を見ていた。

 言うなりすぐに視線は外されて、ピックを持った男の手が弦の上を踊る。

 知らない曲だった。

 紙島が作った、新しい曲だ。

 誰もが初めて聞く曲であるはずなのに、フロアは揺れて、嗚咽にも怒号にも似た声が飛び交っている。

「……おかえり」

 決してステージには届かない大きさの声で、江上は言った。

 届かなくたっていい。それで良かった。

 遅れてやってきた歓喜が、寒気のように江上の背筋を走る。

 あとはもう、周りと同じように叫び声と拳をあげるしか、江上には道がなかった。



 紙島かみしまめぐむが、帰ってきた。

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作者

市井一佳 @11_1ka

人に似た人でないものたちと、すこし不思議な話が好きです。 文芸サークル「フロッケリプカ」で文フリやコミティアに出展しています。 サイト:http://aliena.silk.to/もっと見る

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