6.

 雨はまだ止んでいなかった。それどころか、あれだけ弱くだらだらと降り続いていた雨は、ここにきて雨足を強めていた。

 つくづくついていないと思う。バイトへ行くときはまだ雨が降っていなかったから、江上は傘を持たずに外出していたのだ。紙島の家まで連れてこられたときは、折りたたみ傘を貸してもらったから濡れずに済んだが、帰り道はそういうわけにはいかない。

 覚悟を決めて、紙島は雨の中を歩き出す。途中、コンビニで傘を買おうとも思ったが、その頃には全身濡れてしまっていて、今更傘を買うのも馬鹿らしくなった。そのまま駅への道を急ぐことにする。


 こういうときに限って、あの喧しい、もとい賑やかな同居人は不在だった。

 寮に帰り着いて部屋の鍵がかかっているのを確認して、江上は思わずため息を吐きたくなった。とはいえ、居ないのなら仕方がない。静かならば今のうちに早く眠ってしまえば良い。今日はもう、何も考えたくなかった。

 鞄を漁って部屋の鍵を探す。しかし、どれだけ鞄の中を引っかき回したところで、部屋の鍵は一向に出てこなかった。嫌な予感が足下から這い上がってくる。こんなときに限って、まさか鍵を持たずに寮を出た、なんてことは——。

 よくよく思い返してみれば、今日は朝方までレポートを書いていたせいで、バイトの時間に遅刻しそうになって慌てて部屋を飛び出したのだった。部屋の鍵は置いていったのだろう。

 仕方なく、携帯を開いて橘川に短いメールを打つ。

『家の鍵持って出るの忘れてたんだけど、今どこ?』

 返事はすぐにきた。

『なんか同棲中のカップルっぽいな。もうすぐ帰るからちょっと待ってろ』

 馬鹿馬鹿しくて返事をする気にもなれず携帯を閉じる。メールの前半はともかくとして、もうすぐ帰るとのことだったので、自分の部屋の前に座り込んで待つことにした。

 こうしていると、まるで親の帰りを待つ子どもみたいだ。なんで大学生になってまで、こんなことをしなければならないのか。

 じっとしていると、濡れた体が次第に寒さを訴えだした。寒さから逃れるように体を丸めてみるも、濡れて纏わり付く服は不快な上、一向に温まる気配がない。

 雨は相変わらず上がりそうになくて、叩きつけるように降り注いでいる。雨音なのか、それとも別の何かなのか、耳の奥がわんわん鳴っていた。

 早く帰ってこいと、ただそれだけを考えていた江上の思考回路も、徐々に漂白されていく。

 それからどれぐらいの時間が経過したのか、ようやく江上の同居人は姿を現した。

「ごめん、ちょっと遅くなったわ……って、ユキ? おい、大丈夫か」

 聞き慣れた声が遠い。のろのろと顔を上げると、乱暴に腕を取られて立ち上がらせられた。視界が大きく揺れると同時に、頭が痛みを訴える。

「……遅かったじゃん、橘川」

 時計を確認していなかったが、結構待たされたはずだ。元はといえば鍵を持たずに家を出た江上が悪いのだが、文句の一つくらい言ったって許されるだろう。

 しかし橘川は、返事もせず江上に肩を貸したまま器用に部屋の鍵を開けた。狭い三和土にそっと江上を座らせると、部屋からバスタオルを一枚持ち出して頭に被せてくる。

 柔軟剤の匂いが江上の鼻先をくすぐった。

「とりあえず体拭いて。ユキ、たぶんお前、熱ある」

 被っていたタオルを捲りあげ、そろそろと視線をあげていくと、神妙な面持ちのルームメイトが目に入った。

「ずぶ濡れだったから風呂入った方がいいけど、無理そうならとりあえず着替えだけでも」

「……なんか橘川、優しい?」

「俺はいつだって優しいっての。いいから早く着替えて体拭けよ」

 ぶっきらぼうな声が返ってくる。風邪薬でも探しているのか、先ほどから橘川は細々とした私物をひっくり返していた。

 言われるままに濡れた服を脱いで、タオルで全身を拭く。言われてみれば確かに寒気がひどいし、頭も痛い。この間は二日酔いで頭痛だったし、今回は風邪で頭痛なのだから、どうも江上は頭痛と縁があるようだった。まったく有り難くない縁だが。

 寝間着を身につけると、そのまま布団にもぐりこむ。悪寒が足下から全身へ広がっていくようだった。すっぽりと布団に包まれても、全く温かくなる気配がない。そのくせ、意識だけはどこか深いところに引きずられていくような心地がする。

 橘川に何か話しかけられた、ような気がした。

 けれどそれに返事をするより先に、江上の意識は音も光も届かないところまで引きずり落とされていたのだった。


 目が覚めたのは昼過ぎだった。

 ゆっくりと体をおこすと、ローテーブルに頬を押しつけるようにして眠っていた橘川も目を覚ました。この男は、存外人の気配に敏感なのだ。

「具合はどうよ、ユキ。あ、そこにポカリ置いておいたから飲んで」

「正直あんまり良くない、かな。ポカリありがと」

 枕元には橘川が言ったように、ポカリスウェットのペットボトルが置かれている。手に取ると、ボトルはまだ冷たかった。キャップを捻って、中身をちびちびと喉に流し込んでいく。

「熱測る? 俺体温計持ってるけど」

「別に良いよ。なんか確認したら余計悪化しそうな気がする」

 どういう理屈だよ。そう言って橘川が笑う。つられて江上も少しだけ笑った。

「食欲あるならレトルトのおかゆあるけど」

「まだいい。もう少し寝ておくわ。ほんと、ありがとな、橘川」

 飲みかけのペットボトルのキャップを閉めて、江上は再び布団に潜り込む。目を閉じようとしたところで、橘川がもの言いたげな顔でこちらを見ているのに気付いた。

「……なに?」

「いや、体調悪そうだし元気になってからでいいよ」

「なんだよ、橘川らしくない。聞いてよ」

 しおらしい態度に苦笑してみせると、橘川が眉を寄せて口を弾き結んだ。

 ややあって、迷うようにゆっくりと口を開く。

「……昨日の夜、なんかあったか。体調崩してたのもあったと思うけど、ひどい顔してたぞ、ユキ」

「なんかって……」

 何を説明しろというのか。

 あの男と知り合うきっかけから、洗いざらい話さなければ、きっと江上がそういう顔をしていた原因を伝えることはできない。

 何も答えられずにいる江上に、橘川はゆるゆると首を振ってみせた。

「話したくないなら別に無理して話さなくていい。とりあえずおやすみ」

 別に、話したくないわけじゃない。ただ何を伝えればいいか分からないだけだ。

 けれど、それを伝えるのすら今は億劫だった。欲求に逆らわず、重い瞼を閉じる。

「橘川」

「なに?」

 半分寝入ったような声に、橘川は律儀に返事を寄越してくる。

「神さまってさ、いると思う?」

「……いないんじゃねえの? そんなん」

 思いがけず返ってきた返事に、その内容に、江上は閉じた目を開いた。

がどんなやつかは知らないけど、それはどんなに神さまみたいに見えたとしても、普通の人だろうよ」

 何も詳しいことを話していないのに、どうしてこの男は何もかも見透かしたような物言いをするのだろう。

 けれど、不思議とその言葉は、すとんと江上の中に収まった。

「……そっか」

「ん。わかったら、変なこと考えてねーで早く寝ろ」

 言葉は荒いのに、その声音は優しい。

 こういうところに女子が惹かれるのだろうな、なんて考えているうちに、再び江上は眠りに落ちていた。

 

 次に江上が目を覚ましたのは、夜も深まったころだった。

 丸一日寝て体も大分回復したのか、ようやく江上は空腹を思い出す。橘川は何も言わず、見慣れた片手鍋でレトルトのおかゆを温めてきてくれた。

 卵粥は薄味で病人食らしい味つけだったものの、空腹のせいか、この上ないご馳走に感じた。黙々とスプーンでおかゆを口に運ぶ江上を、何が面白いのか橘川は興味深そうに見ていた。

 さすがにその視線に耐えかねて何か言ってやろうとしたところで、橘川が思い出したように口を開く。

「バイト先にはユキが体調崩してること、言っておいたから。熱下がったら連絡入れとけよ」

「……わざわざありがと」

 口にしようとした言葉は、綺麗に江上の頭の中から消え失せていた。素直に礼を言うと、橘川は「気にするな」とでも言わんばかりに手をひらひらと振ってみせた。

 恐ろしく気が利く男だ。ここまでされると、小さい子を持つ親の貫禄すら感じる。

「そのぶんだと、明日には動けるんじゃない?」

「たぶん。熱も下がった気がするし」

「気がする、じゃなくて測ればいいのに」

 食事を終えた後、連れだって部屋の外にある共用の洗面スペースまで向かう。並んで歯を磨いて部屋に戻ると、再び江上は布団に潜り込んだ。すぐに電気が消される。

「橘川? 別にまだ電気付けてても」

「いいよ、俺も今日は早く寝るから。……おやすみユキ」

 半分眠っているようなはっきりしない声が、一方的に言うだけ言ってぶつりと途切れる。

 もしかしたら、橘川は昨日、殆ど寝ていなかったのかもしれない。



 カーテンの隙間から零れる朝陽が眩しくて、江上は目を覚ました。あの嫌な頭痛も悪寒も感じられない。全快したと言っても良さそうだ。

 橘川はまだ眠っているようだった。起こさないように、けれど時間だけは確認しようと携帯を探す。なぜか枕の下敷きになっていたそれを探し当て、開いたところで、充電が切れていることに気が付いた。

 そういえば、一昨日家に帰り着いてから一度も携帯を確認していない。もちろん充電だってしていなかった。

 ひとまず、ケーブルを挿して携帯の充電を始める。

 ——まずは風呂に入ろう。それからいい加減、洗濯もしなければ。

 携帯が使えるようになるまでの時間ももどかしく、今すべきことをリストアップしていく。部屋を見渡すと、バイトに行くときに使う鞄が目に入った。そう、バイト着だって洗わなければいけない。

 用意を調えて、まだ眠り込んでいる橘川を起こさないように、江上は部屋を出た。


 風呂を出て部屋に戻ると、橘川も目を覚ましていた。今日は部活があるのか、既にジャージに着替えている。

 手には食べかけのチョコチップメロンパンがあった。今朝の朝食らしい。

「おはよ、ユキ。体調は戻った?」

「おかげさまで。色々ありがとな、橘川」

「どーいたしまして」

 言いながらも、橘川はパンを口に詰め込んでいく。余程慌てているらしい。訊くまでもなかったが、試しに「遅刻しそう?」と訊ねると、案の定無言で首を何度も縦に振られた。

「じゃ、俺行ってくるから」

 牛乳でパンを無理矢理流し込んだ橘川が立ち上がって、スニーカーに足を突っ込む。そのまま部屋を飛び出していこうとして、ぴたりと動きを止めた。

「そういやユキの鞄、めちゃくちゃ濡れてたから一旦干しておいたんだけどさ、中に入ってた本も結構濡れてたんだわ。……大事な本だった?」

 血がさっと冷えるのを感じた。——バイトの日に持っていった鞄に入れていた本なんて、一冊しかない。

 普段江上がバイト先で暇つぶしに読む本は、決まってバックヤードにあるオーナーの私物だった。オーナーの私物は、持ち帰ってはいけない代わりにその場であれば自由に読んでいいと言われているのだ。

 だから、あの日鞄にいれて持って帰ってきた本は一冊だけだ。

 江上の顔を見て、察しはついたらしい。橘川が気の毒そうな顔になる。

「……そっか」

「いや、別に橘川が気に病むことじゃないし。……っていうか、部活遅刻しそうじゃなかった?」

「あー、悪い……。それじゃ行ってくる」

 まだ後ろ髪を引かれるような面持ちをしていたものの、橘川は踵を返して今度こそ部屋を飛び出していった。

 戸が完全に閉じるのを待って、江上は部屋を見渡す。

 件の文庫本はローテーブルの上に置かれていた。裏表紙が見えるように置かれていたが、ひっくり返すと見覚えのある表紙が目に入る。間違いなく、紙島が貸してくれた「無伴奏ソナタ」だった。一度濡れてしまったせいで、紙が脈打ち、大きく形が崩れている。

 どうしようか。借りている以上返さなければいけないが、そもそも紙島は会ってくれるだろうか。それ以前に、文庫本の一冊くらい、別に返さなくてもいいと思っていそうだ。返すとしても、こんな状態の本を返すわけにはいかないから、新品を手に入れなければ。

 どのみち紙島に連絡を取らなければならない。メールアドレスが変えられて、着信拒否までされてしまったらお手上げだったが、そのときはそのときだ。

 いい加減携帯の充電もある程度出来て、使えるようになっているころだろう。

 ケーブルに繋いだ携帯を手繰り寄せ、電源を長押しする。しかし、いくら待ったところで液晶には何も表示されなかった。こんなときに故障したというのか。

 最後に携帯を触ったときのことを思い出してみる。二日前の夜、傘を差さずに寮まで帰り着いて、橘川にメールを打ったのが最後だったはずだ。その時点では確かに使えていたのだから、水濡れが原因というわけでもなさそうだった。それにしても一体なぜ。何が原因で。

 考えたところで原因は浮かばないが、考えていても仕方がない。まずは携帯ショップに行くことにしよう。

 そう決めて、出かける支度を始める。財布と、部屋の鍵、それに——。

「ない」

 誰も部屋にいないというのに、思わず声が漏れていた。

 出かけるときには必ず持ち歩くウォークマンが、どこにも見当たらなかったのだ。携帯が故障した以上に、江上にとっては堪えることだった。

 思い出せ。前にウォークマンを使ったのはいつだ。

 部屋の中を歩き回りながら記憶を遡っていく。

 昨日は一日寝ていたから良いとして、一昨日、紙島の部屋から帰るときは使わなかった。しかし、バイトに向かうときには使っていた記憶があるから、バイト先か、あるいは。

 そこまで思い出したところで、ぼやけていた江上の記憶が急激に鮮明になっていく。

 紙島の部屋で一度、手持ち無沙汰になってウォークマンを取り出したはずだ。あのあと、ちゃんと鞄にしまっただろうか?

「……しまわなかったよなあ、確か」

 気付けば呻くように呟いていた。よりにもよって忘れた場所が紙島の部屋だとは。最悪だ。

 丁度行き着いた、入り口の戸に背中を預けて、ずるずるとその場に江上はへたり込む。

 何も考えたくなかった。すべきことは山のようにあって、けれど体は動いてくれない。

 その場にへたり込んだまま、気付けば江上は口に馴染んだそのフレーズを小声で歌っていた。

 さよならユーリカ。初めて江上が知り、心底好きになったハロルドセンの曲。歌なんて歌ってる場合ではなかったが、そうでもして気を紛らわせたかった。

 寮の壁がそれほど厚くないということだって、今はどうでもよかった。


「——へたくそ」


 不意にドア越しから聞こえた声に、江上は心臓が握りつぶされるような心地がした。

 まさか、そんなはずがない。いやでも、この声は。

 頭の中で誰とも知れない声が好き勝手に叫び出す。耳の奥で心臓が暴れていた。鼓動がうるさい。

 江上のもたれ掛かっている戸がゆっくりと二度、ノックされる。チャイムなんて気の利いたものはこの寮になかった。

「そこにいるんでしょ。——開けてよ、ユキ」

 痺れを切らしたのか、ドア越しにそう言われる。

 暗示でもかけられたかのように、江上の体はぎこちなく立ち上がり、気付けばドアを薄く開いていた。

 眩しい金髪に、黒のニットキャップ。長い前髪の下からのぞく榛色の瞳は細められている。

「……二日ぶり、元気そうじゃん」

 そう言って、紙島は薄く笑った。


 自分の生活する空間に紙島萌がいる。

 その事実に、今度こそ江上は気が触れてしまいそうだった。

 二日前と、それから初めて顔を合わせたときの二度、江上は紙島の自宅に行き、そのときもひどく居心地の悪い思いをしたが、逆に自分の部屋に紙島がいるというのもそれはそれで受け入れがたい状況だった。

 まさか、自分の部屋をこれほどまでに居心地悪く感じる日が来ようとは。

 紙島はといえば、至って落ち着いた——というよりむしろリラックスした態度で、江上が勧めるまま、普段江上画使用している低反発のクッションの上で胡座をかいている。

 これではどちらが家主だか分からない。

「携帯全然繋がらないから、どうしたかと思ったじゃん」

「……どうも故障したみたいで。あと、俺、おとといの夜から熱だして寝込んでいたんです。だから故障してたことにも全然気付かなくて。すいませんでした」

「……なるほどね。それなら仕方ない……っていうか、もう大丈夫なの?」

「お、おかげさまで」

 そう。呟いて、紙島が嘆息する。しかしすぐ、気を取り直したように背負っていたリュックを開けて手を突っ込んだ。

「忘れ物したでしょ、届けにきた」

 背負っていたリュックから紙島が出したのは、見覚えのある黒のウォークマンだった。透明なハードカバーに包まれたそれは、間違いなく江上のものだ。ハードカバーに貼った色あせたステッカーを見れば分かる。

「ありがとう、ございます」

 差し出された、片手に収まる小さな機械を両手で包み込む。そんな江上を紙島は何も言わず黙って見ていた。

 ひとしきりウォークマンが戻ってきたことを喜んだところで、江上はようやく我に返った。

 言わなければならないことも、聞きたいことも、たくさんある。

「あの、紙島さんはどうしてここが」

「そんなこと? 前に学生証見たから大学は分かってたし、学生寮に住んでるって言うのも聞いてたから。調べればすぐ分かるって。建物まで来ちゃえば適当に誰か捕まえて聞けば、部屋も教えてもらえたし」

 こともなげに、そして幾分呆れたように返される。言われてみれば本当に、なんてことない話だった。

「……あの、お借りしてた本なんですが」

「『無伴奏ソナタ』? あれはユキにあげるよ。気が向いたときにでも読んでみたらいい」

 謝らなければと思っていたのに、そんな風に言われてしまっては江上は謝罪の言葉を飲み込むしかない。

「それじゃあ、俺から質問していい?」

 静かに告げられた言葉に、思わず江上は居住まいを正す。

 紙島が伏せていた目をあげた。

「あのとき、ユキは何て言おうとしたの? 『本当は、まだ』って言った、その続きに」

 怒るでも笑うでもなく、感情が凪いだような目で、紙島は江上を見据える。

 江上は答えることが出来なかった。

 言おうとしたことを忘れたわけではない。ただ、今はあのときと状況が違うのだ。

 何もかもを投げ打ってでも、言いたいことを言ってしまえばいいと思ったあのときとは違う。

「……言って。お願いだから」

 短く言って、紙島が口を弾き結ぶ。それでも目は、江上をただ急き立てていた。——言え。はやく。

「……紙島さんは、本当はバンドを解散したくなかったんじゃないですかって、言うつもりでした」

 バンドの解散の理由なんて、そんな簡単に説明できるものじゃないと紙島は言った。

 江上には想像もつかないような、複雑に絡みあった事情がそこにあるのだろう。

 けれど、そんなものを抜きにしたなら。ただ単純に、紙島の意志だけを汲んだなら。

「半分正解で、半分はずれ。たしかに解散の理由なんてそう簡単に説明できないとは言ったけど、俺個人の話に限っても半分正解で半分はずれだよ。続けられないと思った理由だって勿論ある。言わないけどね」

 ふっと気の抜けた顔で紙島がわらう。

「……でもまあ、ユキの言うことも当たってるよ。あの日、ステージに立ったときに思っちゃったんだ。——ああ、この場所、手放したくないって。俺はまだ、歌っていたいんだって」

 解散は、メンバースタッフ合わせて何度も話し合って決めたことだ。

 簡単に出した結論じゃないし、勿論紙島だって、その結論に納得していた。——納得していた。つもりだった。

「あの日は最後に『さよならユーリカ』で締める予定だった。でも、そうはしないで俺は勝手にステージを降りた。まあユキはあの日ライブを観てたわけだから、わざわざ言わなくても知ってると思うけど」

 自重気味に笑う紙島に、江上は小さく頷いてみせる。

 思い出すまでもなく、あのときのことは江上もよく覚えていた。

 突然ステージを去った紙島。戸惑ったように、その後に続くベースの湯浅と、ドラムスの稲浦。予定が狂っていたのは、誰の目にも明らかだった。

「訳が分からなくなった。俺はどうしたいんだろうって。バンドを続けられない理由もあったけど、続けたい理由だって勿論あった。……ステージに立ってみたら、やっぱりそこは俺の居場所で、離れたくなんかなくて。それでライブ後にふらふら歩いてたら」

「俺に会ったんですか」

 江上の問いに、紙島は何も答えなかった。それが答えだった。

「……俺のこと、神さまなんて言うからさ。なんなんだ、こいつって思って。でも妙に気になってさ。俺は神さまでもなんでもない、ただギター弾いて歌歌うしか能のない人間なのに」

 紙島にとって、江上の盲目的な信頼は心地よくもあり、恐ろしくもあった。

 だから早く失望でもなんでもして、自分から離れてくれたらいいと思ったのだ。

 自分で手を伸ばしておきながら。

「……紙島さん、俺が言ったこと、覚えていますか。ハロルドセンに救われた人間が少なくとも一人いるって」

 紙島が静かに目を瞠る。

 度々、紙島が江上をおちょくるような真似をしたのは、「がっかりした?」と執拗に訊いてきたのは、自分に失望させて離れて欲しかったからだと、つまりそういうことなのだろう。

 だからなんだというのか。——舐めるな。

「だから、これだけはお願いします」

 これから告げることは、きっと紙島への枷になる。もしかしたら本当は伝えるべきことではないかもしれない。それでも。

「——また、ステージに立ってください。歌ってください」



 紙島かみしまめぐむはステージの上でしか生きられない。それを本人は一番よく分かっていて、けれども江上には到底理解の及ばない事情に縛られてステージを降りたのだという。だからこれは、江上の勝手な言い分だ。

「俺はステージに立っている紙島さんが見たいです」

 祈るように口にした言葉で、空気がふっと和らぐのが分かった。

 それどころか、紙島は声を押し殺して笑っていた。

「なんか、前にメンバーから、『お前は音楽から離れたら犯罪に手を染めそう』って言われたのを思い出したわ」

「……は?」

 思いがけない言葉が耳に飛び込んできて、江上は弾かれるように顔をあげる。

 紙島がにやりと、底意地の悪い笑みを浮かべていた。見慣れた表情だった。

「俺,自分でもそうだろうなと思ってたんだけどさ、今のユキの言葉もそんな感じだったね。音楽から離れたら駄目だって強く言われてる感じがさ」

「俺は別に、そんなつもりで言ったわけじゃ!」

「わかってるわかってる」

 躍起になる江上を見ながら、今度は声を上げて紙島が笑う。

 そして。

「……立つよ。時間はかかるだろうけど、絶対。またステージに戻ってくる」

 静かな声で、けれどきっぱりと紙島は言った。

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