5.

 言われるまま、紙島に着いてきてしまったことを後悔していないと言えば、嘘になる。

「適当に寛いでて」なんて言い置いて台所に引き上げてしまった紙島を恨みがましく思う。寛げなんて土台無理な話なのだ。それを分かっているのだろうか、あの男は。それともわざとなのか。

 そもそも、話をしたいというのなら、何もこの部屋じゃなくたってよかったのだ。以前のように、どこかの店に入ればよかったのに。

 人の部屋をじろじろ見回すのも気が引けて、江上はポケットに入れたままのウォークマンを引っ張り出し、手持ち無沙汰に触っていた。携帯より一回り小さいこの機械の方が、よほど江上の手に馴染む。音楽を聴くわけでもないのにウォークマンを触っている自分を見たら、どうせ紙島は笑うのだろう。それでも他にどうすればいいかなんて分からなかった。

「寛いでろって言ったじゃん。そんなカチカチに固まらなくても」

 げらげら笑われると思っていたのに、降ってきた声は存外に優しかった。「仕方ないな」とでも聞こえてきそうな声音に、江上はさらに居心地が悪くなる。こんな声を聞かされるくらいだったら、笑われた方がましだった。

 うつむく江上の前に缶酎ハイが置かれる。道中寄ったコンビニで買ったものだ。お酒を飲みたいという気持ちはあまりなかったが、紙島にすすめられるまま、気付けば手に取っていた。酔っ払って迷惑をかけるのもご免だったが、素面でがちがちに固まるよりだったら、多少飲んでいた方がいいかもしれない。紙島だって、そう思ってお酒を勧めてきたのだろう、きっと。

 紙島も江上の前に腰を下ろして手にした缶ビールのプルトップを引き上げた。慌てて江上も自分の前に置かれた酎ハイを開ける。小気味いい音が二つ、静かな部屋でいやに響いた。

「それじゃ、バイトおつかれ」

 手にしたビールの缶を江上の酎ハイの缶に軽くぶつけてから、紙島がビールを煽る。江上も小声で「ありがとうございます」と答えて、酎ハイに口をつけた。テレビをつけていなければ、何の音楽も流していない部屋は互いの呼吸をはっきり確認出来そうなくらいに静かだ。せめて紙島がいつものように軽口を叩いてくれたら救われたのに、何を考えているのか、この部屋の主は先ほどから黙りこくっている。

 やっぱり無理矢理にでも断って帰ればよかった。いや、違う。紙島の部屋以外のどこかにしてもらえばよかった。

 沈黙を埋めるように缶の中身を喉に流し込む。動きを止めてしまえば、この部屋の空気に呑まれてしまいそうだった。

 とはいえ、炭酸をそう大量には一度に飲み下せない。いよいよ気まずくなって、何か言おうと江上が口を開きかけたとき、軽い音とともに紙島の手にあったビールの缶がローテーブルに置かれた。思わず顔を上げると、榛色の瞳と目が合う。

「勧めちゃった手前こんなこと今更かもしれないけどさ、お酒、本当に飲んで大丈夫?」

 静かな声だった。江上を心から案じているのが分かる声だ。

 ローテーブルに置かれたビールの缶周りに水滴が輪を作っていくのを、江上はラベルをぼんやり眺めていた。

 本当に今更な話だ。

「大丈夫です。……別にアルコールに全く耐性がないってわけでもないですから」

 これは高校生の時に保健の授業で受けたパッチテストで確認済みだ。

 それ以前に、母親はともかくとして、父親を見る限り、江上は自分が酒を一切受け付けない体質ではないだろうということは分かっていた。

 そしてそのことを、少なからず疎ましく思っていた。

 記憶の中の母は、全くお酒を飲めない人だったから。だから、江上のこの体質は、父親譲りということになるから。

「でも、この間はスミノフ一本で潰れてたじゃん。大学に入ってからお酒飲む機会なんていくらでもあったでしょ?全然飲まなかったの?」

 テーブルに広げられた、キャンディのように包まれたスモークチーズを一つ開けて、ビニールの包装を解きながら紙島が訊いてくる。

 しかし、江上が答えるより先に、紙島は答え合わせでも求めるかのように言い放った。

「……わかった。二十歳になるまでちゃんと待とうと思ったんだ?」

 紙島には真面目そうだとか、大人しそうだとか言われだが、別に江上はそこまで真面目でも大人しくもない。

 だから、そういう優等生然とした理由などでは、断じてない。

「……あんまり、飲みたいと思えなくて」

 答える声が、否応なしに固くなることを自覚する。

 気付けば腿の上に置いた手は、白くなるまで強く握りしめられていた。あんなもの、口にするものかと思っていた。思っていた、はずだった。

 江上の尋常じゃない様子に気付いていないのか、紙島は淡々と続ける。

「そう? 酒って大人になる楽しみに一つだと思ったけど。じゃあなんでまた、あの夜は飲もうなんて思ったの」

「……嫌なこと、忘れられるって聞いたから」

「忘れたかった?」

 何を、と目が問うていた。

 きっと、ここへ来る前の江上だったら何も言わず押し黙っていただろう。

 けれど、今は——酒の効果なのか、するりと言葉が口をついて出る。

「ハロルドセンのライブ、もうこの先見ることが出来ないんだって。それが、いやで」

 ぽろぽろと零れる言葉に、紙島が虚を突かれたような顔になる。

「今までずっと、ウォークマンで聴けるだけで満足だったのに、ライブに行ってしまったら、もっとたくさん、生で聴きたくなって」

 けれど、もう二度とハロルドセンはライブを演らない。解散とはそういうことだ。

 その事実が、ライブ後になるとより一層江上の体を苛んだ。喪失感とは刃物の形をとるものだと江上は身をもって知ったのだ。

 江上の言葉に、紙島は何も答えなかった。


 

 時が経つごとに、自分の口にした言葉の重みを実感して、江上は途方に暮れていた。

 自分の発した言葉は、解散したばかりのバンドのメンバーに掛ける言葉として決して許される類いのものではない。解散に至る理由なんて、紙島自身が言っていたようにそう易々と説明できるものではないだろうし、仮に望んで解散したにせよ、もっとライブが観たかったなんて言うべきじゃなかったのだ。

 何も喋ろうとしない紙島に困り果てて、かといって何を言うべきか悩み、間をつなぐために江上が酎ハイに口を付けたときだった。

「……それで? ユキは俺のどこが好きなの?」

 噎せた。派手に噎せて、咳が止まらなくなった。

 生理的な涙が滲み、体を丸めて咳き込みながらも、無理矢理顔を上げて江上は紙島を見る。

 思った通り、そこには底意地の悪い笑みを顔中に浮かべた男がいた。狙っていたとしか思えないタイミングだったが、やはりそうだったらしい。

「おーおー、本当にお手本みたいなリアクションしてくれるなユキは」

 頬杖をついてにやにやと笑う男が恨めしい。咳が収まってきたタイミングで文句を言ってやろうと江上が口を開く前に、紙島が先手を打った。

「まあそれは冗談として。ハロルドセンを知ったきっかけとか? 知りたいわけよ」

「……そういうことなら始めからそう言ってくださいよ」

 胸の下で心臓が暴れるのがわかる。冗談だとしても、江上にとってはタチの悪い類いのものだ。

 無論、紙島はそれすら折り込み済みで言っているのだろうから、始末に負えないのだが。

「ネットに上がってた、『さよならユーリカ』です」

 答えると、紙島の人を食ったような笑みが一瞬引っ込められた。

「……あれか。それじゃ、本当に初めの頃から追っかけてくれてたんだ、ユキは」

 今度は黙って頷く。紙島の視線が、何かを探すように——あるいは、江上の目から逃れるようにあらぬところを泳いだ。

「めちゃくちゃ暗いやつじゃん。ユキ、ああいうのが好きなの?」

 たしかに「さよならユーリカ」は決してポップではないし、キャッチーとも言えないだろう。「破滅的」とか「暗鬱」とか、そういう言葉の方がよっぽどこの曲のイメージとして似つかわしい。

 それでも。

「……でも、俺にとっては、すごく安心できる曲だったんですよ」

 布団の中に潜り込んで、ウォークマンに繋いだヘッドフォンをつけて、再生ボタンを押す。

 そうすれば、狭いその場所が天国になった。酔っ払った父親のがなり声を聴かなくて済むし、何より眠ったふりをしていれば、手をあげられたり足を出されたりすることが少ない。

 だからずっと、江上はそうやって生きてきたのだ。ハロルドセンに出会ってからは。

「たしかに明るくはない、と思いますけど、それでも、そういうのが必要な人間だっています」

 真っ直ぐ紙島の顔を見据える。見慣れた軽薄な笑みは、その端切れすらどこにも残っていなかった。

「少なくとも、俺は救われたから。ハロルドセンに」

 紙島が目を見開く。榛色の瞳に自分が映り込んでいた。

 けれど、その表情までは分からない。

 今自分はどんな顔をしているのだろう。笑っているのか、怒っているのか、はたまた泣いているのか。

 ややあって、紙島が呟く。

「だからあのとき、ユキは俺のこと、神さまなんて言ったのか」

 ——冷や水を浴びせられたような心地がした。

 紙島と知り合ってから、一度だってそんなことを江上は言った覚えがなかった。それなら、初めて紙島と顔を合わせたとき——解散ライブ後、あの小さな公園で酔いつぶれ、紙島に拾われたときに、そんなことを口走っていたということだろう。

 江上にとって、紙島がそういう存在だというのは確かだ。けれどまさか、本人に直接伝えていたなんて。

 一瞬にして酔いが覚め、思考がクリアになる。紙島は、そんな風に自分を評したファンと、どうして付き合いを続けていたのだろう。気味が悪いと思わなかったのだろうか。いくら人がよくて、酔いつぶれたところを介抱してやったとして、それ以降も連絡を取ったりするだろうか。

「俺がユキとこうやって話をしていたいって思ったのは、そんな風に俺のことを言うやつが、どんな人間なのか知りたくなったからだよ」

 押し殺した声で紙島が言う。興味本位。ただそれだけの理由。

 たしかに江上のする、なんてことない話ひとつにだって、紙島は食いついてきた。興味本位というのもあながち嘘ではないのだろう。

 改めてそう言われたところで、ショックを受けたというわけではない。けれど。

 江上が口を挟もうとするのを、紙島の底冷えした視線が制した。

「でも、こんなのは止めにしよう。……もう十分だ」

 低い声だった。意志と無関係に、江上の肩が跳ね上がる。

「最後にいっこだけ大事なこと教えてやるよ、ユキ。——神さまなんて、どこにもいねえよ」

 口の端だけを中途半端に持ち上げた歪な表情は、到底笑顔とは呼べないものだった。普段のひょうひょうとした顔つきや、底意地の悪い笑顔とは似ても似つかない。

「……最後だって言うんだったら、俺にもひとつ、聞かせてください」

 声がみっともなくふらついた。紙島は相変わらず、笑顔のなり損ないのような顔つきで江上を見返している。

 ずっと聞きたかったこと。あの焼鳥屋で、とっさに口にするのを躊躇った質問のもうひとつ。


「どうしてあの日、『さよならユーリカ』をらなかったんですか」


 紙島の表情が強ばるのが、。

 さよならユーリカ。待ち望まれていた音源。

 ハロルドセンのはじめての——そして、最後の楽曲。

「……紙島さん、本当はまだ」

「うるさいよ、ユキ」

 ぴしゃりと言い放たれた言葉に身がすくんだ。

「……もう、帰れよ」

 続けられた言葉は有無を言わせない響きを帯びて江上の耳に突き刺さる。紙島は江上の方を見ようとはせず、江上もまた、紙島を直視することは出来なかった。

 言われるまま、慌てて江上は立ち上がる。座り続けていたせいか、はたまた酒のせいか、足がもつれた。それでも紙島は微動だにしない。言うことを聞かない足を叱咤しつつ、江上は玄関に歩を進める。

 二度足を踏み入れた、狭いこのワンルームに、三度目江上が訪れることはきっとない。

 やっとのことで玄関に辿り着き、スニーカーに足を突っ込んで、玄関のドアに手を掛ける。

「なあ、ユキ」

 背中に追いすがるように、その声が届いた。

 振り返るまいと決めていたのに、江上は声のする方へと首を巡らせる。相変わらず部屋の主はその場に座り込んだまま、動いてはいなかった。

 俯いた横顔は、眩いばかりの金髪で隠されて、その表情までは窺えない。

 呼吸を整えるように、華奢な肩がゆっくりと上下する。

 ——そして。

「お前はヘッドフォンの中でだけ、俺のことを知っていればよかったのにね」

 薄い硝子のような声だった。

 固いのに、どこか脆い印象をうけるその声が、江上の足を絡め取る。

 それから少しの間、江上はその場に立ちつくしたまま動けずにいた。

 やがて江上が立て付けの悪い戸を開き、外へ出るときになっても、紙島は顔を上げることはなかった。

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