4.

 鍵を開けようとして、ジーパンのポケットを検めていると、がちゃりと内側からドアが開けられた。

 ゆるくウェーブがかかった、茶髪の頭が僅かに開いた隙間からのぞく。

 これで特別に染めたりパーマをかけたりしているわけではないと言うのだから、羨ましい限りだった。

「おけーり、ユキ」

 あたりめを咥えた口をもごもごと動かしながら、ルームメイトが片手を軽く掲げてみせる。口の端でゲソがゆらゆらと揺れていた。

「ただいま。……なんか焦げ臭いな」

「おー。さっきコンロであたりめ炙ってたら、端っこがちょっと燃えちゃってさ。危うく火災報知器が鳴るところだったわ」

「なにやってんだよ、橘川きっかわ

 気のせいではなく頭痛が悪化するのを感じる。下手したらスプリンクラーで部屋中水浸しになっていたところだ。

 にへら、と笑うところをみるに、江上の言葉ひとつではこの男——橘川は、まるで堪えてなどいないようだった。


 狭い三和土を占領していた橘川を室内へと押しやって、江上も部屋に入る。

 学生寮は八畳の二人一部屋で、向かって左側が江上の、右側が橘川のスペースだ。水回りは全て各フロアごとに共用スペースがあるのみなので、この部屋は純粋に私物置き場兼寝室である。

 部屋の中央、緩衝地帯に置いたローテーブルに、橘川と江上は向かい合わせで腰を下ろす。

 このローテーブルは元々橘川が持ち込んだものだったが、今は二人で使うのが当たり前になっていた。

「ていうかユキ、昨日はどうしたんだよ。全然連絡つかなくなったから心配したんだぞ」

 江上を案じるようなことを言っていても、やはり口の端でひょこひょこ動くゲソのせいで全て台無しだった。

 返事をするのも億劫だったが、心配されていたのは確かだろうから、仕方なく口を開く。

「いや、酔いつぶれて気がついたら知らないところにいた、感じ」

「なんだよそれ。何も取られなかった? 大丈夫?」

 矢継ぎ早に質問を投げかけながら、橘川が江上の口にあたりめを突っ込んだ。その瞬間、えづきたくなるような苦みが口中に広がって、思わず江上は顔を顰める。

 確認するまでもなく、橘川が言っていたコンロで炙っていて焦がした——というより、燃やしたあたりめだろう。

 睨みつけるも、下手くそな口笛だけが返ってきた。口の中だけで、このやろう、と毒づく。

「……まあ何も取られはしなかったよ」

 一度学生証を奪われたけどちゃんと返してもらっているし、成り行きで連絡先を教えてしまったが、何も取られてはいないと言っていいだろう。

 うん、何も取られてはいない。……たぶん。

 しかし江上の歯切れの悪い返事を橘川は聞き流してはくれなかった。

「ほんとに? ユキ、げっそりしてるし何かあったんじゃない?」

 あたりめを咥えているとはいえ、真剣な顔でそう橘川に問い詰められても、江上は何があったかを子細に語る気にはなれなかった。

「ほんとになんでもないって。心配かけてごめんな」

 ひとまず今は寝たい。馴染んだ自分の万年床で。水分を摂ったらいくらかマシにはなったが、それでもまた頭痛は引いていなかった。

 着ていたTシャツを脱いで、カーテンレールに掛けてある洗濯物から適当な着替えを見繕う。

 いそいそと着替えを済ませていると、背後から声がかかった。

「それじゃ、俺部活行ってくるから。水、いっぱい飲んどけよ」

 スポーツバッグを肩に掛けた橘川が、依然心配そうな顔で念を押す。

「わかったよ、ありがと。あとは寝てるから橘川も早く出た方がいいんじゃ」

「ユキ」

 静かに、けれど強く名前を呼ばれて思わず声をのむ。

 橘川のいつになく真剣な眼差しが射貫くように江上に向けれていた。

「……あんなに酒飲むの嫌がってたのに、どういう心境の変化よ?」

 痛いところを突いてくる、と素直に思った。

 大学に入学してから間もなく半年が過ぎようとしているが、江上はあらゆる飲み会でウーロン茶ばかり頼んでいたし、飲酒を強要されそうになったときでは、パッチテストで皮膚が真っ赤になるくらいアルコールに耐性がないのだと伝えて飲まないようにしてきた。

 橘川がおかしいと思うのも無理はない。

 いや、へらへらしているようで、些末なことまでしっかりと覚えている上、人の機微によく気付くのが橘川という男なのだ。

 言い訳をしっかり考えておくべきだった。が、もう遅い。

「別に大した理由なんてないって。なんとなくだよ」

 我ながら苦しい返しだと思いつつも、それ以上を橘川に話す気にはなれなかった。

 橘川も、江上が何も話す腹づもりがないことを察したらしい。 あきらめたように視線を外して、短く息を吐く。

「……ま、話したくないならいいけどさ。それじゃ」

 最後まで何か言いたそうな顔をしていたものの、時間に追われているのは確かだったようで、橘川は足早に部屋を出て行った。

 そうして、焦げくさい空気と、頭痛に苦しむ江上だけが部屋に残された。


 浅い眠りと中途半端な覚醒とを何度か繰り返して、ようやく江上が体を起こした。正確には、カーテンの隙間から漏れる西日がもろに顔を直撃したせいで、強制的に目覚めさせられたのだった。夏の盛りに比べれば随分とましになってきたが、この部屋は西日がきつい。

 まだ橘川は帰ってきてないようだった。立ち上がって、部屋の入り口脇の冷蔵庫までのろのろと歩み寄る。麦茶のペットボトルを取り出して手近にあったマグカップに注ぎ、よく冷えたそれを一気に煽ると、ようやく頭がすっきりした。

 冷蔵庫に麦茶を戻すついでに、中身を確認する。食べかけのキムチと、豆腐が一丁。それにプリンが二つ。夕飯に何か作るなら、買い物に行かなければ。——いや待て、橘川にお使いを頼めばいいのでは?

 自分の布団まで逆戻りして、枕元に置いておいた携帯を開く。メールが三通届いていた。

 内二件は解約しそびれて惰性で受け取っているメルマガだったので、読まずに削除する。

 残りの一通の差出人を確認したところで、江上は携帯を取り落としそうになった。

 昨夜から今朝にかけての出来事は全て、リアルな夢でも見ていたのだと。そう片付けようとしていたところだったのに。

 紙島萌。薄闇の中で煌々と光るディスプレイに表示されていたのは、忘れもしないその名前だった。



 再会は、こぢんまりとした焼鳥屋の個室で果たされた。

 もちろん店を選んだのは紙島で、江上は呼び出されるがまま店に来て、言われるがまま個室の掘りごたつに腰を落ち着けているにすぎない。

「まさか昨日の今日で、こうして会えるなんてね」

「会えるなんて、じゃなくて、紙島さんが呼び出したんでしょうが」

 中ジョッキ片手に、江上の向かいに腰掛けた紙島が機嫌良さそうに肩を揺らす。江上のささやかな反論など、どこ吹く風だ。

「でもユキちゃん来てくれたじゃん。嬉しいよ。それに昨日会ったときは石像みたいだったけど、ちゃんと会話出来るようになってて安心した」

 来てくれて嬉しい。

 屈託なく笑って返された言葉に江上の息が詰まる。

 心臓を直に撫でられているような、そんな心地がした。

 勘弁して欲しい。気軽にそんな言葉をかけるのは。

「……バイト、休みだったんで。あとユキちゃんって呼ぶの止めてください。昨日はそりゃ、あんな状況だったら固まるしかないでしょう」

 やっとのことで江上が答えると、目を輝かせた紙島が身を乗り出してくる。

「バイト? なんの?」

「カフェです。大学の近くの」

 立地のわりに客足が少なくて、わりあい楽なバイトなのだった。紹介してくれた学科の先輩には感謝してもしたりない。

 一介のバイトの身であるとはいえ、あまりに暇なので少し経営が心配になったりもしたが、元々は夜、バーとして営業していた店で、カフェはオーナーが片手間に始めたものらしい。その話を聞いて以来、安心とは言わずとも、店の経営については深く考えなくなった。

 むしろ、このままひっそり営業を続けて欲しいと思う。客が溢れて仕事が増えるのも嫌だった。

 客がいないときなら、本を読んでいようが課題をやっていようが、お咎めなしなのだ。

「オッシャレなのやってんな〜。場所、教えてよ。行ってみたい」

「別にいいですけど、それじゃあとでメールします」

「あとじゃだめ。今すぐ。じゃなきゃ忘れるでしょ」

 先付けにだされたレンコンのきんぴらを飲み込んで、眉を寄せた紙島がぴしゃりと言う。

「忘れないですよ」

 昨日、いや一昨日のようにお酒を飲んでいるわけでもなく、江上はいつも通りウーロン茶を頼んでいる。

 飲み屋に来たとはいえ、流石にお酒を飲もうという気にはなれなかった。紙島は頼んでも構わないとは言ってくれたが。

 そう、今は完全に素面なのだ。江上は記憶力が優れているというわけではないが、それでも忘れるとは思えなかった。

 だって今こうして一緒に食事をするような間柄になっているというのも未だに信じられない人の言葉なのだから。

「何言ってんの。ユキじゃなくて俺が忘れる」

 呆れたように言い放たれた言葉に、気を張っていた江上の方が脱力してしまう。

 自信満々に何を言うか。

「……わかりました。メールするんで、少し待ってください」

 手早くメールの本文に店名や場所を打ちこんで送信する。

 紙島も受信したメールを即座に確認して満足げに頷く。

「ありがと。そういや、あのあと親御さんには心配されなかった?」

「いえ、今は一人暮らしなんで大丈夫です。一人暮らしっていっても学生寮なんですけど」

 真っ当な大人の顔で心配されると、むずかゆい気持ちになる。不意にみせる、紙島のこういう顔はずるい。散々人をからかったり弄り倒したりしてきたくせに。

「へえ。じゃあ実家は遠い?」

「北海道ですよ。こっち、ちゃんと入学式の時期に桜が咲いててびっくりしました」

「びっくりするとこ、そこなんだ?」

「俺の地元だと、ゴールデンウィーク過ぎなきゃ桜なんて咲かないですから」

 畳みかけられる質問に答えていくと、紙島が子どもみたいな目で大仰に驚いた。いつも振り回されているのは江上の方だから、紙島のそんな表情は新鮮だった。

「俺、生まれも育ちもずっとここだからカルチャーショックだわ。同じ日本なのにな」

「桜前線って毎年ニュースで流れるでしょう」

「いや、いちいち他所よその情報まで確認しないでしょ。自分の住んでるところさえ確認出来れば充分じゃん」

「まあ、言われてみればその通りですけど」

 たしかに江上だって、他所の桜の開花時期を気にしたことなんてない。素直に納得する江上に、紙島が「だろ?」と言って得意げに笑う。

「そんじゃ、俺ばっかりユキの話聞くのもなんだし、なんかユキが俺に訊きたいことがあったら訊いてよ」

 なんでもいーよ。運ばれてきたばかりの砂肝をとると、串から身を外さず、そのまま紙島は口に運ぶ。

 江上はといえば、ただそんな紙島を見ていることしかできなかった。

 訊きたいことなんていくらでもある。けれど、いざ訊いてもいいと言われたところで、即座に質問は浮かばなかった。

 正確には浮かばなかったわけじゃない。即座に浮かんだ二つの問いは、けれどどうしても口にするのを躊躇われるものだったのだ。

 もっと他の、当たり障りない質問をしなければ。

「それじゃあ、ええと……なんで紙島さんは」

「ん?」

 串に残った最後の砂肝を器用に引き抜いて、紙島が首を傾げる。

「なんでバンド、はじめたんですか」

「……なんか逆に新鮮だわ、その質問」

 虚を突かれたような紙島の表情が、じわじわとくすぐったそうなそれに塗り変えられていく。

 息を殺して答えを待つ江上を前に、紙島はもったいつけるように店員を呼び止めてビールのお代わりを注文した。

「——さて、なんでだと思う?」

 こちらを向いた紙島からは、先ほどの照れ隠しのような表情が綺麗に消え失せていた。

 代わりに挑むような顔つきで江上を見据えている。

「え? えっと、そんな」

 想像もつかないから訊ねたのだ。それなのにこうして問い返されてしまっても、ただ江上は狼狽えることしか出来ない。

「はい、時間切れー。正解は……」

「正解は……?」

「モテたかったから」

 生真面目な顔と声で告げられた言葉を、江上は飲み込めずに口の中で反芻する。

 モテタカッタカラ。もてたかったから。……モテたかったから?

「おー、わかりやすく軽蔑した顔つきになってら」

 悪戯が成功したような顔でニヤニヤと紙島が笑う。

 軽蔑されているのを感じながら、嬉しそうなのはなぜなのか。

「……そんなこと思ってませんって」

「正直に言ってみ? がっかりした? もっと高尚な理由があるとでも思った? 始める理由なんてそんなもんだっての」

「別に、何がきっかけだっていいです。……こっちから訊いておいてなんですけど」

「優等生な答えだな、つまんねえのー」

 唇を尖らせて紙島がふて腐れてみせる。たしか、江上よりも紙島は最低でも六歳は離れているはずだ。それでも余程この男の方が子どもっぽい。

「まあでも、バンドはいいぞ。モテる。ユキも始めるといい」

「はあ……」

「俺なんか大学入学したての頃はユキみたいに冴えない感じだったけど、ギター持ってステージに立つようになったらモテたし」

「……今、さりげなく人を小馬鹿にしました?」

「馬鹿になんてしてないってば。俺としては、ユキもモテるよっていうポジティブなメッセージを受け取って欲しかったね」

 いよいよ閉口するほかない。なんでこんな話になったのか。いや、元を辿れば江上のせいではあるが、しかし。

 そろそろ引き上げた方が良いのかもしれない。紙島が酔っているのは明らかだったし、これ以上面倒なことになる前に別れた方がいいのではないか。でも、昨日は江上が面倒見てもらったわけだし、何より紙島を一人にしておくのは危険な気がした。

 さてどうしたものか。ひとまずもうお酒は取り上げて、お冷やを飲ませた方がいいだろう。

「……ユキは、オースン・スコット・カードって作家、知ってる?」

 不意に投げかけられた質問に、店員を呼ぼうと開きかけていた口を江上は反射的に噤む。

 唐突な質問だったものの、軽く受け流してはいけない気がした。

 なにか、これから一言たりとも聞き逃してはいけない話がされようとしている。そんな予感があった。

「……初めて聞きました」

 慎重に答えると、紙島は気落ちするでもなく、そっか、と呟く。

 その顔には赤みが差しているものの、顔つきは至って冷静だった。

「カードの短編に、『無伴奏ソナタ』ってのがあるんだけど、その主人公の名前がクリスチャン・ハロルドセンっていうのよ」

 ハロルドセン。——紙島のバンドだ。そして、江上が焦がれて止まないバンドだ。

「そう、バンド名はここから貰ったの」

 何かを懐かしむように目を細める紙島は、江上を見てはいなかった。

 その視線の先に何があるのだろう。もしかしたら、ハロルドセン結成当時の光景が見えているのかもしれなかった。

「っと。そろそろいい時間だな。引き上げるか」

 携帯で時間を確認した紙島が危うげなく立ち上がる。そこまで酔っているわけでもなさそうだった。

「え、でも」

「『無伴奏ソナタ』? それなら、今度ユキのバイト先に遊びに行くついでに持ってってやるよ」

「あ、ありがとうございます。ってそうじゃなくて!」

 こんな中途半端に話を聞かされた状態で放り出されるなんて、あんまりじゃないか。

 追いすがる江上の方を見ようともせず、紙島は店の出口まで大股で歩いて行く。いつの間にか会計も済ませていたらしい。

「また気が向いたら話すって。慌てんな」

 店の外に出たところで、ようやく紙島が江上を振り返った。両手をポケットに突っ込んだまま仁王立ちしている姿を、ちょうど街灯がスポットライトのように照らし出している。

 こう言われてしまってはそれ以上追及することなど、当然江上には出来なかった。

 紙島の気が向くのを待つしかないだろう。どうせ、江上は紙島の手のひらの上だ。

「あの、お金は」

「だからいーってば。昨日そう言ったでしょ? それじゃ、帰り道気を付けてな」

 右手だけをポケットから出して、紙島がひらひらと手を振ると、そのまま背中を向けて歩き出す。

 その背中を黙って見送ることしか出来ず、江上は暫くの間、その場に立ちつくしていた。



「おけーり。ラーメン作ったところだったけど、食う?」

 江上を迎え入れた橘川は、既に風呂に入ったのか寝間着姿だった。その肩越しに、ローテーブルに載せられた片手鍋をみつける。

 鍋からはまだ、ほこほこと湯気がたっていた。良いタイミングで帰ってきたらしい。醤油スープの香ばしい匂いが江上の鼻をくすぐる。

「ただいま。貰うわ」

 麺を茹でるときに、もやしを丸々一袋投入して一緒に入れて茹でる。

 茹で上がった麺ともやしを、蓋をつかって雑に湯切りしてから、別添えのスープを入れて適当な量のお湯を足して混ぜたら完成だ。

 そうやって、橘川がいい加減に作るインスタントラーメンは不思議とうまい。

「夕飯食べてきたんだよな? 足りなかった?」

「まあ、あんまり食べるどころじゃなかったってところかな……」

 正直、紙島との食事でお腹いっぱい食べられたかと言うと、決してそんなことはなかった。

 いくら昨日よりまともに話せるようになったとはいえ、やはり緊張するものは緊張する。

 正直に言えば、食べたものの味だってよく覚えていない。

「なんかその割には機嫌よさそうじゃん? いや、機嫌いいっていうよりいつも以上にぼけーっとしてるっていうか、夢見心地っていうか……」

 橘川が手にした菜箸を江上に寄越してきた。

 洗い物を減らしたいがために、ラーメンを作るときは一つの菜箸で交互に食べるのが当たり前になっている。もちろん丼なんて使わないで、鍋から直接食べる。

 とはいえ、そんな話を寮の別室の友人にすると、もの言いたげな顔をされてしまうのだが。

「さては……さてはデートか!」

「違うわ!」

 被せ気味に声を上げると、橘川の無遠慮な視線が江上の上を這い回った。

 確かに、あこがれの人と食事をしたというのは否定しない。でも、紙島は相手ではない。

「俺という男がありながら……見損なったぞユキ」

「何アホなこと言い出すんだよ。それに橘川だって彼女がいるだろ」

 大学入学して早々、橘川は彼女を作っているのを江上は知っている。

 実際、何度か顔を合わせたことだってある。小柄で大人しい子で、意外に思ったからよく覚えていた。もっと、溌剌とした明るい子を選ぶと思ったのだ、この男なら。

「俺ぁいいんだよ。一夫多妻制だからな」

「女にカウントされてるのか、俺は」

 心底げんなりしている江上の前で、橘川は暢気に「まあ落ち着けよ、ユキちゃん」なんて言って笑う。

  


 昼過ぎから降りだした小雨は、勢いこそ弱いもののなかなか止みそうになかった。

 ダウンライトに照らされた薄暗い店内には、テニスコーツが控えめな音量で流れている。雨音と混じり合ったそれは、絶好の子守歌になっていた。

 だから、江上が店のバックヤードで無聊を慰めるために持ち込んだ文庫本片手にまどろんでいたのだって、仕方ないことだったのだ。……決して褒められたことではないとはいえ。

 不意に、入り口のドアに釣るされたウィンドウチャイムが涼やかな音を立てた。耳慣れたその音に反応して、ほとんど反射的に江上は立ち上がる。客だ。仕事だ。目を覚ませ。

 バックヤードから店内に戻りつつ、入り口に立つ客の姿を確認したところで、江上は口を「いらっしゃいませ」の「い」の字に開いたまま、固まった。

 確かに場所を教えはした。その後シフトの確認だってされた。

 されたのだが、これはさすがに早すぎる。

「……ほ、ほんとに来た」 

「なんだよー、来ちゃ悪いのかよー。っていうかユキちゃん、段々俺に対する態度が酷くなってきてるね?」

 戸口に立っていたのは紙島だった。ビニール傘片手に肩をすくめる仕草が妙に様になっている。

 黒いニットキャップにその金髪の大半をしまいこんでいるものの、却って前髪や、キャップから零れたサイドの毛束が眩しく見えた。

 今日の紙島は、パーカーに細身のパンツを合わせたラフな格好をしている。背負っているリュックも相まって、現役の大学生のようだ。実際は何年も前に卒業しているはずだが。

「シフトの確認してきたの、昨日の夜だったでしょう。あと、再三言ってますけどユキちゃんって呼ぶのはいい加減にしてくださいってば」

 メールで呼び出され、焼鳥屋で顔を合わせてから、二週間ばかり。

 その間、紙島は一度だって連絡を寄越さなかった。そのせいもあって、江上の中でも、今度こそあの二日間の出来事は夢の中の出来事として処理されようとしていた。

 何度思い返してみたところで、あれは現実のこととして受け入れるにはあまりに鮮烈で、そのくせ突飛だった。それならいっそ全て夢だったと言われた方が納得出来る。携帯に紙島とやりとりした形跡が残っていたとしても。

 だからこそ、昨夜久しぶりに届いたメールに江上は動揺したのだ。

 嬉しいという気持ちだって勿論ある。けれどその一方で思う。

 なぜこのひとは、こうして未だに自分と関わりを持とうとしているのかと。

「だから暇してるって言ったじゃん。そんなことよりおにーさん、メニューもらえる?」

 いつの間にやらカウンターのスツールに腰を下ろしていた紙島が、そう言って江上をせっつく。

 言いたいことは色々あったが、今江上はバイト中で、紙島は客だ。仕方なく飲み込んで、グラスに水を注ぎメニューと共に渡す。

 受け取ったそばから、ぺらぺらと紙島がメニューを手繰りだす。手持ち無沙汰の江上は、その様子をそっと窺った。

 目を取られるのは、その指先だ。紙島は、長く綺麗な指をしていた。かといって、ほっそりとして女性的だというわけでもない。

 大きくてしっかりと厚みのある男の手だ。 ギターを弾いていたのだから、皮だってきっと固い。

「ん、決めた。ハートランドで」

 顔を上げた紙島が、カウンターを挟んで正面に立つ江上に視線を寄越す。慌てて江上は紙島から視線を外した。盗み見ていたことに対する罪悪感か、あるいは居たたまれなさからか。

 紙島に背を向けて、江上は冷蔵庫から緑の小瓶と背の高いグラスとを取り出す。コースターと栓抜きを用意すれば、もう江上の仕事の大半は終わってしまった。カウンターから手を伸ばして、紙島の前にコースターとグラスを置き、それから横にハートランドの瓶を並べる。紙島はといえば、物珍しそうに店内を見渡していた。

 江上のバイト先であるrofは、四階建てのビルの二階に位置する小さなカフェだ。

 意匠もさまざまなソファセットが三組と、店内中央に置かれた大きな机の周りに椅子が六脚。それにカウンター席が四つ並ぶだけで、店内はいっぱいになる。もちろん、空間にゆとりを持たせているせいもあるのだが。

「ん? あれは?」

 紙島が何かに気付いたように壁の一点を示す。釣られるように、江上もその指先を辿っていき、何を問われているか確認して、息を詰めた。

 クリーム色に塗られた壁に、マジックで書かれたそれは。

「……サインですよ。たまにこの店でライブがあるんです。そのとき来てくれたアーティストが、壁にサインを残していくのが恒例になっていて」

 早口で説明しつつ江上はハートランドの栓を抜き、グラスに注ぐ。

 とてもじゃないが、紙島の顔を見る気にはなれなかった。

「そっか」

 静かな声が返ってくる。

 相変わらず雨は強くなるわけでもないが、かといって止みそうにもない。一方で、店内のBGMはテニスコーツからビル・エヴァンスにいつの間にか変わっていた。


「……そうだ、忘れる前にこれ、渡しておくわ」

 無言でハートランドを煽っていた紙島が、リュックに片手を突っ込んで文庫本を一冊取り出した。

 表紙を確認する前に江上は思い出していた。ハロルドセンの名前の由来が、ある短編小説の主人公だということを。そして、その短編が収められた本を紙島が貸してくれると言ってくれたことを。

「『無伴奏ソナタ』な。興味あったら読んでみて」

「ありがとう、ございます」

 差し出された文庫本は、随分とくたびれている上に日焼けも酷い。カバーだってボロボロだ。

 慎重に受け取って、バッグヤードまで運び、自分の鞄に仕舞い込む。

「主人公のクリスチャン・ハロルドセンは、生後六ヶ月で音楽の才能に恵まれていることが発覚したんだ」

 再び江上が店内に戻ったところで、暗唱するように紙島が語り出した。

「無伴奏ソナタ」のあらすじを教えてくれるつもりらしい。

「六ヶ月で?」

「そう、六ヶ月で.すごい世界だよな」

 グラスを揺らして紙島が口の端だけで笑う。

「それからクリスチャンは両親とも引き離されて、既存の音楽が一切ない環境に追いやられた。……それでもクリスチャンは作曲をするようになっていった。誰の影響も受けずに、ただ一人の力で」

 それだけオリジナリティ溢れる音楽を、紙島は作りたかったのだろうか。

 だからバント名をハロルドセンにしたのだろうか。

 そんな仮説をたてる江上をよそに、紙島の話は続く。

「でもあるとき、彼はバッハの音楽を聴いてしまう。既存の音楽を耳にするのは許されないことだった。だってそれは、クリスチャンの音楽性を損なうことになるって考えられていたからね。案の定、クリスチャンの作る曲は変化してしまった。そのせいで、彼は音楽を作る資格を奪われてしまったんだ。それだけじゃない、楽器に触ることも、歌を歌うことだって」

「音楽を作るために孤独にされたひとが、ですか」

「……そうだよ。でも、彼は音楽から離れられなかった」

 グラスを傾けて紙島がビールを煽る。その喉仏が上下する様を、江上は黙って見ていた。

「まず、クリスチャンはピアノを弾いてしまったせいで、罰として全ての指を切り落とされた」

 こともなげに続けられた話に、江上は凍り付く。そんなにも、罰は重いのか。

 表情の読めない顔で、紙島は自分の両手を握りしめ、江上の前に見せる。

「こうなってしまうと、楽器を演奏するのは難しい。でも、その次にクリスチャンは、身一つで奏でられる音楽を始めた」

「……歌ったんですか?」

「自分で作った歌をね。でもそれもばれて、やっぱり罰を受けることになった。今度の罰は、声を奪われることだった」

 フィクションの出来事とはいえあまりにむごい話だった。

 知らず知らずのうちに顔が強ばっていたことを自覚して、江上は苦い気持ちになる。

「——俺も、だと思ったんだけどな。『ハロルドセン』をはじめたときは」

「え?」

 ぼそりと呟かれた一言は、けれどしっかり江上の耳に届いた。

「べつに、クリスチャン・ハロルドセンみたいに音楽の才能があるなんて思ったわけじゃないよ。そんなこと、ほんの少しだって思ったことはない。ただ、おれは」

 江上の指先が、何かを確かめるようにカウンターを叩く。ゆっくりと、間を開けて。一度、さらにもう一度——そして。

「何を奪われたって、音楽を続けて行くんだと思ってた。自分には音楽以外は何もない、なんて思ったことは一度もなかったけど、でも実際に止めてみたら何にもなかったわ。なぁんにも。でも、そのくせ続けていける気もしないんだよ」

 空々しい笑い声が、江上と紙島の間をたゆたって消える。

 それは、軽薄な言動を繰り返してきた紙島から、初めて発せられた生々しい言葉だった。

 あるいは刃物といってもいい。研ぎ澄まされたナイフのようなそれが、江上の鼻先に突きつけられている。

 耳の奥がひどく熱かった。心臓はもうずっと、胸から飛び出さんばかりに暴れている。

 そこまで言うのなら尚のこと。

「……どうして、やめちゃったんですか」

 やっとの思いで絞り出した声は、みっともなく掠れていた。

 焼鳥屋で聞かれて、咄嗟に口にするのを躊躇った質問のひとつだった。ハロルドセンの解散発表時には、メンバーは具体的な解散の理由について語らなかったし、解散ライブのときのMCだってそうだ。

 ハロルドセンは、紙島は、解散の理由をひとつだって口にしてはいない。

 江上の問いなど予想の範疇だったようで、紙島の変化といえば唇を軽く歪めてみせたくらいだった。

「……理由なんて、そう簡単に説明できるもんじゃないよ。それとも、分かりやすい理由でもほしい? 音楽性の違いとか?」

 あれだけ鉛のように重たかった声は、言葉尻にむかうに従っていつもの軽さが戻っていた。突きつけられていたと思ったナイフの気配だって、いつの間にやら消え失せている。

 瞬きの間の変化に戸惑った。さっきの言葉は結局なんだったのか。江上が本音だと思って掴んだあの言葉は、幻だったのか。

 そこまで思考を巡らせたところで、はたと江上は気付く。ひょっとして、自分はまた、遊ばれているのではないか。

 思えば出会い頭から散々おちょくられてきた。その度、にやにやとこちらを見ていた紙島の顔が脳裏に浮かぶ。

 今し方、深刻そうな声音でそれらしいことを言ったのだって、江上の動揺を誘うためかもしれない。

 そう思うと、じわじわと怒りがこみ上げてきた。

 たしかに紙島はあこがれの人だ。それは絶対に揺るがない自信がある。けれど。

 ——ひとが、どんな思いで、さっきの質問を投げかけたと思って。

 一言何か言ってやらなければ気が済まない。伏せていた顔を勢いよくあげたところで——正確には、こちらを見据える紙島の表情を確認したところで、江上の頭に渦巻いていた苛立ちは潮が引くように消え失せてしまった。

 予期していた、底意地の悪さが滲む笑みは、そこになかった。

 代わりにあったのは、眩しいものを見るように細められた榛色の瞳が一対と、わずかに持ち上げられた口角とで象られた、あまりに淡い微笑だった。

 紙島のこんな表情なんて知らなかった。

 直接顔を合わせるようになってそれほど時間が経っていないのだから、知らない表情があることなんて当然だ。

 頭ではそう分かっていても、それでも江上は皮膚の下でぞわりと何かが蠢くような違和感を振り払いきれずにいる。

「……そうだ。ユキのバイトは何時まで?」

 顔を上げたものの、掛ける言葉をなくして黙りこくる江上へ、紙島のいつになく柔らかな声が投げかけられた。

 質問の意図を計りかねて口ごもる江上に紙島は続ける。

「うちにおいで、ユキ。もう少しおにーさんとお喋りしよう」





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