3.

 真っ先に目に入ったのは、見覚えのない天井だった。

 天井というのは正確ではない。おそらく、視界を埋め尽くしているのはハンガーに掛けられ吊された夥しい数の服だ。その下に寝かされているのだろう。

 一見クリーニング屋のようでもあったが、クリーニング屋だとしたら服の一着一着にビニールが掛けられ、独特の匂いがするはずだ。けれどここには、とくにこれといった匂いもしない。強いて言うなら、よそんちの匂い。嗅ぎ慣れない衣類洗剤の匂いだ。

 とすると、ここはどこかの家のクローゼットだろうか。

 瞬きを繰り返すうちに鮮明になる視界は、けれど初期の印象を覆すほどの情報を拾ってはくれない。

 江上は現在大学の寮暮らしだ。当然ながらこんな上等なクローゼットとは無縁だし、実家にもこんな場所はなかった。

「お? 目ぇ覚めた?」

 吊された服と服の間から、声が投げ込まれる。声がする方に首を捻ると同時に男の首がにゅっと姿を現した。

 逆光で顔をしっかり確認できないものの、そのつややかな金髪には見覚えがあった。

 見覚えはあったが、いや、まさか。

「鳩が豆鉄砲を食ったような顔してら、ははは」

 男の口元がにい、と底意地の悪そうな笑みを象るのを、江上はぽかんと口を開けたまま見ていることしか出来ない。

 だって、その男は——。

「……んな馬鹿な話が」

 声を出しながら跳ね起きようとして、頭が割れるような痛みにそのまま元居た場所まで逆戻りする。

 ハンマーか何かで頭の内側から頭蓋骨を滅多打ちされるような痛みは、初めて経験するものだった。

 なんでこんなことに。思い返せば、昨夜のライブ後に、コンビニに寄って適当な酒を買って——年齢確認をされるのではないかとひやひやしたからか、ここだけは妙に記憶が鮮明だ——そのままふらふらと歩いて、行き当たった公園のブランコで飲んだことは覚えている。

 でも、その後は? 覚えていないが、自力で寮まで帰ってきたのだろうか。

 ——違う。だってここから見えるのは、覚えのない天井だ。

 とはいえ、覚えのない、というのは正確ではない。江上の視界は今し方まで見ていた夢と全く同じだった。

 まだ夢を見ているのか。紛らわしい。思いながら、寝返りをうったところで——凍り付く。

 折り曲げた肘を枕にして、自分と同じように寝転がってこちらを見ている男は。見覚えがあるというにはあまりに記憶にべったりと張り付いているその顔は。

 夢の中で見たように、男の口元がにい、と底意地の悪そうな笑みを象る。

「お? 目ぇ覚めた?」

 江上のすぐ隣で寝ていた男。

 それは、昨夜のライブでステージに立っていた、ついさっきまで見ていた夢で出てきた、ハロルドセンのボーカルギター、紙島かみしまめぐむその人だった。

 


 魚のように口をぱくぱく動かすだけの江上をひとしきり笑うと、紙島は立ち上がって部屋を出て行った。

 ややあって、ミネラルウォーターのボトルを手に戻ってくる。

 体を中途半端に起こしたまま、石像の如く固まる江上の頬に、ボトルの飲み口がひたりと当てられた。

 そのまま感触を確かめるように、ふにふにと押しつけられる。

 おもちゃにされているのは、紙島の表情を見れば明らかだった。それでも江上は動くことが出来ない。

「おーい、いつまで固まってんの。とりあえず水分とりな。ほら」

「あ……はい」

 その一言で、呪縛から解き放たれたように江上はぎくしゃくと頬に当てられたボトルを受け取る。キャップを開けながら、そういえば昨夜のライブでも同じミネラルウォーターを飲んだな、なんてどうでもいいことを思い出してしまう。

 そうでもしなければ——現実逃避でもしなければ、こんな状況、乗り切れない。

 正面には胡座をかいて、こちらをにやにやと見ている金髪の男がいる。膝に肘をおいて頬杖をつき、斜め下からのぞき込むように江上の顔を窺っているせいで、俯いたところでその斜め右下から向けられる視線は躱すことができない。

 あまりの居たたまれなさにどうかなりそうだった。

 どうしてこんな状況になってしまったのかはまだ聞いていないし、怖くて聞くのを憚られるが、大体の検討はつく。その経緯を想像するだけで頭をかきむしって呻き声を上げたくなるところだが、それ以上に。

 手を伸ばせば触れられる位置に、ずっと手が届かないと思っていた人が、いる。

 その事実だけで思考が空回りして、うまく言葉が出てこない。

 きっと謝らなきゃいけないことがあって、お礼を言わなきゃいけないことだってあるはずなのに。

 いや、それだけでじゃない。他にももっと、言いたいことが——。

「んで? 江上幸晴くん?」

 口に含んだ水を噴き出さずに済んだ自分を褒めてやりたい。

 口を押さえて激しく噎せる江上の背中に、紙島の手が回った。

 乱暴に背中を叩かれる。大きな手だった。それに、指先の皮膚だって硬い。着ているTシャツごしでも分かる。

「大丈夫? にしてもお手本みたいなリアクションするな、江上くんは。大人しそうな顔してるのに」

「な、なまえ、どうして」

「はは、片言だ。さーてどうしてでしょう?」

 歌うように言いながら、紙島は履いていたスウェットのポケットから何か取り出してみせる。もったいつけるつもりもなく、種明かしをしてくれるらしい。

 長い人差し指と中指に挟まれて、ポケットから姿を現したのは一枚のカードだった。それも江上の学生証だ。近寄って確認するまでもない。

 鬱陶しそうな長い前髪の下で、細められた目がこちらを睨みつけるように見据えている。

 自分の顔写真だ。四年間使うものなのだから、もっとマシに撮れたものにすればよかったと常々後悔している写真だ。

 嫌だけど、やっぱり眼鏡をかけて写ればよかった。裸眼で撮るからこんな風にレンズを睨みつけるような目元になってしまったのだ。

「わりーけど、ちょっと財布から抜かせてもらったわ。さすがにどこの誰とも知らないやつを部屋に上げるのは抵抗あったしさ」

 言葉のわりに、ちっとも悪いなんて思ってない口ぶりで言って紙島が笑う。その上、手にした学生証をひらひらと振ってみせながら「しかし江上くんは優秀だな、いい大学じゃないの」と付け加えた。

「……あの、えっと、すいません!」

 緊張がようやく解けてきて、やっと言いたい言葉が口から出た。腿の上で手をぎゅっと握って、紙島の方を見ることも出来ずにその握りしめた手に視線を落とす。

「なんてお礼、いやお詫びをすればいいか……」

「礼には及ばんよー。にしてもすごい言い回しをするな、江上くんは。昔話かなんかに出てくる人みたい」

 紙島が学生証を手にしたまま、にししと笑う。年は江上よりも幾分上だったはずだが、こうして笑った顔を見ると江上とそれほど年の差を感じさせない。眩しい金髪のせいもあるだろうが。

「それじゃあ俺も一応名乗っておこうかな。さっきの江上くんの反応を見る限り、必要ないかもしれないけど」

 学生証が江上の手に戻される。榛色の瞳が細められた。考えの読めない表情だった。

 それ以上に、マイクを通さない声が自分だけに向けられている。そのことだけでもどうにかなりそうだった。

「紙島萌です。昨日はライブに来てくれてありがとな」

 改めて当人の口から明かされる事実に、再び江上は固まるしかなかった。

「して、江上くん。いや……江上くんって呼ぶのも他人行儀だな。なんかあだ名ないの?」

 他人行儀も何も、赤の他人であるのに何の間違いもないのだが、今の江上にはそう訂正するだけの余裕はなかった。

 訊かれるまま、素直に答える。

「ユキって呼ばれることが多い……です。幸晴ゆきはるだと長いし、名字も発音しにくいからって」

「ユキか。なんかそれだと女の子に勘違いされそうだな」

「ひ、否定はしないですけど、それだったら紙島さんだって」

 口をついて反論が飛び出す。

 紙島のフルネームは紙島萌だ。初めて見たときは女の名前だと思ったのは印象深い。

「まあね。俺も散々萌ちゃんだの萌さんだの呼ばれてきたわ」

 こんなゴツイ男捕まえて萌ちゃんなんてひでえの。ちっとも傷ついてない顔で紙島は笑う。

「でもそれならユキと俺は仲間だな、女に間違えられそうな名前仲間」

 紙島が何気なく口にした、仲間という言葉に心臓を握られるような心地になった。再び固まる江上に気付いているのかいないのか、紙島の話は続く。

「それじゃあユキ。改めて状況を整理しておこう。昨日のライブ終わった後のこと、どれだけ覚えてる?」

「ライブ後に、コンビニに寄ってお酒を買って。赤いラベルが貼ってある瓶入りの……たしかスミノフっていうやつだったと」

「うんうん。合ってるよ」

「……適当に見つけた公園に入って、ブランコに座って飲んだのは覚えているんですけど」

「その後のことは覚えてないと?」

 紙島の神妙な面持ちが呆れを滲ませたものに取って代わるのに、そう時間はかからなかった。

「全然覚えてなかったか……」

 ため息をとともに紙島の舌先を離れた言葉は、ただでさえ萎縮していた江上を更に萎縮させるのには充分だった。

「お、俺なにか! なにかしてしまいましたか!」

「いんや、こっちの話。別に気にしなくていいよ。それよりほら、水飲みな。さっきの感じだと二日酔い酷いんじゃない?」

 言われて、意識の外に追いやられていた頭痛が再び江上を苛み始めた。言われるまま、ボトルの水を口に含む。

 何とも言えないような顔で、江上が水を飲む様子を見守っていた

「ユキは酒飲むの初めてだったわけ?」

 小さく頷いて見せると、やれやれとでも言いたそうな顔で、大きく紙島が息を吐いた。

「まさか自分があれだけ弱いなんて思わなかったかもしれないけどさ、危ないぞー。今回はたまたま俺がみっけたから良かったようなものの。下手したら身ぐるみ剥がされて有り金奪われてたりして」

「そんな、どこぞのスラムみたいなこと」

 流石にないだろう。ここ日本だし。たぶん。

 大げさな物言いはきっと、自分に用心させるためなのだろう。

 そう踏んで切り返したものの、思いの外真剣な眼差しがこちらに向けられていた。

「ユキは危機意識足りてない。なぁんか危なっかしいもんな、お前」

「……そりゃ女の子だったら気を付けた方がいいでしょうけど」

 どこからどう見ても江上は男だ。身長だって同世代の平均くらいはある。ただ体質的に筋肉がつきにくいのか、ひょろひょろしていることは認めるが。

「男が好きな男だっているでしょ」

 あっけらかんと言い放たれた言葉に、リアクションが遅れる。

 江上の表情から、一切を読み取ったらしい紙島が苦々しい顔になった。

「なんだよその顔。言っとくけど俺は違うから。ただ世の中には色んな変態が居るから気を付けろってこと」

 慌てて頷くと、また頭がずきずきと痛んだ。思わず体を丸めて両腕で頭を抱えると、頭上から「あーもう」と呆れたような声が降ってくる。

「まあでも、今回でアルコールがダメだって分かっただろうし、ユキはあんまり飲まない方がいいよ。どうしても飲みたいんだったらほろ酔いとかにしときな。昨日飲んでたやつより度数低いから。あとは家で飲むこと」

「はあ……」

 なんだろう、この面倒見の良さは。

 学校の先生ほど堅苦しくもないから(なにより、こんな金髪の先生は居ないだろう)、気の良い近所の兄ちゃんと言ったところか。

 あるいは少し年の離れた従兄弟とか? 親戚付き合いがほとんどと言っていいほどなかったから、最後はあくまで江上の想像にすぎないが、

 いずれにせよ、ハロルドセンのイメージとは随分ちがう。

「……おいこら、人の話を聞け」

「ふがっ」

 唐突に鼻がしらを捻られて、強引に意識を目の前の紙島に向けさせられる。

「こんなナリしたおにーさんが説教垂れるのもどうかと思うけど、ほんとユキは注意力散漫つーか、人の話を聞かないっつーか」

 言葉のわりに怒ってはないようだったが、呆れているのは確かだった。

「すすすすいません! まだあの、頭が追いついていないというか……」

 はじめて二日酔いになって、気分は最悪で。

 それでも目の前には、憧れ続けたその人が居る。

 とっちらかった現実を江上はまだ飲み下しきれずにいた。

 江上の声音と表情に嘘はないと納得してくれたのか、紙島がようやく捻り上げていた鼻を解放する。

「わかったわかった。んじゃもっかい言うな。携帯出して」

「携帯?」

「連絡先教えてって言ってんの」

 自分の携帯を手元に引き寄せながら、何でもないように紙島が言う。

 釣られて江上もポケットから携帯を引っ張り出す。昨日どこかで落としてはないかと心配だったが、携帯は無事だった。大学に入学すると同時に買い換えた、まだ新しい携帯だ。なくしていなかったことに安堵する。

 赤外線通信の機能を呼び出そうとしたところで、ようやく江上は我に返った。

「な、なんで、連絡先、なんか」

 一瞬にして江上の頭の中をいやな想像が駆け巡る。

 紙島は江上の財布から学生証を抜いたといったけれど、他にも何か大事なものを奪われていたのではないか。それをネタに脅される? あるいは喝上げ? 骨の髄まで啜られるというやつでは。

「……なんかめちゃくちゃ酷い想像されてるのは分かったわ。ユキの頭の中の俺はどんな極悪人なんだよ」

 脳天に軽く手刀が落とされる。

「そ、そんなことは考えてないです。ほ、本当に」

「青い顔でんなこと言われたって、ひとっつも納得出来ないからな。ユキ、お前顔に出やすいって良く言われない?」

 第一印象と結構違ってびっくりだよ、おにーさんは。ぼやくように言う声が、どこか遠く聞こえる。

 ぐうの音もでなかった。

 思えば学生寮のルームメイトにも、顔を合わせてものの数分後には似たようなことを言われた記憶がある。

「暇になったのよ、俺」

 黙りこくる江上の手から、するりと携帯が取り上げられる。それをいちいち咎める気はなれなかった。

 軽い調子で今し方言われたことの方がよほど、今は気がかりだったのだ。

 言われたばかりの一言を、江上は反芻する。

 暇になった。紙島はそう言った。なぜ暇になったかは言っていない。けれど、言われるまでもないことだ。——ハロルドセンが、解散したから。

 そうこうしている間にも紙島は手早くアドレスの交換を済ませていた。再び携帯が江上の手に戻る。

「さっき自分で『なんてお礼をすればいいか』って言ったよね、ユキ」

 軽薄な、けれど有無を言わせない口調で紙島が告げる。

 たしかに言った。恐る恐る頷くと、榛色の目を細めて紙島が笑う。

 なぜか、ネコ科の肉食動物が獲物を前に舌なめずりしているさまが、何故か江上の脳裏に浮かんだ。

「ご飯、付き合ってよ。もちろん奢れなんて言わないからさ」



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