2.

 ライブ後、紙島がその小さな公園に辿り着いたのは偶然だった。行きたいと思って足を向けた場所でもなければ、そもそも、元々知っていた場所ですらない。

 打ち上げをしないことは元々決まっていた。

 ライブが終わったらすっぱり解散しよう。そう希望したのは紙島で、事前にベースの湯浅もドラムスの稲浦も——渋々ではあったかもしれないが納得していた。

 しかし今日、実際にライブを終えてみると、湯浅も稲浦も何か言いたそうな顔をしていたのは火を見るより明らかだった。

 無言の制止を振り切ってその場から逃げ出したのは紙島だ。二人が何を言いたかったかなんて検討がつく。

 けれど今は、何も話したくはなかった。ただ一人になりたかった。

 そのくせ帰路につく気にもなれず、あてどもなく街を彷徨っている。

 ライブ中に雨が降っていたのか、湿った土の匂いがそこかしこに漂っていた。空気はひたりと冷たい。昼間は暑かったが、パーカーを持ってきて正解だったと思う。それにしてもなんだろう、この肌寒さは。ついこの間までは、あんなに暑かったというのに。

 どうしたいのだろう。自分は。一体何を求めているのか。何を、望んでいるのか。

 そんなときだった。ブランコと滑り台とベンチだけが押し込められた小さな公園に、紙島が行き着いたのは。

 より正確につげるならば——そのブランコに腰掛けた、ひとりの男を見つけたのは。

 街灯に照らされた、丸まった男の背中は、ハロルドセンのロゴを背負っていた。


「ハロルドセンのライブ、行ったんだ?」

 ブランコに腰掛けた男にそう声をかけたのは、単なる好奇心だったのか、あるいは他の何かだったのか。紙島は自分でもよく分からなかった。

 ハロルドセンのロゴが入ったTシャツ。きっと、この男も今し方自分がいたステージから見えたオーディエンスのうちの一人だろう。

 自分のつま先を見つめるように俯いた背中は細い。身長はそれなりにありそうだが、まだ高校生ぐらいなのかしれない。ギターケースを背負ったまま隣のブランコに腰掛けて、男の様子を観察しながら紙島は思う。

 そんな風に声をかけて、いったいどうするつもりなのか。

 ——やめないでくれ、とでも言われたかったか。引き留められでもしかったのか。

 あるいは今日のライブについて詰られたかったのか。この男にだって思うところはあるだろう。きっと。

「……行った。ずっと楽しみにしてたんだ、ハロルドセンのライブ見るの」

 俯いたまま、芯のない声で男が言う。この様子では、声をかけてきたのが今し方までステージでマイクの前に立っていた紙島本人だとは気付いていないようだった。

 そもそも、いきなり話しかけられても不審がるどころか素直に返事をするってどうなんだ。少しはおかしいと思わないのか。

 自分で声をかけておきながら、そんな身勝手なことを考える紙島をよそに、男は相変わらずぽつぽつと話を続ける。

「今までずっと地方に住んでたから、行きたくても行けなくて。だから今日は絶対来たくて」

 だから、行けて良かった。相変わらず独り言のような調子で男が続ける。静かな声は朝露が落ちる様を連想させた。

 不意に、男が地面に投げ出していた足で地を蹴る。黒のコンバースに包まれたつま先が宙に浮くのを、紙島は見るともなしに眺めていた。

 まだ真新しいそれが、暗がりの中なのに妙にまぶしく見える。

「それじゃ、がっかりしたんじゃない? ……あんなライブ見せられてさ」

 これならどうだ。

 茫洋として、捉えどころのないこの男だって、ここまで言えばもっと何かしらリアクションをしてくるだろう。

 ついでに今まで言葉を交わした男の正体にも気付けば良い。そのときどんな顔を見せてくれるかも見物だ。

 しかし、男の反応は紙島の予想のすべてを裏切った。

「そんなこと、ない」

 静かに、けれどきっぱりと、男は紙島の言葉を否定した。ムキになるでもなく、それでも確固たる意志を持って。

 その声には先ほどまでの芯のなさがどこにも見当たらない。

 何も言えずにいる紙島の前で、相変わらず俯いたままの男が続ける。

「実際にステージにメンバーが出てきたときは、本当に、ハロルドセンはいるんだって、それだけでもう嬉しくなった」

「…………」

 まるでアイドルのコンサートにでも行ってきたかのような口ぶりだ。そろそろ紙島の方が限界だった。

 居たたまれなさが皮膚の上を這い回っている。ここらで種明かしをしてしまおう。そう思って口を開きかけたときだった。

 男が、おもむろに顔を上げる。

 長めの前髪の下からのぞく伏せられた目はガラス玉のように澄み切って、どこか不気味にすら感じた。

「それに、紙島かみしまめぐむは」

 いきなり呼ばれた自分のフルネームに、思わず肩が跳ねる。心臓に悪いにもほどがあった。

「その紙島ってやつは、今おまえの横にいるよ」——そう冗談めかして言ってやればいいのに、紙島は男の言葉を遮れず、ただ固まっていることしかできない。

 かみしまめぐむは。男はもう一度つぶやく。——そして。

「おれの、神さまだから」

 言い終えた男の体が、だらりと弛緩する。

 考えるより先に体が動いていた。ブランコから滑り落ちようとしている男の片腕を掴み、自分の方に引き寄せる。意識を失った体は、紙島の腕に引かれるまま倒れ込んできた。自分の上体に男の体を凭せ掛けて一息つく。危うく頭をたたきつけるところだった。目の前でそんなことをされると流石に目覚めが悪い。

 紙島の胸に頭を預けた男からは、微かにアルコールの匂いがした。ついで、足下に転がるスミノフの空き瓶に気付く。

 まさかこれで、寝落ちするまで酔っ払ったのか。さすがに弱すぎじゃないのか。そんなことも分からず酒を煽ったのか。

 ——あるいは、そうせざるを得なかったのか?

 いや、そんなことはさておき。

「どうすりゃいいの、これ」

 人の胸で気持ちよさそうに寝入っている男の体は、ブランコに座らせていても予想外に重たい。

 動くに動けず、途方に暮れてぼやく。

 返事は当然、なかった。





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