さよならユーリカ

市井一佳

本編

1.

「さよならユーリカ」は、結果的にハロルドセンの発表した最後のEPとなった。

 リードトラックである「さよならユーリカ」は、ハロルドセンの名刺とも呼べる曲でありながら、一般に流通してこなかった音源を再録したものである。元々この曲は、彼らがライブを精力的に行うようになる以前にネット上で公開されていたが、その音源は音質やミキシングに難のあるものだった(当時は機材含め環境がととのっていなかったのだ)。それでもじわじわと人気に火がつき、結果的にこの曲がきっかけとなってハロルドセンはインディーズデビューすることとなった。

 もちろん現在はネット上から「さよならユーリカ」は削除されているため、ファンの間では音源化が待ち望まれていた。削除された音源自体は、ネット上で公開されている期間にメンバーが自ら手焼きしたものを通販していたが、当然ながら今は行われていない。稀にそのCD-Rはネットオークションにかけられるが、高値で取引されている状態だ。

 根強い人気がありながらも、長らく音源化されてこなかった幻の楽曲である「さよならユーリカ」。それがやっと音源化されたわけだが、リリース直後から、ファンの間ではまことしやかにハロルドセンが解散するのではないかと噂されるようになっていた。アニバーサリーイヤーでもないこのタイミングで、あの曲が音源化されるのは不自然すぎる、と。

 だから、「さよならユーリカ」レコ発ツアーを以って解散という、ハロルドセンの公式ウェブサイトを通じて発表されたその言葉に対するファンの反応は、大方が「やっぱりか」というものだった。

 あるいは――これも一つ目のパターンと近いものではあったが、解散するという事実を受け入れられない、というもの。

 しかしこちらも、「さよならユーリカ」を聴いて、解散するだろうという考えを持たなかったわけではない。

 文字通り、受け入れようとしなかった、あるいは受け入れられなかっただけなのだ。

 江上えがみ幸晴ゆきはるは果たしてどちらだっただろう。前者だったような気もするが、後者だったかもしれない。

 いずれにせよ、初めて足を運ぶハロルドセンのライブが解散ライブになるとは思いもよらなかったのだけれど。



 薄暗い上に、人一人通るのが精一杯なほど狭く急な階段を下りる。

 下りきった先でスタッフにチケットをわたすと、無愛想に「ドリンク代を」と言われた。慌てて五百円玉を渡すと、引き替えに小さな缶バッジを渡される。たしか、これをドリンクとの引き替えに使うはずだ。立て続けにフライヤーの束を渡されて、ポケットに収まる程度の荷物しか持たず、手ぶらで来た江上はその扱いに困って、ひとまず小脇に抱える。

 ライブハウスに入るのは生まれて初めてのことだった。

 高校生まではライブハウスなんて縁のない田舎に住んでいたから、今回が正真正銘初めてのライブ参戦だ。

 だからこそ下調べは入念にしたつもりだった。ライブハウスはなるべく身軽で行くものだということも、どこかのウェブサイトで知った。とにかく人がいっぱい詰めかけて暴れる場所なのだから、荷物は邪魔になるし、迷惑にもなる、と。けれど、これなら鞄を持たずに来たのは失敗だったかもしれない。

 江上はフロアに足を踏み入れた。

 空調は効いているものの、染み付いてしまったらしい煙草の臭いが鼻をつく。白く靄がかかっているのはスモークを焚いているせいだろう。

 ステージの周りには、既にみっしりと、江上が着ているものと全く同じハロルドセンのロゴが入ったTシャツを着たオーディエンスの姿があった。

 その中に入っていくのは気後れして、ひとまず江上は後方のドリンクカウンターに足を向ける。受付で渡された缶バッジをスタッフに渡し、やや逡巡してミネラルウォーターをオーダーした。冷えたボトルを受け取って、悩んだ末、フロアの後方の壁際で足を止める。前の方で見たい気持ちもあったが、大人しく後ろで見ておこうと思った。

 壁に背中を預けて、もらったばかりのボトルのキャップを開く。冷えたミネラルウォーターが喉を抜ける感覚が心地良い。自分では気付いていなかったものの、ずいぶん喉が渇いていた。ボトルの半分ほどを一気に飲み干して一息つく。

 緊張しているのかもしれない。ライブハウスに入るのが初めてだったというのもあるし、何よりこれから見るバンドは江上がずっと聴いてきた、思い入れの深いバンドなのだから。

 改めてステージに視線を向ける。申し訳程度のライトに照らされたステージには、まだローディの姿もない。機材だけが薄暗いステージの上で出番を待っている。

 ステージの奥まった場所には緑色のドラムセットがぼんやり見える。向かって左には、使い込まれた傷だらけの黒いフェンダー・ジャズマスター。

 ハロルドセンのボーカルギター、紙島かみしまめぐむのものだ。

 江上はバンドを組んでいるわけでも、それどころか何か楽器をやってるわけでもない。だから、機材について詳しいわけではないが、それでも数少ないハロルドセンのメディア露出の機会はかかさずチェックしてきたから、見覚えがあった。

 本当に、これからハロルドセンが見られるのだ。

 そう思うと、否応なしに気分が高揚するのを感じた。

 それと同時に未だ信じられないという気持ちにもなる。指先が冷え切っているのはきっと、手にしたミネラルウォーターのボトルのせいだけではないだろう。

 ——いよいよだ。ずっと聴いてきたバンドの、初めてのライブ。

 そしてもう二度とはないライブが始まる。

 



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