第77話 陽炎


 夢を、見ていた。


 初めてエクセルがロエルゴ・ブーンと出会ったのは、十七才の夏だった。


 エクセルの故郷である田舎町に、見慣れない中年男がやってきた。汚れたシャツと、よれた背広。無精髭を生やした、いかにも世の中にすれた風貌の男。

 しかし、その両の眼には、真っ直ぐで焦げるような熱があった。

 

 エクセルの田舎には大規模な農場を経営していた地主がいた。そういう場所では大抵農夫は皆奴隷クルニスである。

 そして、その農場での奴隷の扱いは過酷だった。この国の法では奴隷の扱いには最低限のラインが定められているが、明らかにそれを下回る扱い。法で定められていたとしても、田舎の警察は慣習としてその程度は取り締まらない。


 ある日、そこから少女の奴隷がエクセルの屋敷に逃げ出してきた。

 

 全身には傷。左目は視力がほとんど無い。腹にはその農場の主人との子が宿っていた。

 十七のエクセルとて、彼女がどういう扱いをされていたか、戻ればどうなるかくらいは理解できる。こういう女の奴隷は、十中八九悋気に猛った主人の奥方に殺されるだろう。


 当然向こうは奴隷の返還を要求してくる。エクセルの父は迷ってはいたようだが、無用なトラブルを避けるために返すべきだという考えだった。


 エクセルにはそれがどうにも納得できなかった。


 若い正義感というものだったのか、同じ女としての同情だったのか。果たしてそれは誰でも人生において体験する通過儀礼のようなものだったのかもしれない。

 世の中というどうにもならないものが、己の納得できないことを強制してくるということを、ただ受け入れるということ。

 そういうことをできるようになることが、大人になるということなのかと、少女だったエクセルは考えていた。

 怒ろうと、もがこうと、抵抗しようと、どうにもならないものはどうにもならない。現実はそういうものだと思うことが、少女の自分を大人に変える儀式となるのかと。そうエクセルは思った。


 そんな時に、エクセルはロエルゴと出会った。


 汗の染みたシャツと、着古したズボンと、まばらな不精ヒゲ。都会的、というには汗臭い男はその農場主の話を周りに聞き込んでいた。

 新聞記者だと名乗るその中年、ロエルゴ・ブーンにエクセルは自らの屋敷にその少女がいることを教えた。こっそりと父親に秘密で屋敷に入れ、その少女から直接ブーンへ何をされたのかを取材させた。


 エクセルは別に何かを、変えられるとは思ってはいなかった。

 その農場主の素行の悪さは知れ渡っている。その醜聞をネタに記事にするぞと強請ろうとする新聞記者は何人かいた。ロエルゴ・ブーンに出会うまでは、新聞記者などとかくそういうものだとエクセルも思っていたのだ。


 何かを変えられるとは思ってはいなかった。何も変えられないのだということを証明したかったに過ぎない。自身が無力だと思えれば、この先に何があろうと苦しむことなく生きることができると思っていた。


 少女の言葉を聞きながら、少女の体験した全てを聞きながら、ロエルゴは一切のメモを取らなかった。ただ固く。血が出るほどに固く拳を握りしめていた。

 よくある話、そんなものはありふれた事実。それでもなお、男は怒っていた。


 ロエルゴがアシュリー市へ帰る日、乗合馬車の発着所に数人のゴロツキがいた。いつものことだ。嗅ぎ回る新聞記者を黙らせるために、農場主がこういう手合いを集めておくことなど。

 見送りに来たエクセルに、ロエルゴは振り返りただ笑うだけだった。向き直り、恐れもなく、ただ前をゆく。馬車の御者に、数刻出立を遅らせてくれと言いながら。

 ロエルゴの拳闘は鮮やかだった。軍隊で覚えたものなのだろうか。元々の恵まれた体躯を生かし、次々とゴロツキを沈黙させていく。

 やがて、倒れた男共を踏みつけながら、唯一もらった一発により垂れた血で汚れたシャツを翻し、ロエルゴは馬車に乗り込む。特に珍しいことでもない、いつでもやっていることさとでも言うように。


 一ヶ月後、農場主の支援者だった貴族がスキャンダルで失脚。

 発端はロエルゴの新聞記事による告発。

 更に農場主の脱税と政府機関を通さない裏奴隷売買の摘発が行われ、農場主は失踪し農場は瞬く間に人手に渡った。

 少女は子供を降ろしたが、いまでもエクセルの屋敷で働いている。

 そして、諦めたかった少女は、諦められない目標を持った。


 エクセルが初めてこの街に来たとき、ロエルゴの家に招かれた。リムシーと料理を食べ、まだ会話が出来たケルビンの笑顔を見て、彼がなぜそこまで戦おうとするのか、その理由を彼女は知る。



▽ ▽ ▽


――あ、つい……


 喉の渇き、気管を熱風が通りヒューヒューと音を立てる。眼下には黒と炎。焼かれる街と逃げる人々。ガクンという衝撃と共に斜め横に強烈な重力。


「え、ああ、う、わ」


 うめきながら周囲を見渡す。熱風と悲鳴が埋め尽くす夜景。自分は誰かにおぶさっている。街の建造物を足場にして、脚力で宙を跳ぶ誰かに。


「お、気がついたかい?」


 若い男の声。硬質な背中=鎧の背面から伝わる声の振動。朦朧とする意識の中、しがみつきながらエクセルは呟く。


「み、水ぅ……」



▽ ▽ ▽


 喉を鳴らし、武骨な軍用水筒から水を飲み込む。ヌルいが、上等なワインよりも今は美味だ。

 この鎧の兵士は、ウェイルーの命令により非戦闘員のエクセルを安全な警察署に逃がすためについた兵士だそうだ。


「しかしこれじゃ警察署も危なくなってきたじゃないか。なあ、アンタさぁ……」


 建物の屋根の上で、座り込むエクセルを見下ろしながら、全身鎧姿で顔もわからない大柄の青年――声でなんとなく年齢を認識――は声をかける。


「あのミキシングっていう化け物の、あれだ、女だったのか? 家に泊めてたんだろ?」


「ごぶっ!?」


 予期せぬ質問に思わずむせる。水が鼻に入り、咳き込みながら、それでも軍用水筒を青年へ投げつけた。


「いで!?」


 ガンと音を立てて頭に当たり、水筒はそのまま下の街へ落下。


「そんなわけないでしょ!! ただの雇い主と助手です! あんなことができるなんて知らなかったんですよ!」


「あー、やっぱそうか。まああんな化け物とわかってたらそんな関係にはならないよなぁ」


 ふんふんと頷きながら青年は一人納得する。どうもあまり気遣いはできない性格らしい。腰にさした剣の柄に掘られた名前――どうやら「オースマン」という名字らしい。


「ソウジは、化け物じゃ……いえ、化け物、だけど」


 座り込んだ屋根の上で、燃える夜景を見つめる。あの向こう側で一際大きく燃え盛っているのは、ロエルゴの家があった地域。ソウジと新しく現れた組織の人間――いや、むしろ兵器ともいえるほどの存在との戦いが、この火災を引き起こしたという。


「そう、彼は、化け物だった」


 カゲイ・ソウジは怪物だった。彼女の淡い希望も、信頼も、期待も、全てを叩き潰す怪物。

 ついこの間まで、自分はあの怪物と同じ家に暮らしていた。怪物の作った食事を食べて、同じ部屋で会話し、怪物の調べた情報を見て、怪物と共に思索した。

 そして、怪物は残酷な真実を、最も残酷な形でエクセルに突きつける。

 あれほどに追い求めたものが、今はもうこんなにも忌まわしく我が身に牙を突き立てていく。


「化け物、なんだ……」


「まあ、なんだ、あんたは騙された人間なんだろ? そんなに気に病むなよ」


「私は、騙された……」


 それは違う。彼は、カゲイ・ソウジは誰も騙そうとはしていなかった。一言の嘘もつかず、ただエクセルとの約束を果たしただけだ。もし一番最初に、「おまえが犯人なのか?」とエクセルが問えば、全ては終わっていたのだろう。

 何も、誰も騙してはいない。誰かが誰かを騙そうする、騙し合いの連鎖の中で、カゲイ・ソウジだけは嘘をつかなかった。悪意の嘘も、優しい善意の嘘も無い。ただ、真実のみをエクセルに差し出している。彼の理知性も、思考も、残酷さも、残虐さも、虚無も、全ては彼のむき出しの真実だから。


「ずいぶんな顔してんなぁ。まあしょうがねぇか。よし、じゃあこれは俺の爺さんから受け継いでる必殺のジョークなんだが、話してやるよ。同じ部隊のやつらにもこれかバカウケなんだぜ」


 言葉も無く沈黙の思考に沈むエクセルに、オースマンは言葉を続けた。


「あるところに王様がいた。王様の前に戦争で捕まった三人の兵士が捕虜として引きつられてきた」


 エクセルの視界の端、夜空の向こうに青白い光が走る。光が急降下。


「王様はそのとき酷く残酷な気分だった。だから三人の兵士に言ったのさ『ジャンケンで私に勝ったら生きて国に帰してやろう。ただし負けたら首をはねる』」


 同時に、小爆発。炎と破片が舞い上がる。なにかの影が空を切り、光がそれを追いかける。


「実は王様は生まれてから一度もジャンケンに負けたことがなかった。瞬く間に二人の首が飛ぶ。

最後の一人とやろうとすると、王様はある事実に気づいた。

なんとその兵士は戦争で両腕を無くしていたのさ。

これには少し王様も戸惑う。しかしその兵士はかまわずにジャンケンを挑み、ニヤリと笑ってこういったのさ」


 光が再び舞い上がる。放たれる光弾。その先で、影が高速で方向を転換。


「『王様、私は』」


 光弾がオースマンの上半身に着弾。一瞬で鎧ごと体が吹き飛び、炎を上げて炭と破片が舞う。上半身を失った下半身のみが屋根に倒れた。


「ひ、ひいいいいい!」


 目の前で、言葉を話していた人間が一瞬で死ぬ。極限の恐怖と不条理に、エクセルは無力な悲鳴を上げるしかない。


「な、なに!? なんなの!」


 頭上を飛ぶ影。白の光は、よく凝視すれば人だとわかる。片手片足の白スーツに白い帽子の紳士。随分とふざけたものが炎を吹き上げて空を飛んでいる。

 そしてもう片方。追い立てられている影。


「ソウジ!?」


 一瞬でよく確認できなかったが、紛れもなくあれはカゲイ・ソウジ。白の紳士から放たれる炎の光弾を避けながら、街の上空を低空飛行で舞う。


「ソウジが……追いつめられてる……?」


 あの白い紳士が、組織の新手ということか。このアシュリー市の空に、怪物同士の死闘が行われている。


「え、ひ!?」


 傍らで蠢く何かに、またも悲鳴を上げる。オースマンの下半身が、勢いよく跳ね上がり立ち上がった。淡い魔術燐光。空間に煌めく線。


「え、え、えぇ!?」


 そのまま、鎧の下半身が屋根を飛び降りる。衝撃をものともせずに着地。一直線に――カゲイ・ソウジと紳士が飛んでいった方向へ走り出した。


「な、なんなのこれ……?」



▽ ▽ ▽


 身を捻ると同時にプラズマの火球が通り過ぎる。崩壊した空輪翼術式イー・グルスの力場の翼を再構成。九十度方向回転からの圧縮空気噴出で一回転し、追撃のプラズマを回避。そのまま下方向へ加速しながら街中への低空飛行へ。


 次々と目まぐるしく変わる重力の方向。常人ならばとうに気絶する超回避軌道。一手間違えば即死。一切のミス無くそれをこなしながら、ソウジは尚も飛び続ける。乾坤一擲の反撃、それが整うまでは止めるわけには行かない。


 燃える街の間を超低空で縫うように飛行しながら、背後へと迫るイレイザーの気配を伺う。街にはもう人影はない。この戦闘と火災ではいるのは騎士などの戦闘員くらいか。


――いや、


 眼前に飛び出した人影。五才ほどの少年と、その母親らしき女。恐らく逃げ遅れた住人。ソウジの背後にはイレイザーの火球。

 弱い者を守らねばならない。勇者の契約が、虚無の魂へ囁いた。


――まずい!


 このまま回避軌道を行えばプラズマの直撃で親子は死ぬ。即座に磁界を発生させる魔術を展開。同時に空輪翼磁界イー・グルスを停止して鋼糸を周囲に射出。建物に固定。急制動をかける。


「ぐ、う、ああ!」


 限界を超える衝撃。糸を巻きつけていた胴体が軋み骨が折れる感覚。盛大に吐血。同時にプラズマがソウジの作った磁力の壁に着弾。炎を街路と上空に吹き上げる。磁界の威力を上げるも、さらに追撃のプラズマが着弾。

 吹き荒れる高熱の業火に、翳した右腕がまたも炭へと焦げる。しかし熱量は勇者より後ろには行かない。

 守った。ダメージと引き換えに、勇者は親子を守りきった。


「あ、あぁ、あの」


 勇者は背後を振り返らず、戸惑う母子へと告げる。


「ここは危険です、早く逃げて」


「あ、ありがとうごさいます!!」


 子供を抱え、路地裏へ走り出す母親。その姿が見えなくなる間際で、


「君は思ったより柄に無いことをするタイプだね? 身を挺して守るとはなかなかやるじゃないか」


 渦巻く火炎が、親子を包む。声も無く、全身から炎を上げて倒れる。


「まあ、無意味だけどね」


 上空には光輪を従えた白い紳士。余裕と残酷の笑みを浮かべながら、ミキシングを見下ろす。

 カゲイ・ソウジは無言のまま、燃えゆく親子へ炭となった手を伸ばしたまま、なにも答えない。


「どうしたね? 君でもこういうことは傷つくものか」


 カゲイ・ソウジの指から光が伸びる。


「――いいえ、僕は特になんとも思いませんよ」


 言葉と同時に炎から何かが二つ跳ね上がる。ビルの壁を蹴りながら、炎の塊二つがイレイザー目掛け迫る。


「な、に!?」


 それは焼死体。ついさっき死んだ母親と子供の燃え上がる死体。死骸繰術術式によりミキシングが操作している。


「小細工を!」


 光輪のプラズマがイレイザーの周囲を旋回。一瞬で死体二つが消し飛ぶ。

 カゲイ・ソウジを視線で追うと、すでに空輪翼術式イー・グルスを再展開して上空へ逃げ去っていた。


――なんだ、やつは?


 イレイザーにはカゲイ・ソウジを理解できない。やつは間違いなくあの親子を全力で救おうとしていた。ここまでダメージを負ってあの親子を救う客観的な理由はないはずなのに。

 しかしそこまでして救った親子でも、それが死ねば即座にその死体を道具として使用している。

 目的として割り切る、というレベルではない。そもそもそんな思考をするならまず最初に親子を見捨てている。死んでしまってはただの物だと一瞬で思考を切り替えて、実際に物として使いつぶしてしまう。

 一見すると無駄と合理性が合わさった不可解とも言える行動。しかしそれは人間的などいうものでは片付けられない、理解できない非人間的な矛盾。


――なるほど、たしかにこれは怪物だ。


 これは怪物と怪物の戦いではない。怪物と、怪物を狩る人間の戦いなのだ。あれを異常と思えるなら、私はまだ十分に人間だ。そうイレイザーは思う。

 

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