《第87話》ディナーとワインと…… 前編

 明日が定休日とあって、莉子は少し早めにカフェを切り上げると、そのまま連藤のマンションへと向かった。

 なぜなら、あまり出回っていないイタリアワインを入手したからだ。

 ブドウの品種はフィアーノ・ミヌートロというもので、白ワインになるのだが、とにかくふくよかな香りが特徴的とのこと。

 飲んだことのないワインのため、いち早く飲んでみたい! 莉子の前向きな気持ちがカフェの閉店時間を早めたのは言うまでもない。


 9時ちょうどにカフェを出る。

 通りは電飾で彩られ、裸の銀杏が星をまとったかのようだ。

 ここの通りは冬のデートスポットでも知られている。

 おかげでこの時期は新規のお客様の来店が多い。

 淡々と足を進めていくが、ちらほらとカップルが携帯を片手に歩いているのが目の端にかかる。

 はぁと小さく息を吐いた。

 小さな雲が浮かんでほどけていく。

 少し羨ましくなったからだ。

 連藤は目が見えない。

 この電飾を見て感嘆の声を上げることはないのだ。

 腕を組んで歩いても、彼らのように視界の中で共感はできないのである。


 でも私たちにはワインがあるのだ!


 莉子は新聞で包んだワインを眺め、にんまりと顔を歪めると、足早に歩き出した。




 本日の連藤の仕事上がりは8時と遅めであった。

 やはり師走の月は何事もまとめて作業することが多くなる。年末年始を何もしなくても乗り越えられるように仕事をこなさなくてはならない。各決済や進捗状況を確認し、次への指示や他部署への連携など頭を回さなければならないことは山ほどある。

 そんな折、莉子からのメールで、


『珍しいイタリアワインを入手しました。飲んでみませんか?』


 こんな嬉しい誘いがあるだろうか。

 いつになく頭をフル回転させ、仕事を終わらせたのは言うまでもない。


 思えばこれほど何かを楽しみにしたりすることはここ数年なかったように思う。

 年末年始の休みも特段することもなく、いつもなぜか三井と海外で年越しをしていたように思う。

 去年もそうだった。

 あれは三井なりのフォローだったのだろうか。

 彼女持ちとなった今、今年の年末はどこに行くぞという声はない。

 ゆっくり彼女と年を越えられそうだ。


 連藤はまだ少し早い年末の予定をイメージしながら、白ワインに合いそうなメニューをテーブルに並べ終えたとき、ちょうどチャイムが鳴った。

 がちゃりと鍵が外れる音がする。

 莉子が自分で鍵を開けたのだ。

 自分が開けなくても入ってこられる人がいるというのは、妙な感覚が走る。

 それだけ信頼できる人ができた、ということなのだから、嬉しいことだ。


「莉子さん、おかえり」


 リビングに入ってきた音をたどり連藤が声をかけると、少し息を切らした莉子の声が届いた。


「ただいまぁ……今日もめっちゃ寒いね!

 ワイン冷やして新聞紙で包んできたから、それほど温度上がってないと思うんだ」


 そう言いながら用意されたワインクーラーにワインを突き刺すと、ニット帽や手袋を外しながら、莉子がテーブルの周りをくるりと回った。


「連藤さん、すっごーい!

 全部美味しそう!!!」


 そこに並べられていたのは生ハムのピンチョス、オリーブのニンニク炒め、長芋のバター焼き、アンチョビとキャベツのペンネ、チーズの盛り合わせである。


「お仕事上がりなのにここまで作っていただいて申し訳ないです……」


 はしゃいだのも束の間、すぐにしょぼくれた莉子だが、連藤は涼しい顔だ。


「家にあったものを出しただけだ。大したことはない。

 莉子さんだって毎日のように閉店後食事を出してくれてるじゃないか」


「あれはあの場所だから」


 小さくこぼす莉子の頭を連藤がそっと撫で、頬を指でなぞっていく。


「さ、冷めないうちに食べよう」

 連藤の声に、大きく莉子は頷いた。


 莉子はさっそくと料理を取り分け、ワインのコルクを引き抜く。

 グラスに注がれた色は薄緑がかり、蜂蜜のような香りが漂ってくる。


「じゃ、いただきまーす!」


 莉子の声に合わせ、グラスが小さくカチリと鳴らされると、すぐさま2人で香りを嗅ぎ始める。


「花の香りみたい!」


「とても華やかでいいな」


 待ちきれないという雰囲気で2人同時に口をつけて、飲み込んだ。


 鼻から抜ける香りは春といってもいい。白い花の匂いがたちこめ、ほんのりとマスカットの香り、柑橘系の香りもする。味はすっきりとしていて、蜂蜜のニュアンスもある。


「……これ、ヴィオニエに似てますね」


「言われるとそうだな。ヴィオニエのような濃厚さはないが、華やかさは劣らないな。

 これは本当に珍しいかもしれない」


 2人でにっこり微笑み、連藤が白ワインに合わせて作ってくれた料理と合わせていく。


 しかし、さすが連藤である。

 なんとなくのニュアンスを伝えただけで、これほどワインと合う料理を作れるとは───


 莉子は感動しながらも、嫉妬をしてしまう。

 だがこれは彼の努力の賜物なのだから、自分も努力していくしかない。

 そう切り替えると、あとは情報収集をするだけだ。


「ねね、連藤さん、このオリーブはどこのオリーブ?」

 料理について聞き出し、知識をいただくのは大切なことだ。




 料理の話から始まり、今日のランチの入りの状況から、最近見かける猫の話まで、ワインは饒舌に明るい時間を与えてくれる。

 だが気づけばもう11時をはるかに超えているではないか!

 この部屋には時計がない上に、腕時計も外していたのと、携帯を眺めなかったのも災いして、予定よりも遅い時刻となっていた。


 莉子は慌てて立ち上がり、食器を整理し始める。


「連藤さん、ごめん!

 もう11時過ぎてたんだね! 片付けたらすぐ帰るからっ」


 皿を重ねた莉子の手に、連藤の手が乗せられた。


「莉子さん、悪いが今日は泊まっていってくれないか?」


「……へ?」


「俺は莉子さんを送ってやることができない。

 こんな時間に1人で歩いて帰らせるわけにもいかない。

 申し訳ないが、泊まっていってほしい」


 連藤の心配した眉と声音が痛いほど伝わって来る。


 が、泊まれと言われても……


「着替えなどは一式あるから問題ないだろ……?」


 薄く微笑んだ連藤の顔が一瞬悪魔の微笑みに見えた莉子だった。

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