《第68話》原点回帰

「このコーヒー、飲み比べてみてくれない?」


 そういってコーヒーカップが二つ、並べて出された。

 別にいいけど。そういいつつ口につけたのは巧である。その隣には連藤もおり、連藤も軽く頷くとカップに指をかけた。


「左のほうが後味がなめらかなイメージがある」


 連藤が口を開くと、


「俺は右のほうが好き」巧が続いた。


「右はいつものコーヒーだろ」


「そうだけど、このガツンとした味が好き」


「俺は左のほうだな。なめらかさと余韻がいい」


 莉子は二人の感想を聞きながら、腕を組んで悩んでいる。


「なんか、豆でも変えるの?」


 巧は自分が気に入っているほうのコーヒーをさらに啜るが、莉子は渋い顔のままだ。


「いや、実はね、それ、同じ豆なんだけど、淹れ方を変えたんですよ」


 連藤は妙に納得した表情を浮かべるが、巧は驚いた表情で黒い液体を見比べている。


「いつもステンレスフィルターで淹れてるんですけど、もう一つはネルフィルターで淹れてたんです」


「この左のがネルフィルターってやつ?」


「そ。色も右に比べると濁りがなくて澄んでるでしょ?

 布に通しているからなんだけど」


「急にどうしたんだ?」


「今一度原点回帰をしてみようかと思って。

 でもネルはやっぱり調整とか管理に一手間かかるから踏ん切りがつかなくて」


 莉子はネルのハンドルを握り触りながら、


「実はうちの母がネルで淹れてたんだ」


 伏せ目がちに言う莉子の目には母の姿が見えているのだろう。

 懐かしくも寂しそうな、そんな眼差しである。


「でもさ、真似しても意味なくね?」


 さすが若社長!

 手を叩きたくなるほどの潔い回答だ。


 そうなのである。

 莉子のカフェだからこそ、莉子ができることをすればいいのだ。

 だが、味がこうも違うと幅を広げるのも間違いではないように感じるのである。


「こう、連藤さんとか、私ぐらいの年齢になると、ガツン! より、ほのかな味わいもいいのよ。

 でもネルだと連続して淹れるのが大変なところもあるし、

 というわけで悩んでるのよね」


 莉子も自身で淹れたコーヒーを啜りながら一息ついた。

 本日は花の金曜日、なのだが、どうにも客入りが悪い日だ。

 OLさんが2組とサラリーマンが2組。

 プレミアムフライデーなど実施できる会社は数少ない。

 現に二人の会社は月に一度だけその日を設けているが、残業した分早く退社ができるシステムなどあるため、大きな変化にはならないようだ。

 今日は二人で夕方頃に接待があり、酔い覚ましにカフェに寄ったのである。

 ぽつりぽつりとお客が消えるなか、カウンターでコーヒーを啜る3人だが、特に話すこともないのか、今日は黙ったままだ。

 莉子は、ネル用のコーヒーを作って単体売りをしたらどうか……と考え、

 連藤は、明日の土曜日は何の料理を仕込もう……と考え、

 巧は、瑞樹と出掛けたいかも……と、LINEを打ち込んでいた。

 三者三様に予定も考えもある。

 原点に帰るのはもう少し先になるかもしれない。


 そんな3人だが、


「莉子さん、明日なんだが、」


「明日? 明日はコーヒーの焙煎確認があるんだ。

 連藤さんも来る?」


「焙煎……それも捨てがたいな」


「莉子さん、明日の夜さ、4人で来ていい?」


「仕入れ済んでるから、あるものでならいいよ」


「わかった。時間は7時ぐらい。チーズ食べたい」


「ん。じゃ、適当にね」


「ランチをいっしょに食べる時間は?」


「連藤さんのオススメランチがあるなら時間作ります」


「したら焙煎確認後に」


「りょーかい」


 3人ともに携帯に視線を落としながらの会話である。連藤に至ってはイヤホンをさして携帯での検索である。


 やはり、原点回帰は必要な気がする……

 だがそれに至ることがないまま、時間だけは過ぎていく。


 本当に慣れは恐ろしい。

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