《第39話》灰色の空模様

 白いクロスに染み込んだ赤いワインは、すべてを染め上げるよりは薄く、ただ夕日が影を落とすように色を象っている。シミになることはわかりきったことで、ここで炭酸水をかけて落とそうとしても、無駄であることは今までの経験で明白だ。

 小さくため息を落としても、何も解決しないのだが、ため息は唇の間を割って、抜け出てきてしまう。

 今日はダメな日なのだ。

 何をしても、ムダな日なのだ。

 そう、告げられた今、彼女はただテーブルに布巾を落とし、テーブルをひとつ殴った。


 原因はわかっている。


 先日連藤と三井が連れてきた、後輩の女の子だ。

 その女の子と連藤は出張なのである。

 昨日から始まり、帰ってくるのは明日だというが、自分ですら遠くに一緒に行ったことがないのに!

 だなんて、思ってしまう。

 仕事なのだから仕方がないだろう、そう思おうとしても、あの可愛らしい後輩の笑顔がまぶたの裏で煌めいてくる。

「情けない」つい声が漏れるが、もうこぼさずにはいられない。

 なんでこんな気持ちになるのだろう。

 記念でもらったネックレスをなぞりながら、莉子は息と一緒に吐き出してみるが、何も解決しない上に、鬱憤が溜まるだけで意味がない。

 きっとこの天気もあるのだ。

 湿った空気と重い雲が空にのしかかり、ただ自分にとって最悪な妄想を引き出そうとしてくる。

 楽しい思い出を引き出しから取り出しても、この空気の中じゃ灰色に汚れて、ただの褪せた古い写真にしか見えない。そんな荒んだ心は彼のいつも通りの定期メールすら、苛立ちの対象にしようとする。

 さらに間が悪いことに今日は定休日。

 時間を潰すものもなければ、紛らわす仕事もない。

 おかげで白いクロスに赤いシミを作り上げ、テーブルを殴らなくてはならなくなった。

 莉子はグラスに残ったワインを飲み干すと、さらに継ぎ足し、飲み込んだ。

 このワインは安価の割に重厚感があり、まだまだ熟成に耐えるだけの力があるようで、昨日の時点ではかなり渋くて飲めなかったのに、今日の今になって深いベリーの香りとまろやかな渋み、甘味までも感じられるほどに変化した。

 そんな濃厚な味わいに舌鼓を打ちながら、このまま酔いつぶれて寝てしまった方がいいんじゃないかと思い始め、それではとグラスに並々ワインを注いでみるが、あまりに風情がないので少し飲んで量を減らす。

 ワインだけではつまらないと、簡単なおつまみ、クリームチーズのしょうゆ漬けを作ってみる。

 これは本当に簡単だ。固いクリームチーズをさいの目に切って、醤油に漬けるだけ。本当に醤油だけである。小さめに切ったので味の染みが早く、10分ほど醤油に漬けてすぐに引き上げた。

 味見と称してつまむと、醤油の塩っけがクリームチーズに馴染み、赤ワインととてもよく合う。

 かなり作ってしまったが、このおつまみは残っても3日ぐらいは保つので、一人暮らしの自分には重宝するおつまみだ。安心して残しておける。

 つまみ、飲んで、つまみ、飲む。

 グラスの中身とボトルの中身が平行になくなっていく気がする。

 気分を変えようと、明るいジャズを選んでかけてみた。

 高めのチーズなんて切り出してみる。


 が、気分は全然晴れてくれない。


 頬は熱いだろうか。

 ボトルは1本は開けているのに、それでも眠くならないのは何故だろう。

 久しぶりに携帯から音が聞こえてきた。

 三井からの電話である。

「なに?」めんどくさそうに携帯へ声が放たれた。

 その声に三井は鼻で笑い、

「お前、ヤケ酒してんだろ」

「してないし」

「呂律怪しいぞ」

「あっそ。

 で、なに?」

「あの後輩の女だが、気をつけろよ」

 そんなのわかってる! 声が喉の奥で引っかかった。

 なんとか食い止めると、

「……どういう意味?」つっけんどんに返事をするが、

「どういうも、気をつけろってこと。

 お前のことだから、気づかないんじゃないかと思ってな」

「ご心配なく。

 そーいうのは敏感だから」

「そうかよ?

 あぁ、もしヤケ酒続けるなら連絡しろよ。

 俺も6番に振られたばっかで消沈気味なんだ」

「彼女を番号読みの時点で、地獄に落ちたらいいよ」

「はいはい。

 じゃあ、そういうことだからな」

「わざわざ、ありがと」

 携帯の音が止み、黒い画面が携帯を覆った。瞬間、自分のぼやけた顔が写り込んで息を飲んだ。


 自分のあまりのクリーチャー具合に寒気がする……!


「はぁ」再びため息がわいてきた。

 沸騰した鍋底から大きな空気の玉がぽこりと上がってくるように、ため息がぽつりともれて、忘れた頃にまたぽつりと上がる。考えていないふりをしても、見えないふりをしていても、それを肌で感じ続けているのが今の状況なのだと思う。

 ただただ無事で帰ってきてほしいと思うが、いろんな意味で、無事に帰ってきてほしいと願わずにはいられない。


 短い音が携帯から鳴った。

 メールが届いた音である。


 いつもの調子でタップし見てみると、連藤からだ。

 定期連絡にしては少し早い時間な気がする。

 そう思いながら開封すると、今日で出張が終了とある。早く切り上げられたことに嬉しそうな雰囲気が文体から読み取れ、さらに進むと、お土産は何がいいですか? ときたもんだ。

「おいしいもの、っと」声を出しながら打ち込むと、なんとなく気持ちが楽になった。

 今日で出張が終わりなのである。

 自分の頭上にあった梅雨前線がいきなりスッキリ無くなった気分である。

 窓を見やるが、晴れてはいない。

 雨も降ってはいないかもしれないが、気分が晴れるとはこのことだ。

 あと3時間程度でここまで戻るという。


 人気のプリンを買ってきたから、一緒に食べよう


 さらにメールが届き、再び莉子の頬が緩んでしまう。

 思わず湧き上がる笑いに自分でも気持ちが悪くなるが、いいじゃないか。

 大好きな人が帰ってくるのだ。


 帰ってくるんだ__


 心の中で繰り返した。

 帰ってくるって響きが、すごく懐かしい。

 自分の家に誰かが来ることがあっても、帰ってくる、なんてことはしばらくなかった。

 巧や瑞樹はカフェに来ると、ただいまなんて言ってくれる。

 その言葉も心が温かくなるのだが、誰かが自分の家に帰ってくると思うと、それもまた温かい気持ちになる。

 独走していた自分の時間に人が関わることなど想像してこなかったが、こうしてたくさんの人が関わると、好きな人が関わってくれると、時間の過ごし方に色が宿るものだ。


「なんか、幸せ」

 酔っ払いの気の迷いかもしれないが、それでも幸せなら上出来だろう。

 少し酔いを冷ましておかないと。そんなことを思いながら、コーヒーを淹れてみる。

 待つ3時間は本当に楽しみな時間であるが、少しつまらない時間でもある。

 コーヒーは4杯目だ。

 今日の夜は眠れないかもしれない。

 ぬるくなったカップを持ち上げた時、チャイムが鳴った。

 画面を見ると、いつもの表情ではない連藤が立ち尽くしている。

 微妙な顔つきだ。

 意味がわからず、そろりと階段を降り、扉を開けてみる。


「あ、莉子さぁーん!」


 後輩の女の子だ。


「……なに?」思わず低い声が出てしまうが、体を少し乗り出したところで腕を掴まれ、引っ張り出されてしまった。サンダル姿の莉子の格好は、Tシャツにジーンズにつっかけという、普段着である。しかも酒臭い。

 連藤は莉子の格好を見なくてもわかるため、「木下、いい加減にしろ」苛立った声がかけられるが、後輩は一向に態度が変わらない。

「莉子さんの私服、すごくナチュラルで好みです。

 そうそう、あたし、莉子さんにケーキ買ってきたんですよ!

 一緒に食べません?」

「いや、食べないけど」

「そんなこと言わないでくださいよ。

 あたし、莉子さんのこと好きなのに。

 ちょっとボーイッシュで、色白で綺麗だし」


 ___ん?


「莉子さんて、あたしのタイプなんですよね!」


 ___ん……?


 連藤が頭を抱えているが、連藤が一歩近寄ると、一歩下がる。

 彼女の半径1mには男性の存在を入れさせないかのようだ。


 いや、いれさせていない……


「連藤先輩より、ずっといいですから」

「何の話?」

「体のあい」

「それ以上言うなよ、木下さん」莉子は言い切ると、連藤の腕を取り玄関へ引き込むと、

「木下、今日はもう帰れ」連藤が続く。

 彼の眉間にはシワが寄り続けている。

 ずっとこの調子だったのだろうか……

「あたし、諦めませんからね!」

 木下はそう言うと、笑顔で手を振り去っていくが、連藤からは大きなため息が落ちてくる。


「莉子さん、すまない」


「……プリン、食べよっか」

 まさか三井の忠告が自分に対してだったとは___


 連藤の落ち込みを慰めながら、どう木下に対応していこうか考えてみるが、今日は考えないようにしよう。

 連藤が無事に帰ってきたことで十分だ。


「莉子さん、俺の魅力がなくなりかけたら言ってほしい……」


 彼の言葉が今回の出張の熾烈さを表現している気がしてならない莉子だった。

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