フロム・ヘル

第31話 風になびいた木

 電車に乗っていた。

 いつからだろう…気づいたら電車の中にいた。

 古い感じのローカル線、コトントトーン…コトントトーン…電車はのどかな田園風景を窓に映している。

 油絵で描かれた風景が窓の外を流れる…。

 しばらく流れる景色を眺めていた。

 頭にもやがかかったように意識は混濁こんだくして電車の揺れとは違うリズムで意識が揺れている。

 幻覚か…夢か…見覚えのある風景が眼前に広がった。

『風になびいた木』フィンセント・ファン・ゴッホの作品。

 現在は所在不明とされている作品だ。

 この作品は好きだ。


 電車が木の前で停車し、ドアがプシュッと開く、足は自然と、その木を目指し、油絵の木に手で触れる。

 木はベタベタとしており、モロに油絵具の感触だ。

 足元で揺れる草も土も、触れば乾いていない油絵具、当然、触った場所が歪んでくる。

 後ろを振り返れば、電車から足跡が続いている。


 自分の好きな作品を汚している…しかし、それが背徳を交えた快感でもある。

 壊したくないのに…壊さずにはいられない…。

 指に付いた油絵具を指先でねぶってみる、鼻に独特の臭いが広がる。

 その臭いにイラつき、感情を逆なでする臭いを欲し、両手で…油絵具を拭い自分の顔に擦り付ける、ムワッと油絵具の臭いに包まれ、息苦しくなる。

 呼吸が荒くなると、そんな自分が興奮していると脳が勘違いするのか、理性がフッと途切れる。

 気付けば、全てをグチャグチャに塗りつぶしていた…。

 フィンセント・ファン・ゴッホの面影は、すでになく、ただ色彩が崩壊した世界に油絵具にまみれて鼻息荒く突っ立っている。

 取り返しのつかないことをしたという後悔と懺悔、それと同じくらいの高揚と優越。


『風になびいた木』は現在、所在不明の作品だ。

 あるいは、2度と見ることは叶わない作品。


 これは幻覚か…夢か…目の前に広がる、この作品を汚す恍惚。

 その万能感。


 これは夢…。


 壊すことしかできない…そう、ワタシにしか壊すことは出来ない。

 壊したのは…この作品か?

 違うな…壊したのは、自分の世界。

 大好きだった『風になびいた木』。

 欲しいモノが手に入らないのなら…いっそ…壊したほうがいい。


 この喪失感と失意…えも言われぬ不安が心を染め上げる頃、スーッと現実へ戻される。


 ある日の昼に見た、白昼夢。


 くだらない…死に場所を探しに行こう。

 どこがいい…あんな風景の中で死ねたらいい…。


 全てが終わってみれば解る。

 やり遂げた後に訪れるのは満足感じゃない。

 喪失感だけだ…。


 大切なのは動機と過程。


 フィンセント・ファン・ゴッホが狂ったように書き続けたのは…きっと喪失感から逃れるためだ…。


 彼が、自らの耳を切り落としたのは、耳を失う恐怖から逃れるため…。

 そう失ってしまえば、もう失うという想像をすることはないのだから。


 彼の気持ちが解る…。


 その境地は、きっと仏教のナニカに通じるような気もする。

 ある種の境地に辿り着くには、その過程で人を捨て去ることだ。


 その途は、人の路を外れなければ歩むことのできないみちだ。


 私は、いつもの無人駅に降りた。

 僅かな『くう』を、あるいは私は垣間見たのかもしれない…。

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