第三部

第二十五回 動き始めた二人の運命

- 1 -


 晴れ渡る空の下。祝福の鐘がなる。


 それが合図かのように岬にある鐘に向かって、海から心地よい風が吹く。まるで風も二人を祝福しているようだ。そして、祝福の拍手が二人に向けて湧き起こる。


「おめでとう」


 列席者の口から溢れ出す言葉。


 陽の光を反射するシルバーのスーツを着る男性は、暑さを微塵も感じさせない清々しい表情で笑顔を返す。


 空の色、海の色、鐘の色、岬一面に広がる草花の色、風の色。それらのどれにも溶け込まない純白のドレスを着た女性は、男の腕につかまり、拍手とフラワーシャワーの中を通っていく。


「おめでとう、英士」


 と、聖士。


「おめでとう、亜耶弥」


 と、零士。


「おめでとう、二人とも」


 と、弥里。


「結婚おめでとう」


 と、真琴。


「ありがとう」


「ありがとう」


 列席者の間を通り抜け、亜耶弥と英士は振り返った。二人の背中に白く透き通って光る羽が広がる。一度だけ羽ばたかせると、地面に落ちたカラフルな花びらが再度舞い上がった。舞い散る花びらの中で幻覚を見ているかのように、亜耶弥と英士は宙に浮いている。


「みんなありがとう。これから私たち、二人でみんなの分まで世界を祝福してくるから」


 亜耶弥は、その言葉を最後に英士とともに空へ舞った。そして、二人のいた場所には、白いバラで作られたブーケが残されていた。


― ブラック・ローズ編 L.S. 完 ―



- 2 -


 裸電球一つ吊り下がる狭い部屋のベッドの上で、圭士はこれを読んでいた。


 時間は、とっくに日付を越えていた。電気の無駄になるからと、一旦は読むことをやめて寝ようとした。しかし、終わりまでもう少しであり、続きも気になって眠ることができなかった。


 目を閉じれば、Supertailの続きを想像してしまう。想像が出てこなくなると、今この世界における状況が気になってまう。


 その二つくらいしか、ベッドの上で考えることはない。


 窓のない鉄板に囲まれた錆び臭い部屋の外も、ほとんどこの部屋と変わりない。


 圭士はこの十日ほどSupertail、もといブラック・ローズ・マガジンなるフリーペーパー風冊子に書かれた物語を読んでいた。ベッドの脇にはその冊子が山のように積まれ、一部は崩れていた。


 冊子は、何人にも読み渡されていたようで、一部は手垢で黒ずんだり、油が染み込んだような滲み、耐久性のない紙なのか隅が破れてしまっているものもある。Supertailといえば、コピー用紙にコピーされたものが普通であるが、いつの間にか冊子になってしまっていた。


 一冊のページ数は多くない。Supertail以外の内容もあるので、物語一回の量はコピー用紙の時の三分の一くらいか。


 ノートに人の手で書かれた白黒の字はそこにはない。


 コピー濃度を間違うと、読めない時もあったりと読者は同じコピー用紙を持っていないだろう。圭士は少し前にコピーして読んでいた時のことを懐かしむように思い出していた。


 ブラック・ローズ編の冒頭で止まっていた物語の完結。そして、最後の一行に書かれてあるようにLittle Story = Supertailの終わりである。


 冊子を読み終えて、圭士はこれといった感想を持ち得なかった。ひねくり出していえば、


「こんなものか……」


 あきれからこれらの冊子を渡された時、その量にも驚いたが、あきれの言った感想にも驚いた。驚いたというより、呆気にとられたと言った方が正しい。


 あれだけ夢中にさせたSupertailの完結を真顔で、そう答えるとは思ってもいなかった。


「政治家の答弁書みたいなものよ。ただ書いてあるだけで、中身は何もない」


 あきれは、圭士に目を合わさず言った。そっけないが、互いに心配しあった後のことで、照れくささもあったようにも思う。


 読んでも読まなくても一緒よ、と言って部屋を出て行く真っ白なブラウスを着たあきれの後ろ姿が印象的だった。


 部屋にいる間は何もやることはないから、時間を潰すにはもってこいのSupertailだったわけだが、読み進めて行くうちにあきれの感想が的外れな感想とも思えなくなっていた。


 これを書いたのは京だ。吹雪京ただ一人。


 Supertailは、吹雪京と日影遊馬の二人で交互に書いていたものだったが、この冊子は京一人で書き上げたもの。二人で書いていた時に比べてすべてが物足りなくなっていた。つまらないと言ってしまえばそうなのかもしれないが、物語を書く以前にもともとSupertailにあったものが失われてしまっているような印象だった。


 その失われたもの――それは記憶の中の絆。


 つまり、京にとっての日影遊馬だ。交互に書かれたことで物語に相乗効果が出て……という書き方の問題ではない。


 圭士はここでふと柳奈々の顔が思い浮かんだ。


 Supertailの内容については、柳と二人で話すことが多かったからだ。ただ、彼女は圭士を殺そうとした女性。今は、行方不明。所在ははっきりしないが、バンドグループLittle Storiesのメンバーとともに、あきれを裏切った烏丸なる男に着いていったようだ。連れて行かれたのかもしれないが。


 日影遊馬がいなくなったことで、京の心が空虚になってしまっていることが、物語を読んで明らかだった。キャラクターたちに躍動感を感じられなかった。遊馬を喪失した京の心がキャラクターたちにもあるようにさえ思った。


 しかし、そう思ってしまう原因は、圭士自分自身にもあると考えていた。


 それは、Supertailの中に入り込んでしまったからだ。


 コピー用紙のSupertailは、ただの空想でしかなかった世界。しかし、亜木霊となって、血を通わせてそこで生きる人物たちと物語を冒険したのだ。喜び合うだけでなく、時には仲間同士不穏な動きを見せることもあった。


 小説をただ読んで得る感動。それを超えた体験を圭士はしてしまったのだ。


 実際に声で会話をした人物が、また字面に戻るとなんと静かな人物たちだったのだろう。


 その体験をしていないあきれがそう思ってしまうくらいのSupertailになってしまったのだ。


 物語は、京が学園長室で宣言したように、ブラック・ローズ編の続きになっていた。


 幼少の頃に行き別れたとされる亜耶弥の姉・京は、暗殺組織の一員だった。幼少の頃を知る日影遊馬を頼りに、暗殺組織に対抗する組織ブラック・ローズを立ち上げる。


 出雲編にあったようなアクションシーンを交えて、一歩一歩亜耶弥は京に近づいて行った。中でも苦戦を強いられたのは、烏丸ミチルという人物だった。烏丸は亜耶弥たちの高校の教諭であり、暗殺組織に内通する人物として描かれている。中盤で、亜耶弥たちを裏切る形で亜耶弥らの前から姿を消すことになった。


 しかし、終盤に差し掛かるあたりで、亜耶弥たちの動きを読むように、京を裏で操り、京を亜耶弥らの前に出すことになる。それは、亜耶弥と京を助けたい烏丸の計画であった。


 組織の意に反して行動した烏丸と、彼に操られたとして京は、暗殺ターゲットにされてしまう。そして、京を助けるために烏丸は、京をかばって命を落とした。たとえ、組織の人間が死んだとしても動揺しないはずの京だが、烏丸だけには心を許していた。暗殺組織に属してから、烏丸が京を影で愛でていたからだった。


 亜耶弥と京は、水と油で心を通わすことができなかったが、烏丸の死で初めて悲しみを共有した。それから亜耶弥と京は手を組み、暗殺組織壊滅に挑んだ。


 しかし、京は組織の柱を崩すため、亜耶弥の計画を無視して単独行動に出た。その行動が結果として暗殺組織に大打撃を与えることになった。そして、亜耶弥たちが組織を壊滅に追い込んだのだ。


 だが、京は亜耶弥らの元に生きては帰ってこなかった。


 亜耶弥は、京の喪が明けてから少しして、英士と結ばれることになった。


 よくまとめられた物語だが、ただそれだけだった。


 京は自分自身を登場させて、どうしたかったのか。せめて京は死なずに生きて、遊馬と結ばれる方が京の本望ではなかっただろうか。しかし、もういない遊馬と物語の中で結ばれても、それは京の心を満たすものではないのかもしれない。


 そもそもSupertailで、心を満たす必要はなかった。この現実が京にとってのSupertailとなっているのだから。


 圭士やあきれたちがこんな鉄板で囲まれた建物で住まう世界。全世界がこんな状況だ。


 ただ、こんな世界に導いたと思われるあらましが、Supertail内に外伝として時々挿話されていた。『記憶の中の絆・外伝』というタイトルがついている。


 これは、ハワイ編があのシーンで終わらず、仮に続いていたらという話だった。


 雪の降る校庭で、聖士は戦う意思を失っていた。新たに生まれた悪の人格に覚醒した亜耶弥と英士に斬りつけられる瞬間で終わるハワイ編。その続きだった。


 どんなものよりも強い力を持つ亜耶弥と英士は、圧倒的な破壊力で世界の都市や町を一つ一つ消し去って行った。都市が消滅するとき、天に届くほどの光の柱が立つことが目撃されていた。手も足も出ない人類はただそれを見ているか、光の柱に飲み込まれるだけだった。全世界の都市が消滅したら、亜耶弥と英士の姿は消える終わり方だった。


 圭士は外伝を読み終えた時、京がこの世界で実現したかったのはこの外伝のような気がしていた。今からちょうど十日前に外伝と同じ景色を見たから、そう思うのかもしれない。


 その時たった一回、この建物から外へ出た時に見た大地の光景。


 目を瞑れば、すぐに浮かび上がってくる乾いた大地。



- 3 -


 圭士は目を覚ます。


 今までに見たことのない天井。


 鉄板がむき出しの天井。


 ところどころ黄ばんで、赤茶に錆び付いている。その匂いで部屋は包まれていた。


 天井だけでなく壁も床も扉も全て鉄だった。。コンクリートや壁紙で装飾されていない。窓すらない。裸電球がただぶら下がっている。


 次第に意識がしっかりしてくる。しかし、起き上がろうとするが、体が思うように動かない。まるで錘の布団をかけられているようだった。


 そして何より口が渇き、唇がカピカピになっているのが、触らずともわかった。


 ――水が飲みたい。


「あっ……うっ……いあい」


 喉が貼り付いてしまっているように呻く声しか出すことができなかった。


 傍らで椅子に座って居眠りをした若い男が目を覚まし、圭士の声に気づいて顔を覗き込んだ。


「おっ、目覚めたか。自分がわかるか?」


 男は、喜びあふれる笑顔で言った。


「あ……あっ」


 圭士はわかると声を出して、縦に首を振りたかったができなかった。


「オーケー、オーケー。わかるんだな。ちょっと待ってろ」


 男は壁に備え付けられていた伝声管に向かって言う。


「あきれ。あきれ。深和圭士が目覚めた。繰り返す。あきれ。あきれ。深和圭士が目覚めたぞ」


 なぜ、俺が目を覚ますくらいであきれを呼んだりする。


 この場所、この動かしづらい自分の体、一体何が起きているんだ。


 目を動かせる範囲でわかったことは、特殊な医療機器があるわけではないこと。命に関わるような状況ではなさそうだ。気になるのは点滴が吊るされ、自分の手に繋がれていることくらいだ。


 男はベッド脇の台の上にあった水入れを持った。ジョウロの口みたいに伸びた先を圭士の口にやった。


 ポタポタと数滴、水が舌の上に落ちる。すぐに水滴が乾いた舌の上に広がって蒸発するかのように消えていく。


 何度か繰り返していくうちに、口の中は潤った。そして、喉の通りも良くなって、嗄れていた声は徐々に自分の声を取り戻していく。


「色々聞きたいことはあるだろうが、それはあきれと話してくれ。あ、俺は雨宮早太。よろしく」


「あぁ、よろしく」


 そういえばと、圭士は彼の顔を思い出した。バー・ブラック・ローズの地下室にいたあきれの仲間の一人にこんな顔の男がいたと。


 雨宮は、体を起こしてみるかと言って、圭士の上半身をゆっくり起こした。


 筋肉が久しぶりに動いてミシミシと唸る感覚が全身に走った。血液が上半身から下半身へと落ちていくような不思議な感覚を伴って。


 雨宮は布団を丸めて、圭士の背中と壁の間に挟んだ。


 そして、最大の違和感を感じた。


 耳と目の横に一枚の黒くて薄い壁があるのを感じた。


 ゆっくりと持ち上げた手でそれに触れてみる。自分の手ではないような感覚で触れるそれは、自分の伸びた黒い髪の毛だった。


 いつの間に俺の髪は伸びたんだ……。


 そして、圭士の部屋の扉が開いた。


 鈴木あきれとフダラク・ルカの二人がそこにはいた。無口のルカは、あきれの座る車椅子を後ろから押して入ってきた。


 車椅子に、なぜあきれが座っているのか。


 車椅子姿のあきれに驚く以上に、あきれの服装がゴシック衣装から真っ白な服装に変わっていたことに目を丸くした圭士。白のブラウスに、足首まで隠れるような長いスカート。レースがほどこされたスカートは、ゴシック衣装の名残りかと思わせるあきれのこだわりか。


 車輪に巻き込まれないように足で押さえ込むようにまとめらているが、極端に右足に寄せられている。


 あきれがベッド脇までやってくると、目が潤んでいた。グッと奥歯を噛み締めて堪えている。


 圭士とあきれが見つめ合う静寂の中、雨宮とルカは何も言わずに部屋を出て行った。


「深和圭士。遅いお目覚めね。Supertailから戻ってくる時もそう。そして、あの時の爆発で気を失ってから目覚めるまで二年よ」


「! に、二年?」


 自分の目の横に映り込む髪が大きく揺れた。


「そうよ。嘘じゃないから……本当に目覚めるのが遅いのよ……良かった。目が覚めてくれて」


 あきれは顔を歪めて堪えていた涙を流した。


 圭士は、その涙を見てもう一度問い直すことをやめた。彼女の涙が二年経過したことを如実に物語っていると思ったからだ。


「あぁ、悪かったな。心配させてしまって……。ところで、あきれ。年をとらない呪いにかけられたりしていないか?」


「たく、なんのおとぎ話? 目覚めて早々冗談を言うなんて、どうかしてる。私の涙が台無しね」


 涙の拭き跡が残るあきれは笑っていた。


 圭士もあきれの笑顔を見て、ゆっくり微笑む。


「でも、目覚めてくれてありがとう。あの時、私を置いていかず助けてくれて本当にありがとう。圭士」


 あきれは、そのまま深々頭を下げた。膝におでこがつくほどだ。


「だから、こうして私は生きていられる。あなたに助けられた命。その代償に左足は失ったけど、命に比べたら安いものよ」


 あきれは頭を上げると同時にスカートをつかんで、膝まで引き上げた。


 舞台の幕が上がって板付きで登場するはずの二人。右足と並んでいるはずの左足はそこにはなかった。


 あきれは、膝が見える位置で引き上げた分のスカートを太ももの上に置いた。そして、左太もも部分を手で押し込んで見せた。太ももの中程まで座面にペッタリ潰れてしまう。股の付け根から十センチほどの長さしか左足は残っていないようだ。


 あきれは、とっくに気持ちを吹っ切っているようだった。笑って足を見せてくれていたが、圭士の手は震えていた。


「俺がもっと早く目覚めていれば、あきれの足は……」


「そうでもなかったみたい。巻きついたいばらの力は骨を粉砕していてどうしようもなかった。長時間血の循環がなかったら、左足の筋肉組織は死んで元に戻らないって」


 ――そうだったのか……。


 圭士は何も言えなかったのか。


 しばし、二人の間に沈黙が生まれた。


「そっ、そういえば、俺は二年も眠っていたみたいだけど、あきれや助けに来てくれたやつは……。無事だったんだよな」


「遊人ね。彼も亜木霊になっていて、その力を利用して助けに来てくれた。ワープゲートを作ってあの場にやってきた。ただ、そのゲートに戻るのが一歩遅くなって、あなただけ爆発の衝撃で頭を打った。そんなところ。記憶障害もなさそうだし、安心したわ」


「俺があの時もう少し判断を早めて、通路近くまで移動していれば」


 圭士は、握りこぶしを握ろうとも、うまく力が入ってくれなかった。


「まぁ、あの状況でいまさら何を考えても仕方ないわ。あんな姿にされていたのも京姉さんの仕業。遊馬さんに買ってもらった衣装を着ていた私を憎んでいたのか、私を見つけた時の判断を遅らせるための罠か……」


「え、京はどうやってSupertailの中から出たんだ。彼女はファーストコピーだろ。あの場にセカンドコピーは俺だけだったし」


「ミチルさんよ。亜木霊になって京を迎えに行った。あなたが戻ってくる頃、すでに私たちはミチルさんに裏切られて、霊廟は制圧されていたのよ」


「そのミチルと京は一緒に」


「えぇ。亜耶弥や英士たちと一緒にいなくなった。それに遊馬さんの骨も持って行かれた」


「そんなことになっていたのか」


「京姉さんの気持ちもわからず、勝手なことをした私は、京姉さんの怒りを買った。その結果よ」


 でも、あきれは自分の思いを行動に移しただけ。もう少し二人の気持ちが近ければ、話して分かり合うこともできたのに……。


 圭士は、出雲で何もできなかった自分を悔む。


「申し訳ない。俺がSupertailでしっかり京の情報を探すことができていれば、あきれをこんな目に……」


「そっ、そうよね。圭士がSupertailで京姉さんと出会って上手く助けられていたら、私はあなたに生まれたままの姿を見せることもなかった。あなたはそれを見た。だから、その……責任とって。責任を取りなさい、深和圭士」


 あきれは顔を赤らませ、圭士から視線を外した。


 左足を失くした責任――じゃないのか。


 圭士は笑いがこみ上げた。


「なっ、なんで笑ってるのよ。男として当然でしょ。嫁入り前の女性の裸を見ておいて。左足を失ったか弱き女を一生そばで守りなさいって言っているの」


 圭士の笑いは止まらない。


 よもやあきれの口から告白ともとれる言葉が聞けるとは思ってもいなかった。Supertailから戻ってきたのは、まるで昨日のようなことの圭士。二年も月日が流れているとはまだ思えない。


 昨日の今日で、あきれから告白を受ける身としては、笑う他なかった。


「私は本気だから。この二年間どんな想いであなたを……。いいわ。ここまで言って伝わらないんだったら」


 あきれは車椅子を自分で動かし、圭士の部屋の扉を開けた。外では、ルカと雨宮が待っていた。


「アイツ、連れて来て」



- 4 -


 鉄と油の匂いが充満するエレベーターで、上がっていく。


 むき出しの鉄の壁が下へと流れていく。


 圭士は無理矢理車椅子に乗せられ、部屋から連れ出されてしまった。ルカがハンドルを握る車椅子のあきれは、プンスカした表情でさっきから一度も声を発しない。


 エレベーターは、ガクンと音を立てて最上階で止まった。


 目の前の鉄扉が開くと、乾いた空気が流れ込んできた。


 そして、懐かしさを感じる陽の光も入ってきて、明るくなる。


 雨宮は圭士の車椅子を押し、外へ出た。


 そこは建物の屋上だった。そこの床も全面鉄板張りだった。この建物自体が鉄で組まれ、鉄に覆われていることがわかった。


 しかし、そこから見える外の光景は、鉄とは無縁の茶色の大地が広がっていた。鉄くず一つない。まして、緑の草木も一本も生えていない。


 あちこちで土埃が風で巻き上げられている。


 圭士の伸びた髪を風が揺らす。久しぶりの風だというのに、冷たく感じた。目の前の光景を受け入れることができないように、頭が痛くなる。


「世界のほとんどがこんな状態よ。都市や町、人工物、すべて亜耶弥と英士によって消されてしまった」


「亜耶弥と英士が? どうして二人が……。聖士や零士は」


「正直、分からない。生きているのかどうかも。一つ言えることは、この世は京姉さんの書く物語の世界そのもの。だから、亜耶弥と英士は、京姉さんのシナリオ通り動いた。いえ、動かされていた」


 あきれは、そう言って圭士に冊子ブラック・ローズ・マガジンの一冊を手渡した。


「これは?」


「ブラック・ローズ編の続きが書かれているわ。この二年間で、Supertailは完結。この星がこんな状況になる物語も書かれている。その物語の一部にならないように必死に逃げたわ。行く先々で何度も町を破壊されて、それでも逃げて。あなたを守りつつね」


 ――そうか。俺はあきれに生かされていたのか。


「そこには過去のことしか書かれていない。未来すら想像して楽しめたSupertailはもうそこにはない」


 圭士はあきれの言葉があまり聞こえていなかった。


 聞こえていたのは、あきれの想い。


 あきれの涙。


 あきれの言う責任。


 あきれは誰よりも生かされた命を俺に使ってくれていたのか。


 今、ここであきれにさっきの返事をしなければ後悔する。


「あきれ」


「なによ」


「俺、あきれを守るよ」


「はぁ、ちょっと、今ここでそんなこと言わなくてもいいでしょ」


 慌てふためくあきれの背後に立つルカが、ニコリと笑った。


「初めて笑ったルカを見たよ。いいこと言うな、圭士さん」


 雨宮が言った。


「あなたたち、忘れていいから」


 あきれは両手で顔を覆っていた。


 圭士が守ったあきれの命。


 あきれが守った圭士の命。


 これも死なない運命ってやつなのか。


「"Destiny begins to move."俺たちの運命は動き始めた。京の書いたSupertailが終わったなら、ここから俺たちが進む未来のSupertailを書こう」


 力の入れ具合を確かめるように、圭士はサビついたように鈍い動きの手で冊子を握り、力いっぱい天へ伸ばした。


「えぇ」

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