第50話 馬鹿なことをしている。本当に、馬鹿だ。こんなことをしても何にもならないのに。
港に近い倉庫街を、壁に沿って歩く。
路地の左右から建物が押し迫ってくる。柱も壁板も無計画に増築され、傾いでいるせいで、凹凸が逆に、階段の上下が反対に見えた。だまし絵のようだった。
路地の左右には無造作に積み重ねられた空の木箱。黒く黴びた樽、破れた麻袋などが雨に打たれている。
「誰もいない」
ラトゥースは身震いし、マントの襟をかきあわせた。
行く手を照らすあかりもなく、足元はひどく暗い。
ポケットをまさぐる。出てきたのはコインがたったの数枚。手の中にすっぽり収まるほどしかない護身用の警棒が一本。
首を振り、つば広の帽子にたまった雨のしずくをざっと振り払う。
ひとり孤独に
自分以外のすべてが敵、すべてが罠、すべてが悪意に思えた。
もしかしたら、ハダシュの目にはこんな救いのない世界だけが映っていたのだろうか。
倉庫街を抜けると、運河の入り口に当たる古い埠頭に出た。雑然とした船溜まりになっている。
外洋に出てゆくような大きな帆船はいない。漁船、貨物を運ぶはしけ、がっちりとした緩衝材で両舷を固めた
ロープの擦れる音。
夜の波が船縁を打つ音。
無数に林立するマスト。
だらりと風に揺れる何本もの帆綱。
聞こえてくるのは陰鬱な木の軋みばかりだ。係留された曳船の胴に打ち寄せる波が、船体を忙しなく傾がせている。
濡れそぼつのもいとわず、ぼんやりと暗い夜を見上げる。
ラトゥースは護岸に沿って歩きながら、ゆっくりと埠頭を見てまわった。
船標がわびしく吹き流れている。まるで死の海にただよう墓標のようだ。
雨の向こうに灯台が見える。
色のとぼしい光が海面を横切るたび、吹き降りの白い線と荒れた波が斜めに浮かび上がった。
「××に×き××って」
ふいに声がした。聞きなれない外国語。どやどやと通り過ぎてゆく。
ラトゥースは物陰へ飛び込んだ。身を伏せ、息をひそめる。
「××、××な××を××……ね……」
「××エウロラ×……と×ッ×され××る……」
喋っている内容は、外国語訛りがきつすぎてほとんどが聞き取れない。
だが、確かに聞こえた。
ラトゥースは男たちの声に神経を研ぎ澄ました。
毛皮の胴着にたぶだぶのズボン。髭だらけの顔に毛むくじゃらの腕と脛、やたら目立つ黄色や緑の、それも色違いの靴下を穿き、靴は汚れたキャンバス。見上げるほどの巨躯ぞろいだ。
先頭の一人が、手に船の絵を描いた紙を持っている。
乗組員か、あるいは船員募集に応じて集合場所へと向かう途中か。
ラトゥースは男たちの背中を見送った。ためらいが胸中で早い渦を巻く。
手がかりを得たいなら、後をつけるしかない。
と思う一方で、単独行動をするなと厳しく戒めたシェイルの言葉もまた、何度も頭の中で繰り返される。
男たちの気配が遠ざかってゆく。
まずい。思わず前のめりになりそうな焦りがかき立てられる。このまま後をつけてゆくべきか。それともとどまって応援を呼ぶべきか。
逡巡するいとまもなく。
しゃべり交わす声が、いきなりどこかの角を曲がって途切れた。
「しまった」
思わず舌打ちする。ラトゥースは意を決した。
ここで見失うわけにはいかない。振り返っても他に誰かがいる様子はない。きっと大丈夫だ。
覚悟を決め、後をつけ始める。
その足元を、黒い影が斜めに横切った。
男たちの笑い声と足音に、ときおり怒鳴りあいの喧嘩が混じる。
彼らが本当にエウロラ号へと向かっているのか、だんだん分からなくなりつつある。
孤独だった。時間の感覚もない。
いったいどこまで歩いていくつもりなのだろう。
藻やフジツボがびっしりと貼り付いた石橋の袂をくぐり、ぬかるみを踏み散らし、手すりもない急な九十九折りの階段を登り、下り、まさに街の底辺と言っていいような泥道を、男たちは歩いてゆく。
ラトゥースは感情を押し殺し、あとをつけ続けた。
シェイルとの連絡手段がないことに気付いてはいた。孤立無援状態での深追いは禁物だということも。
先の見えない無謀な行動を取っていると分かっていてなぜ続けるのか、自分でも分からなかった。分からぬままに、ただ、誰かの影を探して追いすがっている。
頭では理解しているのに、焼け付くような焦燥に追い立てられて、足を止めることができない。
ラトゥースは雨を仰いだ。ため息が落ちる。
「どこにいるの、ハダシュ」
思うまい、考えるまいと耐えてきた名が。
無意識に口をついて出た。
あわてて首を振る。間に合わなかった。
限界まで張りつめていた心の糸が緊張に耐えきれず、ふっつりと切れる。
危険な任務に没頭さえしていれば、こみあげてくる感傷を圧殺できるはずだった。
しかしひとたび思いにとらわれてしまえば、もうハダシュの暗い面影と、ときおり垣間見せる笑顔ばかりがやたら目の前にちらついて、どうしても消し去ることができない。
ラトゥースは、自らの愚かしさにきつくくちびるを噛んだ。
自分が、今、何をしているのか。
ようやく自覚する。
水夫のあとを付け、あわよくば情報を手に入れようと画策したつもりでいながら、その実、杳として行方の知れぬハダシュをただあてどなく探し、求め、彷徨っているだけだ。
胸がつまって、ひどく苦しい。馬鹿なことをしている。本当に、馬鹿だ。こんなことをしてもどうにもならないのに。
初めて逢ったときのハダシュはまさに手負いのけものだった。身に染みついた血のにおい、虐待じみた背の刺青、総毛立つ眼の色。
何もかもが異様で、追われる者特有の自暴自棄な態度を剥き出しにしていて。話を聞く耳すら持とうとしなかった。
ラトゥースは、震えだしそうな思いを噛み殺した。
二度と、ハダシュにあんな目をさせてはいけない。
「私を信じるって言ってくれたあの言葉を、当の私が信じてあげないで、いったい誰が信じるっていうの」
決意のかたちに唇を強く結び、帽子を目深に引き下げる。
どこかでぴしゃりと水が跳ねた。
身をこわばらせ、振り返る。
にわかに雨足が強くなった。横殴りの吹き降りにあおられる。濡れて重くなったマントが激しく空をはたきつけた。
ラトゥースは帽子を斜に押さえた。身を低くして、闇を凝視する。
誰かいるのか、それとも。
固唾を呑む。
心臓の乱れ打つ音が、身体の中でさらに高鳴った。耳を限界までそばだて、鋼鉄の弦のように意識を研ぎ澄まし、雨音にまぎれているかもしれない別の音を、息を殺し、探る。
水のはねる音。
同時に、背後から獣めいた咆哮が上がった。振り返る。
視界ほとんどを埋め尽くす黒い影。
毛むくじゃらの巨体が、下卑た笑みを浮かべて両手を振りかぶる。
節くれだった棍棒が、うなりをあげて振り下ろされた。
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