第24話 ギルベルト・レイスブルック

「ハダシュ君、危ない。逃げろ」

 レイスの切羽詰まった声が聞こえる。

 だが、足がまたろくに動かなかった。踏みとどまって戦うこともできず、無様によろめく。


 ハダシュは音も気配も凍りついた一瞬の間隙に立ちつくした。

 呆然とかすれ笑う。

 黒薔薇に殺されるならともかく、仲間に裏切られ、嬲り殺されるとは。


 仲間……?


 違う。後悔と、自嘲と。わずかな胸の痛みが渦を巻いて視界を覆い尽くす。ラウールもローエンもヴェンデッタも、最初から仲間などではなかった。もしかしたら、レイスも。ラトゥースも。この街の住民全員が。


 そんな奴らのことを、仲間だと思い込んでいた自分が可笑しかった。

 ラトゥースの言った通り。ヴェンデッタの言ったとおりだ。

 このままで終わっていいのか、と。

 問いただす声が響き渡る。


 自分自身を縛る魂の牢獄から脱出しろ、と。


 一方は光の中から。

 一方は闇の奥から。


 だというのに。

 目の前の棍棒から逃れることすらできぬまま、結局はゴミのようにあっさりと殴り殺されて終わる。思い描いていたのと同じ。クズのように、虫けらのように、死ぬ。自分が手にかけた友の最期と同じように。


「おい、男。こっちを向け」

 思いも寄らぬ方向から声がした。

「はぁ?」

 棍棒を振りかぶったまま男が振り向く。

 その急所に、恐ろしい音がめり込んだ。黒いブーツの踵が食い込んでいる。一瞬の静寂の後、男は糸の切れた操り人形のようにくずれ落ちた。


 股間を押さえ悶絶している男の向こう側で、額に手を当てなぜかうなだれる女軍人の姿が見えた。戯画化された悪魔にも似たかたちの影が、黒々と路地にうねっている。


「ああ、また男を足蹴にしてしまった。こんなことでは嫁に行けない……」

「蹴り一発だなんて。さすがはシェイル。お見事。また私の出る幕がなかったわ」


 緊張をほぐす間の抜けた笑い声が響いた。

 細腰には似合わぬ、ごついガンベルトを帯びた可憐な影が進み出てくる。

 性急に駆けつけてきたのか、月夜にくしゃくしゃと乱れた金の髪。半身に体重を掛けて、両手を添えて構えた銃の狙いをつけている。


 こつん、と華奢なヒールの音が響いた。

 ドレスの裾がふわりとなびく。その裾は赤茶けた血の色のままだった。


「でも、よかった。また逢えて」

 ハダシュはその声を聞いてうろたえ、同時に、心のどこかで安堵する自分を感じた。

「後をつけたのか」

 ハダシュは強がりのまなざしをラトゥースへと向けた。


 ラトゥースは眼を丸くする。


「やだ。本当に気づいてなかったの? 後をつけてたのは、あなたじゃなくてそっちのチンピラの方だからね? 念のために言っておくけど、そこらじゅう追っ手だらけよ? ま、おかげで簡単にあなたの行方を突き止められたんだけど」

 ラトゥースは、笑みながらもハダシュに絡めた険しい視線をはずそうともしない。


「縄を打ちますか」

 気を取り直した女軍人が訊ねる。

 ラトゥースはわずかに口元をゆるめた。銃をホルスターへ納める。

「いいえ。そっちのチンピラだけお願いするわ。私は、彼に、話がある」

「了解」

 シェイルは部下を呼び集めた。命じられたとおり、自らの踵で金的を蹴り潰した男の後ろ手に枷をはめ、引っ立ててゆく。荷車の音が遠ざかった。


 ラトゥースは表通りを親指でくいと示した。

「表通りに馬車を待たせてあるわ。乗ってちょうだい」


「待ってくれ。先生が」


 ハダシュはためらいがちにレイスの消えた闇を振り返った。無事だとは思うが、このまま見捨てることはできそうになかった。

 破れかぶれの白衣をひきずるレイスが、かろうじて壁にすがり、よろよろと近づいてくる。

「やめるんだ君たち、暴力はいけないぞ……あ?」

 そこまで言って、ラトゥースに気づいたらしい。ぽかんと口を開けた。


「ああ、なるほど。このかたがなのね?」

 ラトゥースは得心した様子で微笑んだ。

?」

 レイスの口元に、如才ない一瞬の笑みがかすめる。

 だがその笑みはすぐに、困惑のまばたきから驚愕へと変わった。


「驚いた、いったいどちらの姫君がおわすのかと……」


 意外な邂逅を、何度治しても斜めにずれてくる眼鏡のせいにしながら、レイスは、らしからぬ頓狂な声を上げる。

 ラトゥースは、手を口元に添えた。ころころ笑う。

「わたくし、ラトゥース・ド・クレヴォーと申しますの。どうぞお見知りおきを」


「はっ! 自分はギルベルト・レイスブルックと申す、しがない闇医者です! お初にお目にかかります!」

 レイスは緊張の面持ちで背筋をぴんと伸ばした。眼を泳がせ、そのまま硬直する。

「闇医者なのかよ……」

「ヤブ医者の間違いです!」

「まあ、ご謙遜を。先生のお噂はかねがね、そちらのハダシュさんからお伺いしておりますわ。徳のおありになる、実に素晴らしい名医でいらっしゃるとのこと」

 ラトゥースは、屈託なく手を差し伸べた。

「どうぞこちらへ。見れば先生もお怪我をなさったご様子。どうか、わたくしどもとご一緒くださいましな。ご遠慮はなさらなくて結構ですのよ」


 レイスが唖然とハダシュを見る。

「ハダシュさん、だって。誰がだ。君がか」

「うっせえ黙ってろ。ヘマして役人にとっ捕まってんだよ。見りゃ分かるだろ。っていうか見て分かれよ」

 ハダシュは気恥ずかしさを隠すために、わざと剣呑に鼻をゆがめる。

 なぜか、逃げる気がどこかに失せていた。

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