シュガー・ブルーの賞味期限

原田はとる

シュガー・ブルーの賞味期限

 ファーストキスは俺が幼稚園児の時のこと。相手は五歳年上の小学四年生の従姉のねーちゃんだった。

 ねーちゃんのふっくらとした唇はふわふわのスポンジケージと、砂糖を入れすぎて甘ったるくなった生クリームの味がした。ねーちゃんと俺がキスの直前まで食べてたショートケーキのせいだ。

『ゆーちゃん知ってる? 今のはね、キスって言うんだよ』

『きす?』

『そう。大好きな人としかしちゃいけないことなの。キスするとね、お菓子よりも甘い味がして、大人になれるんだって』

『あまい、あじ……』

『ゆーちゃん、甘い味、した?』

 素直に頷くと、ねーちゃんはくすっと笑って俺に「あたしもしたよ」と囁いた。

 その響きはこれ以上にないくらい甘くて、ドキドキした。

 


 そんな甘い記憶から、時は流れて数年後。

 俺より一足先に社会人になったねーちゃんは、今、俺が先月購入したばかりの真っ白なスクエアテーブルにだらしなく横たわっている。幼い頃は甘い味がしたその唇には、色っぽいピンクの口紅が乗せられている。だけど、つん、と「いかにも拗ねてます」って主張するかのように尖らせてるせいで色っぽさが薄まって見えた。

「ゆーちゃん、いい匂いするぅ」

「ねーちゃん来る前まで、ショートケーキ作ってたから」

「じゃあ、あたしにもちょーだいなー」

 にこっと無邪気に笑って、さっと両手を差し出して来た。その内の一つに嵌められた銀色の存在を見ないようにしながら、持っていたカップのうち、ピンク色の方をテーブルに置いた。

「何これ」

「お茶」

「お茶のケーキ?」

「違う。ただの緑茶。冷たい奴」

「ゆーちゃん、あたし、お茶じゃなくてケーキが食べたいって言ってるんだけどー?」

「アルコールの匂いをぷんぷんさせた悪い大人にあげるケーキはありません」 

「意地悪ー! ゆーちゃん、いつの間にそんな血も涙もないような子に育っちゃったのぉ?! おねーちゃんはそんなひどい子に育てたつもりはないですよぉ!」

 再び唇を尖らせたねーちゃんがめっ、と俺を睨む。

 いや、ねーちゃんに育てられた覚えはないから。

 俺はそのツッコミごと緑茶を喉に流し込んだ。甘い味が緑茶の渋みに掻き消されていく。味なんてそんなもんだ、別の刺激が入って来たら、元からあった味はまるで最初からなかったみたいに消えてしまう。人の気持ちもそんな風にできていたらいいのに、と密かに思う。

「むー……ゆーちゃんのケーキ食べたかったぁ」

「悪いけど冷蔵庫にケーキないから、出せないよ」

「ええー? 毎日作ってるのにぃ?」

「その日のうちに処理するから、残らないんだよ」

「処理って、ホールケーキを一日でどうやって処理してるの? ご近所さんにあげるとか?」

「友達にあげることもあるけど、自分で全部食べることが多いかな。今日もそうだったし」

「……ゆーちゃん、太るよ?」

「平気。太りにくい体質だし、ケーキもカロリーや大きさちゃんと考えて作ってるから」

「むー……ゆーちゃん、女の子の敵だー。女の子の味方のパティシエさん目指してるのに敵になるってどういうことよー」

「そんなこと言われても、体質だし」

 肩を竦めてみせれば、ねーちゃんの右のほっぺがぷく、と膨れた。

「ゆーちゃんのケーキ、あたし大好きなのにぃ」

「それはどうも」

「ほんとだよー。じゃなきゃウェディングケーキ作って、なんてお願いしてないし。でも、ゆーちゃん、作ってくれないって言うし」

 ねーちゃんがその言葉を口にした途端、口の中が緑茶じゃない苦いものでいっぱいになる。でも吐き出しちゃいけない。ねーちゃんは昔から俺の気持ちなんて、一ミリも知らないんだから。

「ウェディングケーキとか、俺の力量じゃ作れないよ」

「別にいいんだよ、立派なものじゃなくても。それこそふつーのショートケーキに『ねーちゃん、結婚おめでとう』ってメッセージプレートを乗せてくれたらそれで十分なんだけど」

「お誕生日ケーキじゃないんだから、ダメでしょ。大丈夫だよ、結婚式では立派で美味しいケーキがちゃんと出てくるって」

「それはそうだけどぉ……あたしはゆーちゃんにぃ」

「はいはい、もう決まったことぐちぐち言わないの。ねーちゃんらしくないよ」

「むー……」

 頬を膨らませたねーちゃんが、ピンク色のカップの中をじっと見つめる。

 こうして、ねーちゃんが一人暮らしする俺のとこに押し掛けてくることは珍しくない。今勤めてる会社から近いって理由で、仕事帰りの息抜きによくやってくる。泊まりたいとよく言われたけど、一度も泊まらせたことはない。正直、これからは頻繁に遊びにくるのも遠慮してもらおうかと思ってる。

 ねーちゃんは、もうじき結婚する。

 いくら従弟とはいえ、男の家に頻繁に遊びに来るのはどうかと思うから。


 相手はねーちゃんが高校生の時から付き合っている、ねーちゃんと同い年の人。俺よりずっと背が高くて、体格もがっちりしてて、意地悪そうなところは一つも見当たらない、いい人って感じが滲み出てる人。

『ゆーちゃん、この人があたしの彼氏なんだよ』

 ねーちゃんが大好物のショートケーキを前にしたような笑顔を浮かべて彼氏を紹介してきたのは、俺が中学三年生の時。あの大失恋の時から、ねーちゃんはこの人と結婚するんだろうなって何となく分かってた。俺がどんなに頑張ってもそれは覆らないことなんだって、今みたいに口の中を苦いものでいっぱいにしながら、悟ってしまった。

 それから、ねーちゃんを見る度に甘いものが嫌で仕方なくなった。ファーストキスの甘い味が口いっぱいに広がったかと思うと、すぐに苦いものに塗りつぶされてしまうから。

 ねーちゃんへの気持ちは忘れよう。甘い味もこのまま嫌いになって、別の味を好きになればいいんだ。

 そう思ったけど、結局俺は甘い味を忘れられなかった。ねーちゃん以外の人と恋をしても、ねーちゃんの甘い味を俺は欲しくなってしまう。けど、好きな人と結ばれて幸せなねーちゃんの心を掻き乱すような勇気は俺にはない。だからその代わりに甘いものに触れていようと、お菓子作りに没頭するようになった。それがまた思いのほかハマってしまったものだから、いっそこの道に進んでもいいかも、と思うようになったんだ。

 とりあえず、って感覚で決めていた大学の進学を諦め、製菓専門学校へ行った時は親にもねーちゃんにも驚かれたけど、ちょっとだけ気持ちが楽になったのを今でも覚えている。

 でも、お菓子作りが好きになっても、将来が定まっても、ねーちゃんへの気持ちは捨てられずに今もこの胸に残ったままだ。

 どう考えても、もう食べられないだろってくらい色も形も匂いも劣化してしまったお菓子と同じ、賞味期限なんてとっくに切れている恋なのに。

「ねー、ゆーちゃん」

「ん?」

「もしさぁ、あたしが結婚、したくないんだって言ったら、どうする?」

 ねーちゃんの言ったことが、一瞬理解できなかった。

 結婚したくない? ねーちゃんが? あの俺の大失恋からずっと幸せいっぱいだったねーちゃんが?

 息を呑んで、目の前のねーちゃんを見つめてみる。

 いつも食べ物とかおしゃれとかでキラキラ輝いている目はカップを覗き込んだままで、いつもバレッタできっちり上げている栗毛色の髪が数本ねーちゃんの首筋に零れ落ちている。

 いつものねーちゃんと、違う。

 いやいや、でも、冗談だろ。だって、そんなのあり得ないじゃん。落ち着け、俺。

 こほ、と軽く咳払いして、平淡な声音を意識して口を開く。

「……ずっと、付き合ってたじゃん。高校生の時から」

「ん」

「何でそんなこと言うんだよ。あの人のこと、好きじゃなくなったの?」

「そんなことないよ。あの頃からずっと滅茶苦茶好き。あたしみたいな女、お嫁にしてくれるのは後にも先にも彼しかいないって思ってる」

 うっ、懸命に押さえ込んだ恋心がずきずき痛む。

 いるよ、ねーちゃん。ねーちゃんをお嫁さんにしたかった奴、ねーちゃんの目の前にいるから。

「じゃあ、どうして結婚したくないって言い出すのさ」

「……本当に、これでいいのかなって思っちゃう自分がさ、いるんだよね」

 一度も触れられていないピンク色のカップの縁を、ねーちゃんの人差し指が触れる。

「付き合ってる時は、将来結婚することをむしろ楽しみにしてたんだよね。子供は何人で、何歳くらいに生もうか、とか、マイホームは頑張って建てよう、とか、彼とも積極的に話してたし、その時点で不安に思うことなんてなかった。道はまっすぐはっきり見えてる。あたしはそこへ突っ走ればそれでいいんだって、思ってた。なのにさ……結婚決まったら……」

 はあ、とねーちゃんが重たいため息を吐く。

「最初は些細なことだったよ。ずっと実家暮らしだったから、彼以外の誰もいない家に慣れるかな、ってところからだった。そこから、今度は彼の欠点が目に付くようになって……って言っても、付き合ってる時から嫌ってほど感じてたし、今までだったら普通に許容してた小さいことばっかりなんだけど。とにかく、そんなちっちゃいことがミルフィーユのケーキみたいに重なっちゃったらさぁ、信じてた一本道が正しいのか、分かんなくなっちゃって。みんな、祝福してくれてるのに、こんなこと絶対に言えないけど……その思いがずっと後を引くんだよね」

「……だから、結婚したくないって?」

「したくない、なんて本当は言いたくないけど、分かんないんだよね……彼のこと、大好きなんだけどな……」

 再びため息を吐くと、ねーちゃんがゆっくりと顔を上げた。不安げなチョコレート色の瞳に映る俺は、多分初めてキスをされた時と同じ顔をしている。だって、あの時と同じで心臓の音がうるさく聞こえているから。

「ゆーちゃん。おねーちゃん、どうすればいいかな……」

 俺は今、神様に試されている。

 ねーちゃんがどれほど不安なのか、正直、いまいちピンとこない自分がいる。それはしょうがないことだ。俺は男だし、そもそも結婚云々の話だって考えたことさえないんだから。でも、そんな俺でも、ねーちゃんが所謂『マリッジブルー』って奴なんだなってことは分かる。結婚前の一時的なもので、ねーちゃんとその彼氏の関係を何となく知ってる側からすれば、問題なく二人は明るい家庭を築くんだろうなって俺でさえも思えてしまうから。

 ……だけど、もしこの一時的な揺らぎがきっかけで、ねーちゃんが俺の方を向いてくれたなら。

 諦めていたことが、手に入る可能性があるなら。

 これはラストチャンスじゃないだろうか。

 心臓の音が、ボリュームアップして更に俺を煽ってくる。

 本当に、このままねーちゃんが手の届かない場所に行くのを見るだけで、いいのか。

 何もしないまま、ねーちゃんにも俺の本当の気持ちを知られないままで……それで、いいのか。

 持っていた自分のカップをそっとテーブルに置き、口を開いた。

「じゃあ、試してみる?」

「え?」

「ねーちゃんが本当にあの人とこのまま結婚してもいいのか。他に『可能性』があるのかどうか、試してみる?」

「何それ、可能性って」

 言いかけたねーちゃんの言葉は、机から身を乗り出した俺の唇で塞いでしまったから聞こえなかった。

 衝動でキスしてしまったものだから、俺の目は開きっぱなしだ。そのお陰でパステルイエローのアイシャドーで彩られたねーちゃんの目を間近で見ることができた。近すぎるせいか、その目の中に俺の滑稽な姿はよく見えない。

 本当に、今の俺は滑稽だ。自分でしておいてなんだけど、笑えてくる。

 人のマリッジブルーに自分まで振り回されて、本当にキスしてしまうなんて。

 しかも、肝心のその味は甘くないじゃないか。

 そう思ったら、触れただけの唇はあっさりねーちゃんから離れた。

「……ゆーちゃ」

「砂肝」

「へ?」

「砂肝の味がしたんだけど」

「え、と……それは居酒屋に行って来た帰りだから……」

「そういえばそう言ってたね。忘れてた」

 うー、口の中にあの独特の味わいが……俺、砂肝はダメなんだよなあ。

 眉をしかめて自分のカップに口を付けると、「あの……」とねーちゃんの気弱そうな声が聞こえて来た。

「ゆ、ゆーちゃん、今のって……その……」

 さっきまでテーブルにだらしなく横たわっていたのに、肩を縮こまらせておろおろしているねーちゃん。チョコレート色の目は俺を直視できないようであちらこちらに視線を泳がせているし、砂肝味だった唇からは狼狽えたような声しか出てこない。

 そんなねーちゃんを落ち着かせるように、俺は優しい声を意識して尋ねた。

「今のさ、ねーちゃんはどう思った?」

「えっ?!」

「俺にキスされて、どう思ったの?」

「え……と」

「いいよ、正直に。どうせねーちゃん、嘘下手なんだからさ」

 俺に促され、ねーちゃんは更に小さな声で答えた。

「えっと……やっぱりビックリしたってのが一番大きい、かな」

「そっか。でも、小さい頃にもキスしたことあったんだけどね」

「あっ、あれは、子供の時の話だし! 好奇心というか、ませてたというか……でも、今のは、そういうんじゃない、でしょ?」

「そうだとしたら、どうする?」

「……ドキドキしたよ? 正直ね。でも……何か違うなって、思っちゃったり……して。その、ゆーちゃんが昔と違ってあたしよりも大きくて、男の子の体つきになってて、ふつーにかっこいいなって思うんだけど……でも、その……やっぱりあたしにとってのゆーちゃんは……」

 言葉を必死に選んでるねーちゃんなんて貴重だ。普段は思ったことばんばん言うのに。

 込み上げてくる笑いを堪えながら、俺はよく聞こえるよう大きな声で言った。

「うん。俺も、同じこと考えた」

「へ?」

「昔のねーちゃんは大人っぽくて甘い味がした。今のねーちゃんもそこそこ美人で、一緒にいて楽しいけど……でも、ねーちゃんへの気持ちは恋愛感情とか、そういうものとはもう違うなって、分かった気がする」

 ようやくこっちを向いたねーちゃんの瞳。その中の俺は、自分でも笑っちゃうくらいすっきりした顔で笑っていた。

 俺が恋した甘い味はもうない。とっくの昔に賞味期限の切れたそれは、もう俺のものじゃない。

 そう分かったら、無性に甘い味が食べたくなった。それはねーちゃんを求めてじゃなくて、純粋に甘いものが食べたいって気持ちだ。

「ねーちゃん、口直しにケーキ食べない?」

「え……さ、さっきはもうないって言ってたじゃない」

「うん、あれ嘘。食べないで捨てちゃうところだったから、食べてくれるとありがたいんだけど」

 そう言いながら立ち上がり、キッチンへ向かう。ショートケーキがこんなに食べたくなるのは久しぶりだ。まるで子供の頃の誕生日みたいに、わくわくする。

「ゆーちゃん」

「ん?」

 花柄の皿を取り出しながらねーちゃんの方を向くと、ねーちゃんがもじもじと体を揺らしながら小さな声でこう言った。

「いちご、大きいのにしてくれる?」

「うん、いいよ」

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