閑話:呉越同舟
――……あの日は雨が降っていた。
酒匂太一はふと思い出して顔を上げた。
彼の住んでいる大臣用の官舎は一戸建て平屋の日本家屋で、広い庭が付属している。
限られた土地しかないこの都市では贅沢な造りの家屋である。
このように周囲を土で囲まれた家の特徴として、匂いがあった。
例えばこの日のように、土や草の匂いで雨が降っているということがわかるのだ。
彼が昔滞在していた小さな村でもそうだった。
その村は舗装された場所などなかったから、どこにいても土の匂いがしたものである。
しのつく雨と響く赤ん坊の泣き声、動いていることが不思議な小さな手。
思い出す光景は、不思議な暖かなフィルターを通して思い出される。
そうやって思い起こせば、彼はあの時初めて、人前で泣いたのかもしれない。
酒匂は隠された村の長の一族である木村家の三人の子供達全員の誕生に立ち会った。
未だ子供どころか妻さえいない彼にとって、あの家の子供達は特別だった。
特に長男の隆志にはハラハラさせられっぱなしで、胃の痛みを感じながら気にかけることとなった。
怪異に拐かされかけることなどしょっちゅうだったし、気づけばいつの間にか訓練用の
肝を冷やしたことなど数えるのも馬鹿らしいぐらいだ。
そしてしまいにはハンターを辞めて技術系の大学に入ると言い出し、一般の会社に就職してしまったのだ。
だが、彼の決断は酒匂にとっては愉快で爽快だった。
知らせを聞いた時には快哉を叫んだものだ。
何しろ隆志は誰にも相談せずに大学を受験したのである。
全てが事後承諾というのがいかにもあの突撃気質の少年らしくて、酒匂は彼のやらかしたことを称えると共に大いに笑ったものだ。
大人になってから転げまわって笑ったのは、あれが最初で最後だろう。
酒匂はそのお返しに、困惑する旧態然とした組織が唖然としている間に、するすると隆志の意志を後押しして、全てを押し通してしまった。
『何事にも最初がありますよ。都市結界も出来て怪異の危険度も下がりました。この先勇者の血統とて怪異狩りだけに専念する必要はないでしょう。テストケースということでいいではないですか』
そんな無茶な主張を、いかにも当然のことのように決議させたのである。
「早く子供を見せてくれないかな?」
それを人は父親のような気持ちと呼ぶのかもしれない。
―― ◇◇◇ ――
その日、緊急議会は紛糾していた。
「こうなったら迷宮は封印すべきでしょう」
保守派の法政大臣の言葉に大蔵大臣が苦い顔をする。
それはそうだろう、たった数ヶ月であの迷宮が叩きだした利潤の大きさは、既に国の予算の三分の一に届かんとしている。
その収益は更に増えることが確実なのだ。
ここでそれを手放すなど愚か者のすることでしかないと考えるのは当然である。
「封印して調査のための試掘だけをするということですか? しかし冒険者が納得しますかね?」
「バカバカしい、あんな社会を逸脱したクズ共に気を使う必要はない。それより海外からの圧力が日を追うごとに増しているのだぞ? 冒険者共など排除して海外の調査団を迎えるべきだ」
「我が国の中心部に海外の特殊な調査団を、いえ、はっきり言いましょう、軍隊を入れると言うのですか? ありえませんよ」
「しかし、列強諸国は我が国の閉鎖的な態度を激しく非難して、関税引き上げにつなげようとして来ている。都市に人口が集中し始めて食料自給率は年々下がっている現状で、関税引き上げは絶対に避けなければなりません」
「待て、バカども! 今問題になっているのは迷宮の危険性だ! この調査資料を読んだのか?」
「ふ、学者というのはなんでもないことを大げさに報告する連中なのですよ。結印都市についても、都市内の特殊環境で怪異の異常発生の危険があるなどと言い出して人心を騒がせんとしたのもどこかの学者だったでしょう」
「しかし、実際に軍内に発症者が出ていますからね」
「はっ、皮膚が爛れて硬化したというだけの話ではないか。大げさな話だ。むしろ迷宮の特殊な毒の影響ということも考えられるだろう。そっちの分析はどうなっているのだ?」
議論は紛糾はしているが、その向かう方向と議論の内容はどうも明後日の方向を向いているようだった。
彼らの収まりどころのない議論を他所に、酒匂は個別通信を起動して軍務大臣に通信文を打電していた。
『国際連合に委ねるというのはあり得ませんね。大国の発言権が強すぎる』
『我が国一国で管理していて汚染が広がったと判断されると、それが他国からの攻撃理由となる可能性は高い』
『完全な中立機関を監査役として招いてはどうでしょうか?』
『完全な中立機関? 冒険者協会か?』
『まさか、もっと世界的に認められた機関があるでしょう?』
『なるほど』
混沌とする議会に、議長が静粛を呼びかける。
「発言は指名のあった方のみお願いします。この議会がオープンではないにせよ、仮にも国家運営に係る方々として秩序ある行動をお願いしたい」
直後、それまでざわついていた議場が静まり返る。
「議長!」
そこへ軍務大臣が挙手して発言の許可を求めた。
「軍務大臣」
指名をもらい、大柄な体格を見せつけるように男は立ち上がった。
いかにもといった風貌は、代々の軍閥家系ゆえだろう。
「海外に我が国が迷宮に対して真摯に向き合い、その踏破を目指していること、異常事態に対する積極的な調査解決を行っていることを証明してくれる第三機関を招くべきだと私は考えています」
ざわっと場が揺らぐ。
ヤジや罵倒が飛ぶかと思えた直前に、軍務大臣は右手を軽く上げて周囲の激発を抑えた。
「あくまでも公平な第三機関ならば我らとて何の後ろ暗い所がある訳でもなし、恐れる必要はないでしょう」
手が上がる。
臨席していた皇家代理からだ。
議長がうやうやしく礼をすると、皇家代理が発言した。
「その言葉からすると既にその宛はありそうですが、いかなる組織か?」
その言葉を受けて、軍務大臣が深々と一礼し、言葉を発した。
「はっ、それはハンター協会です」
彼の発言に周囲にざわめきが広がった。
なるほどという納得の声と、それは無理ではないか? という否定の声だ。
ハンター協会はただ対怪異のための国家の垣根を超えた人類機関だ。
一国家の利益のために動くような相手ではない。
「将軍の案は一理がある。預かろう」
「はっ、ありがたきことと存じます」
この国において国の運営それ自体は、国会で大臣によって採決され実行される。
しかし国の舵取りに係る大きな事態の決定権は皇主にあった。
持ち帰られた軍務大臣によるこの案は皇主によって是とされ、ハンター協会に打診された。
やがて年を越えて迷宮特区に名物が一つ増えることとなる。
インカ帝国に本部を持つハンター協会の出先機関が、冒険者カンパニーと迷宮ゲートを挟んだその反対側にドーム型の建物として姿を表したのだ。
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