123:氷の下に眠る魚 その九
「お久しぶりです」
「
精霊はそう直截に尋ねてきた。
巫女というフィルター、翻訳者を通していても迂遠な会話は苦手なのだ。
「いえ、本日は私用でまいりました。御座所に
本来精霊のおわす所は神域であり、許可無く立ち入りは出来ない。
入ろうとしても立ち入れないのだ。
なので入るには許可を取る必要があった。
ちょっと宮司さんが渋い顔をしている。
何しろ季節的に水神様は微睡みにある時期だ。
余計なことに煩わせたくないのだろう。
「すぐおいとましますので」
滝の乙女にというより、宮司さんに向けてそう断りを入れておく。
宮司さんのほうも別に止めるつもりではなかったのだろうが、俺の言葉にいかにも仕方ないという感じに肩をすくめた。
「よい。そなたは場を騒がせぬ。好きにするがよい」
あっさりと許可をもらう。
と言ってもそれは別に特別なことではない。
精霊というものは元々寛大なものが多い。
気ままで、時折酷い災害を引き起こしたりもするが、人間側もそこは承知していて精霊を恨んだりはしない。
それ以上の恩恵を人は精霊から受けているし、また精霊のほうも人の信仰心によって存在を強化出来る。
実のところ人間とその崇める精霊との間はきわめてフランクなものであることが多いのだ。
許可をいただいたということで宮司さんにお神酒を一口いただき、御札を渡された。
これは結界の鍵のような役割を持っている。
と言っても、人間の考える鍵とは違い、あてがえば必ず開くというものではなく、もっと曖昧な作用しかない。
うん、どっちかというと名刺に似てるかな?
身分証明のようなもんか。
ほとんど整備されていない山道を往く。
お堂がある表の参拝所と違って、御座所には道を設けてはいけない決まりがある。
なのでそのほとんどは厳しい自然の地形に囲まれていた。
参道脇のしめ縄で張られた結界を超えて道無き道を歩き通し、山奥深く分け入る。
神域は空気がぴんと張り詰めていて時折鳴き交わす鳥の声が聞こえるのみだ。
木々の葉が擦れる音すらない。
やがて急流の流れる沢が現れ、ほとんど落ちるようにその大岩の転がる場所へと降り立つ。
ここまで来ると滝の水音が耳に入ってくる。
今の時期はその音はごく小さい。
半分ぐらい凍っているのだろう。
「して何用じゃ?」
滝壺に辿り着いた俺の目前に予告なく白い着物の少女が現れてそう聞いた。
白髪に、濡れた石の色の瞳、年の頃は十才に満たないだろう。
一つだけ色鮮やかな手毬を手にしている。
おそらくはお気に入りのお供え物なのだろうな。
「お休みの所お騒がせして申し訳ありません。少し、巫女様方とお話しをさせていただいてもよろしいですか?」
俺の必要としていたのは、まさしくこれだった。
この滝の乙女は代々の巫女の記憶を自らの内に記録しているのだ。
ここまで巫女と精霊の結びつきの強い場所はあまりない。
「ん、虐めてはならんぞ?」
滝の乙女はこれまでの会話で初めて感情らしき物を示した。
不安そうな顔だ。
「子供を虐めたりはしないですよ」
本心だ。
彼女は安心したようににこりと笑って手毬をぽーんと宙に放り投げた。
途端に周囲にそれまでなかった気配が満ちる。
笑い声、はしゃぐような声、子供独特の夢中で遊んでいる時の賑わいが溢れた。
おかっぱ頭の綺麗な晴れ着を着た少女、髪を小さなお団子に結いあげてそこにかんざしを一つさしている子、絣の着物を着て河原で石積みをしている子もいる。
この子はきっと巫女の資質を持っていながら水害で亡くなった子供だろう。
俺は手近にいた少女に声を掛けた。
「ここは楽しいかい?」
「うん、お友達もいっぱいいるよ」
「そうか」
少女ははにかんだように笑うとバシャバシャと水の飛沫を飛ばして駆け去っていく。
「おじさん遊んでくれるの?」
気づくと別の少女に服の裾をひっぱられていた。
「あーいや、浦島太郎になる訳にもいかないからちょっと遠慮するよ。お友達と遊んでおいで」
「ふーん」
キャッキャと笑いながら去った少女は他の子と合流するとこちらを見ながらさざめくように笑い合う。
まるで生きているように振舞っているが、これらは全て滝の乙女の記憶にすぎない。
彼女の魂のカケラなのだ。
「小さい子だけなんだな」
我が国では巫女は終身だ。
他所では第二次性徴を過ぎた巫女はお役御免になる国もあるようだが、集落ごと、土地ごとに多くの精霊を頂き、それらが暮らしが密接に関係しているこの国では巫女は常に不足していた。
感受性が下がったからと交代という訳にはいかないのだ。
そしてそれは大きな弊害をもたらした。
「みんな大きくなると容れ物だけになって遊んでくれなくなるから。どうしてだろう?」
精霊の少女は寂しげに呟いた。
それこそが人である巫女の限界だった。
柔軟性を失い、尚も精霊を降ろし続ける巫女の魂は摩耗する。
飲み込むことの出来ない巨大な精霊の魂は柔らかい人の魂を押し潰してしまうのだ。
そもそも器に固執する必要のない精霊には、それはどうしても理解出来ないことだった。
それでも彼女はこの大好きだった頃の幻をいつまでも大切に守っているのだ。
そうだ。この国の民は、自分達の暮らしを守るため、永く巫女を犠牲にし続けて来た。
チリチリと小さな鈴の音が一人の少女のぽっくりから聞こえていた。
彼女達の服装や装身具は、その両親が我が子ではなくなる娘のために精一杯工面して用立てる。
巫女となった瞬間からその子はもう鬼籍に入ったという扱いになった。
多くの者達が払った犠牲の元にこの国は成り立っていると言えるだろう。
俺はそのことを今までは当たり前のこととして受け止めていただけだった。
だが、ようやく、その家族たちの痛みがわかる。
俺は、伊藤さんが巫女として開眼する時が恐ろしい。
怪異を受け入れるということは自らの魂を危険に晒すことでもある。
誰だって自分の大切な相手がゆっくりと壊れていくのを見たい訳がない。
「俺は、やっぱり足りないことばっかりだ」
滝の乙女はしばらく不思議そうに俺を見ていたが、やがて俺に小さな白い花を差し出した。
「ほら、これ。冬に咲く花。綺麗だから元気になれ」
この精霊が人のように振る舞うのは彼女達の犠牲の積み重ねの果てに成ったことだ。
だとしても、この乙女が悪い訳ではない。
全ては人間の都合によるものだ。
「ありがとう」
俺はそう言ってその花を受け取った。
「今日はお客様が多い日じゃ。眠るのは退屈だから少し嬉しい」
「お客?」
あれから誰か来たのだろうか。
乙女の見る方向に視線を向け、絶句した。
「ほんにつれない男よな」
そこにいたのは鮮やかな赤い着物を纏った妖艶な女性、いや、女性の姿をした怪異、清姫だった。
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