第2話 序章1の1 師弟

 四月の終わり。

 この間までの春の暖かな陽気から、僅かに汗ばむような暑さをはらみ始めた。

 窓から見下ろす神田川の岸辺の桜並木も、盛りはとうに過ぎ、次は葉桜が盛りを迎えつつある。

 春の終焉と、初夏の到来を予感させる今日この頃だった。


 麗らかな陽の光がさんさんと降り注ぐ川縁かわべりを、さまざまな人が行き交う。

 着物をまとった上品そうな御婦人、学生服姿の青年、豊かな髭を蓄え、いかにも威厳ありげな壮年の男性など、多くの者たちが散歩を楽しんでいた。

 或いは、川端での会議に花を咲かせる者も居れば、芝生の上に寝転がって日光浴に精を出す者も居た。

 今日という日が、平和で長閑のどかな一日となることを象徴しょうちょうする風景だった。

 

 そして、神田川の川沿いに敷かれた道路を挟んだ向かい側に、一軒の集合住宅が建っていた。

 文化アパートメントと名付けられたその住宅は、今日こんにちでも数少ない、珍しい鉄筋コンクリート造の建物だった。

 これは、大正の中頃に西洋人の設計士によって建築された、日本で初めての洋式の集合住宅だった。

 その外観も、西洋の建造物を意識した造りになっており、またその内部もベッドを始めとして、椅子、テーブル、バスルームといった具合に徹底して純洋風の設備が揃っていた。

 まさに、西洋の文化、モダニズムを体現する集合住宅だった。

 そんなモダンで洒落しゃれたアパートメントからは、目の前を流れる神田川と、その桜並木を一望いちぼうすることが出来た。


 文化アパートの二階のある一室。

 その一室のガラス窓から、川岸の穏やかな光景を眺める少年がいた。

 ぼんやりと、川のほとりを行き交う人の流れを目で追う。


    ※


『今年の一月の下旬から倫敦ロンドンで開催されていた日米英間の軍縮条約会議が、遂に今月の22日に終結を迎えました。

 軍縮による経費削減、ひいては減税が叶うとなり、多くの国民は、かねてからこの条約締結を支持しており、今回それが実現する次第に運びました。

 条約の調印ちょういんは、日米間の妥協案に沿った形で成され、今後は国内の批准ひじゅんに向けて浜口首相率いる民政党みんせいとうは、帝国議会での審議を進めていくこととなるでしょう。』


 付けっぱなしのラジオから、そんな報道者の言葉が流れてくる。

 ここ数日は、倫敦会議に関する話題が、ひっきりなしに放送されていた。


「いい加減、他のニュースが聞きたいなあ。」


 少年は、溜め息をつきながら、ラジオのダイヤルを回す。

 歌謡曲。

 大学野球の中継。

 それ以外はどこの局の報道も皆似たり寄ったりだった。


「まあ、そうだよね。」


 そう言って、苦笑を浮かべる。

 少年は、この条約の調印による今後の国政の動向、外交における信頼関係の構築において重要な意味を成すことを、知らない訳では無かった。

 しかし、それでも、


「他人事のように感じるのは、やっぱり関心が向いていなからかなあ。」


 平時へいじにおいては、国防を司る軍に対する意識というのは、どうしても誰もが薄くなってしまう。それも当然で、軍隊が動くような事態にならないに、越したことは無いのだから。

 故に大多数の者の、この条約の成立により負担が幾分か軽減されるだろう、といった程度の認識だったことも、ある意味では仕方のないことだった。


「まあ仕方ない。さっきのニュースでいいか。」


 少年はダイヤルを元の位置に戻す。

 先ほどと同じ男性の声が流れてくる。


『しかし今回の条約の調印に、野党の政友会せいゆうかいからは厳しい批判が巻き起こり、審議は難航するものと見て間違いないでしょう。』


 ラジオから流れる声を聞き流しつつ、少年は再びぼんやりと窓の外の向こう側を眺めた。

 そんな少年の横顔には、どこか暗く、淀んだ影が雲が懸かっていた。


    ※


「外回りへ行ってくる。

 おそらくは夕方頃の帰還になるだろうから、その間の留守番を宜しく頼む。」


「わかりました先生、お気をつけて。」


 少年は、そう言ってこの部屋のあるじを見送ったのが、およそ数時間前だった。

 書類の山の整理が一段落した後に、少年は休憩がてら窓の外の景色を眺め、そして今に至る。

 少年に、”先生”と呼ばれた者こそが、文化アパートの一室を間借りしている者であり、同時に彼は、ここを己の仕事場にしていた。


 少年は、数年前より御茶ノ水の元町に建てられたこのアパートに、住居兼仕事場を構える先生の下で共に暮らしていた。

 その呼び方から判るよう、二人に血縁関係は無い。

 少年の本当の親は、幼い頃に亡くなってしまった。

 他に身を寄せることの出来る親戚がおらず、天涯孤独の身になった少年は、孤児院へと送られることになった。

 だがそこで、生前に少年の両親と知り合いだった彼が、少年を引き取り、共に暮らすことになった。

 彼には妻がいたが、彼女も少年を引き取ることに快く賛同し、その後も少年の事を、まるで自身の本当の子供であるかのように可愛がった。

 少年は、そんな心優しい2人を心から感謝していた。心から好いていた。

 本当の母親であるかのように、本当の父親であるかのように、少年は接した。

  やがて少年は、先生の仕事を手伝っていくようになった。

 持って生まれた才能か、2人の教育のお陰か、およそまだ子供とは思えないほどに聡明で、時には、先生すらも思い至らぬ閃きと機転を以って、彼に貢献することがあった。

 故に少年の師からの信頼は厚く、また少年自身も助手として、師を大いに尊敬していた。

 しかしそんな幸せな生活も、唐突に終わりを迎えることとなった。


 グッと椅子に深く座り込み、フゥーっと天井を仰いで息を吹いた。幸か不幸か、先生が外出して以降に訪れた者はいなかった。

 腰掛けたまま、部屋の奥にあったガラス扉付きの書棚へ目を向けた。

 その扉の奥の棚に、小さな写真立てがあった。

 その中に納められたモノクローム写真。そこに写っているのは、優しげに微笑む先生の妻の写真だった。

 それを見る度に、少年の中に込み上げて来るものが有った

 写真の中へ切り取られた、永遠に色褪せることの無い笑顔。

 そして、二人から切り離された、永遠に見ることの出来ない笑顔。


 先生の妻であり、少年の母親も同然だったその女性は、既にこの世にはいなかった。


 一年前に、少年とその師の、とある仕事の最中さなかに彼女は独り、この部屋の中で亡くなっていた。

 病死だった。

 長年小康状態だった持病が、急速に悪化してしまったらしい。

 余りにもあっけない最期を迎えた。

 少年と先生が、仕事を終えてこのアパートに帰って来た時に、ベッドの中で眠るように横たわる彼女の骸を二人は見つけ、そしてすぐさま事の次第を悟った。


 あの日以来、先生は時おり彼の部屋に籠り、一人で思いつめるなっていった。

 少年もまた、同じだった。

 あの日の後悔を、今でも無意識下で引きずるようになっていた。。

 以降、彼らの関係にも陰りが生じた。当然、その陰りが表立って現れることはなかった。

 仕事の際も、今までと何ら変わること無く、互いに協力し合ってこなしていった。

 しかしそれ以外の、彼らの日常中では、互いに交わす言葉は少しずつ、その数を減らしていく。

 以降、彼らの歯車は次第に狂いが生じ始め、それは日を追うごとにそのズレが大きくなってしまう。二人の歯車は、歪に噛み合ったまま修復がなされること無く、遂に今日に至るまでになってしまった。


    ※


 ふと気が付き、視線を窓に向けると空は茜に染まっており、差し込む西日が書斎の中を赤く染め上げた。

 もう夕方になっていたのか、と少年は自嘲気味に苦笑する。

 ここ最近は、特に物思いに耽ることが多くなってしまい、そのせいか、反応がやたらと鈍くなってしまったように、少年は感じた。

 流石にこのままではいけない、と己を叱咤しったし、気持ちを切り替えるべく椅子から立ち上がった。

 書斎を簡単に片付け、その後に夕食の支度を始めた。

 彼女がいた時は、毎日のように彼女の料理を手伝っており、腕にはそれなりの覚えがあると少年は自負している。

 そして彼女がいなくなって以降、食事の準備も彼の仕事の1つとなっていた。

 少年の師は、あらゆることを非常に高い水準でこなすことの出来る万能の人物であったが、唯一、料理の才能だけは持ち合わせていなかった。


 少年が夕食の支度の途中で、先生は帰宅した。その手には1つの紙袋が握られていた。

 その後、しばらく経ったのちに夕食の時間となった。

 二人で囲むには少しばかり広いテーブルに、少年は先生と自身の料理が乗った皿を並べていく。

 そして支度が整うと、二人は向かい合うように椅子に座り、夕食にありついた。


「いつもいつも申し訳ないね。僕が料理の腕がからっきしなばかりに、毎日君に料理を任せてしまうことになってしまって。」


 苦笑しながら、随分と申し訳なさそうな顔を浮かべた


「そんな畏まらないでください。ボクに出来ることなんて、こうして食事を作ることぐらいなのですから。それに、先生がこうして喜んでくれることが、ボクにとって一番ですから。」


「そう言ってくれると、僕も幾分か気が楽になるよ。」


 そう言ってまた一口、彼は少年が作った夕食を口に運ぶ。


「それにしても、大分料理の腕が上達してきたようだね。あいつもきっと喜んでくれてるだろうさ。」


「ありがとうございます。文代さんには、返し切れないほどお世話になりましたから、そう言って戴けるならば、ボクも光栄です。」


 その後も、二人は他愛も無い話に花を咲かせた。珍しく今日は随分と話が弾んでいる、と少年は感じた。

 そのせいか、少年はつい気になっていたこと尋ねた。


「本日は、どちらまで行かれたのですか。」


「神田にある僕の古馴染の古書店へ行ってきた。」


 と、そこで先に彼が手から下げていた紙袋を思い出す。


「なるほど、それであの紙袋ですか。」


「ああ、以前から目を付けていた書物があってね。これまでは買うか否か、ずっと迷っていたんだけど、今日やっと買う決心が付いたのさ。」


「どのような本ですか。なんだか随分と重そうな感じでしたけど・・・。」


「かなり古く、そして非常に貴重な古書だよ。

 今まではその真贋を見極めようとしていたこともあり、中々買わなかったんだが、それが今日ようやく結論が出せた。あれは間違いなく本物だ、とね。

 しかも運の良いことに、主人はそれの価値を把握していないようだったから、適当に交渉してかなり安く手に入れられたって訳さ。」


「それは良い買い物をしましたね。

 でもほどほどにしてあげてくださいね。じゃないと、お店の主人が泣いちゃいますよ。」


 この日は結局、夕食の終わりまで少年は団欒を楽むことが出来た。

 ここ数カ月で、一番多く言葉を交わすことが出来た時間だった。

 少年の心にはいつ以来か定かではないぐらい、幸福な気持ちに溢れていた。

 まるでかつての、まだ彼女がいた頃のような、暖かい感情に満たされていた。

 だから、少年は思った。

 またいつの日、それはそう遠くはない日に、あの頃の時のような関係にきっと戻れるだろう、という期待が、少年の心の中に確かに生まれた瞬間だった。


    ※


 テーブルを片付け、洗い物を済まし、そして風呂へと入る。

 そうして寝支度を整えた少年は、就寝までの間、自室の机に向かい本を読んでいた。

 数時間が経ち、時計がもうすぐ今日の終わりを告げようとする頃。

 突如、部屋の外から、コンコンッ、とドアを叩く音が聞こえた。

 そのすぐ後に、


「小林くん、まだ起きてるかい?」


 と、先生の声が続いた。

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