Bパート 後

 そこは海。


 天気は快晴、日差しはとても強い。


 海面は波の揺れで光をランダムに反射させている。


 風に乗って潮の匂いが広がっている。


 海岸に沿って白いガードレールと車道が伸びている。


 アスファルトの上に陽炎が見える。


 そのずっと先の丘に風車が風を受けて回っている。


 車は一台も通らず、打ち寄せる波の音と風の音だけが聞こえる。


 薫は女性と手をつなぎ、堂々車道を歩いている。


 その女性は白いワンピースを着て、つばの広い帽子を被っている。


 じっとりと汗ばむくらい暑いはずなのに、つないだ手はとても心地いい。


 ――特に会話はない。それがなくても同じ方向へ一緒に歩いている。相手が好きな人なのかはわからない。歩いても歩いても黙って一緒に歩んでくれるそんな人だ。


 ――写真を見ているように、この光景は頭から離れなかった。忘れたくなかったあの夢を自分は今、見ている。自覚できている。


 ――今なら彼女の顔を確認できる。薫はそうっと彼女の足下から目線をあげていく。あのときの感覚が確かなら、その人物は……。


 ――。


 ――。


 彼女の首まで視界に映る。


 ――やはり思い出せない。思い出そうとすると頭の中が真っ白になる。


 ――ただ、こうやって歩いているだけで幸せなこの夢を忘れたくなかった。


 さらに視線を上げて、彼女の顔を見る。


 ――。


 ――紅子!


 子供の紅子ではない。薫と同じくらいに成長した紅子と手をつないで歩いていた。紅子を見ていると目が合った。少し驚き気味の薫に紅子は笑顔を見せた。



 パッと薫は目を開いた。白く高い天井が見える。


「夢?」


 片方の手に温かい感触があった。薫は手元を見ると、隣で眠る紅子と手をつないでいた。


 そうか、夢録の……。


 まさかこの子に手をつながれていたとは……。


 だから、夢でもあの女性と手をつないでいたのか。


 いや、元々の夢でも手をつないでいた。それははっきり覚えている。


 まさかその相手がこの子……。


 薫は少し混乱していたが、ポケットから携帯電話を取り出して今の時間を確認した。朝の六時半を過ぎた頃だった。確かに夢を見ていたんだと薫は理解できた。


「おはようございます、はなざきサン。先にお目覚めになられていたのですね。素敵な夢を見られてましたね。しっかり夢録できましたので、ご家庭で見られるテープに移してお送りいたしますね」


 紅子は起き上がる。彼女の背中には、眠る前に一瞬見たあの羽が生えていた。そして、紅子のおでこからビデオテープが光を放ちながら出てきた。


「え! 夢録って君の頭の中でしていたの?」


 薫は驚き、思わず聞いた。


「はい。これが私の夢録の方法なんです。これにて夢録終了です」


 でき上がったばかりのビデオテープを握り締めて、ニコッと笑顔を見せた紅子。


「あ、ありがとう」


 もうここに用はない。ここを出て学校に向かえばいい。何も考えず日常に戻ればいいだけのこと。


 でも、心の中で引っかかる。


 夢の中の女性がなぜ紅子だったのか。単に夢なのだから気にすることはない。だけど、こう気になっては自分の心が釈然としない。


「志染さんは人の夢の中に入ってこれたりしますか? 俺の夢の中に入りましたよね?」


 唐突に薫は幻想的な質問を投げかけた。


「えっ、あ……んー」


 紅子は、意表をつかれた質問にしどろもどろする。この質問の返答マニュアルは用意されてなかったのかと薫は思った。


「その反応からして、俺の夢に入ったみたいだね」


「ご、ごめんなさい。勝手にお客様の夢に入ってはいけないのに。ごめんなさい……」


 紅子は何度も頭を下げる。


「いや、別に怒ってる訳じゃないからいいんだけど。でも、どうして? いつもそうなの?」


 薫は優しく聞いた。


「いつもじゃないです。はなざきサンの夢にすごくきれいな海が見えたから」


「海?」


「本当の海を見たことなくて、もっと近くで見たいと思ってはなざきサンの夢の中に勝手に入ってしまいました。本当にごめんなさい」


 夢の中に入るには、夢に登場している人の誰かになる必要があるとも説明した紅子。その彼女の目に涙が溜まっている。


 なんだろう。ふつふつと沸き上がってくる赤く熱を帯びたこの感覚は……。


 薫の心に今まで感じたことのないものが生まれた。自分で心臓を握っているようだ。薫はそれが何なのか考えてもわからない。


「もっと小さい時にお父さんやお母さんと一緒に海に行ったりしなかったの?」


 紅子は薫の質問に、首を横に振った。


「お父さんとお母さんはいつも夢録の研究をしてるからどこにも連れて行ってもらったことはない。ずっとここで私の好きな夢を何度も見たり、たまに人の夢を見たりしていたの」


「じゃぁ、志染さんは自由に夢を見れたりするってこと?」


「はい。一度夢録したテープを見るの。はなざきサンの夢もここに入れれば、見ることができるんです」


 紅子は、自分の額を指差した。


「ってことは、ここにあるテープも」


 薫は他に並ぶ数々の夢録されたテープを見上げた。他人の夢がどんなものなのか気になる。けれど……。


「ダメだよ。こんな所にずっといちゃ」


 薫は強く言った。


「えっ!」


 紅子はビクッとする。


「幼稚園や小学校も行ったことないんだろ?」


 薫は口早に言うと、紅子は目を見開いて頷いた。


「じゃぁ、なおさらだ。こんなところ出よう」


「でも私は出れません。ここで夢録をしないと」


「夢録をしてもらいに来た俺が言う資格はないけど、今、君は夢録を……人の夢を見ている場合じゃない。君の夢は他人が見る夢の中にはない。もちろん、俺の夢の中にも。自分の中にあるんだよ。自分の目で見て、手で触らないとわからない。本当の海が見たいなら、今から俺が連れて行ってあげる!」


 薫は手を差し出した。


「本当の海……」


 紅子の目が変わった。好奇心を抱き、輝いている。


「そうだよ。本当だったら、小学校に通って、友達に囲まれて、勉強して、遊んでなきゃダメなんだよ。外で走り回ったりしてさ。運動会もあるぞ」


「うんどうかいって?」


「みんなで走って誰が一番速いか勝負するんだよ。玉入れとかもあるな。お昼ご飯はお父さんとお母さんと一緒にお弁当を食べるんだ」


「お父さんとお母さん……」


「そう! 志染さんにもいるでしょ」


「いるけど、ぜんぜん会ってない」


「会ってないって……。おうちに帰ってこないの?」


 紅子は左右に首を振った。そして、


「研究が忙しいって、お手伝いさんが言ってます。それに私が夢録をしてお金を稼がないといけないから……」


「何で十才の子がそんなことするんだよ」


 薫は紅子を怒鳴った。紅子は怯え、静かに涙を流した。


「君は悪くない。君は悪くない」


 薫は紅子を抱き寄せ、そのまま紅子をかかえて立ち上がった。ここまで来て、引き下がってたまるか。どんな問題が起ころうと俺が責任を取る。


「たかが高校生の男子に何ができるかわからないけど……。本当の海を見に行こうよ!」


「……」


 紅子は困った顔をしている。どこの馬の骨ともわからない男にここを出ようと誘われているのだから。それでも……。


「自分の目で見て、手で触ってみなよ。俺の夢なんかで見るよりよっぽど凄いから!」


「……うん」


 紅子は小さく頷いた。はっきりと紅子の返事を聞くと、薫は紅子を抱きかかえたまま自分のスクールバッグを持って出口へ走り出した。スリッパを放り、靴に履き替える。紅子の内履きはそのままで薫はドアを開けて廊下に出た。


 突然、サイレンが鳴り響いた。


「なんだ? 何の警報だ?」


 ギンギンと耳が割れそうな音だ。


「たぶん、私のこれだと思う」


 紅子が袖をまくって腕を見せると、ブレスレットのような金属がはめられていた。


「発信器? 盗難防止用のセキュリティか。どこまでこの子を……」


 このブレスレットがドアを通ると警報が鳴る仕組みだった。それは紅子の誘拐防止のためだ。薫は紅子をかかえ直し、走り出した。


「ここから出られれば何とかなる。あとで、そいつもはずそう!」


 昨夜、通って来た廊下を戻って行く。相変わらずサイレンが鳴っているが、誰かが薫たちのところへやってくることはなかった。隣の部屋にいるというお手伝いさんですら、姿を現さなかった。このサイレンは単なる脅しで、実際には機能していないようだ。


 紅子のためのセキュリティでも、何でもないじゃないか。どこまでこの子を適当に扱うつもりなのか……。


 紅子は落ちないように薫にしっかりつかまっている。背中のオレンジ色をした蝶の羽が風を受けて揺れている。


「お、お兄さん。風が気持ちいい!」


 紅子は照れて言った。普段、部屋の外にもろくに出ない正直な気持ちなんだろうと薫は思った。


 それに「お兄さん」か。


 妹にするってのも悪くない。ほんの短い時間かもしれないが、そうなるのもいい。


「そうか。でも、海の風はもっと気持ちいいぞ!」


 薫は朝の光が差し込むガラス扉を開けた。外に出ても薫は走ることをやめなかった。

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