Bパート 前

 両開きの大きなガラス扉の片方を押して建物の中に入る薫。一直線に伸びる白い廊下が待っていた。清掃がきっちり行き届いていてきれいだ。塵一つ落ちていないと思えるほど。


「時間通りに着けそうで良かった」


 薫は携帯電話で時刻を確かめた。あと十分で午後九時になる。


 辺りを見回すが誰一人いない。高校の制服姿でスクールバッグを肩にかけている薫。クリアファイルに挟んだ建物の案内地図を見て歩き出す。


 十メートル間隔くらいにドアがあり、研究所名があれば会社名もあった。名前のない所は空き部屋なのだろうかと思いながら、入口からだいぶ歩いた所で薫は止まった。ドアには、



 夢録館『世莉香』



 と、印字されていた。


 薫は案内状の書類をもう一度確かめると、夢録館ゆめろくかん世莉香せりか』の場所と一致していた。


 そして、自分の制服を見える範囲できちっと直した。面接に来た訳じゃないんだけどと思い、少し緊張した面持ちでドアをノックした。


 静かな廊下に鉄と骨のぶつかる音が響いた。中から何の反応もない。もう一度ノックする。


「はいー。どうぞ」


 やや間が空いて、ドア向こうから聞こえてきた。甲高い女性の声だ。


「失礼します」


 と、薫はドアノブをひねって中に入った。


「えっ!」


 中の様子を見て思わず驚いた。


 廊下とほとんど変わらない真っ白の壁に囲まれた空間が広がっていた。窓はなく、電気の光が壁に反射して夜とは思えないほど眩しい。


 奥から先の声の主が小走りで薫のもとへやって来た。


「ようこそ、夢録館『世莉香』へ。お待ちしておりました。えーっと、はなざきサマ!」


 一礼をして、確認用の書類を見て薫の名前を言ったのは、まだ小学生にしか見えない女の子だ。薄ピンク色のポンチョ風の羽織りを着て、幼い女の子の笑顔が相まって、薫には妖精のように映って見えた。しかし、それは一瞬のこと。


「予約してました花咲です……。君、一人?」


 すぐに不安になった。だだっ広い部屋の中には他に誰もいない。


「はい、私一人です。皆様、驚かれるのですがご安心下さい。まだ十才ですが、しっかり夢録ゆめろくいたします。ご心配いりません。送付いたしました書類をお受けいたします」


「あ、はい……」


 幼くもハキハキと話す女の子に、持っていた書類を手渡した薫。こういう対応には慣れているようだ。


「スリッパに履き替えて、奥へどうぞ。靴はここに置いておいて大丈夫です」


 薫は用意されていた一組のスリッパに履き替え、脱いだ靴をそろえた。ふと横に目をやると、女の子の小さな靴が壁際に置いてあった。それは小学生の女の子が履くようなものではなく、ただ白い学生上履きだった。


「こちらです。どうぞ!」


 とことこと前を歩く女の子に着いて行くと、ふかふかの絨毯の上に案内された。絨毯には小さな机が一つある。女の子はスリッパを脱いでその上を歩いて机についた。


「どうぞ、はなざきサマ」


 薫は少し変な気を起こしそうになっていた。夜の時間に、二人しかいない空間。一人は思春期真っただ中の男子高校生。もう一人は仕事をしているとはいえ、小学生の女の子。


 俺が何かしたい訳ではないが、今までに何かしら起こっていてもおかしくない状況な気がする。高校生だけが来る場所ではない。俺より年上のいい大人だって今までにたくさん来ているはずだ。


「いつも一人なの?」


 心配になって薫は聞いた。


「仕事の時は一人ですよ。隣の部屋にお手伝いさんがいるので、ちゃんと食事もとれています」


 女の子は、書類に目を通しながら丁寧に答えた。これも単なる台詞かと、薫は思った。


「それでは夢録いたしましょう。はなざきサンの夢録をさせていただく志染しじみ紅子もみこと申します。改めましてよろしくお願いいたします」


 紅子は丁寧に頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 慌てて薫も礼をする。


「夢録は何も怖くありません。ここで私と一緒に手をつないで朝まで寝ていれば終わります。夢録したい夢がここで見ることができるのか、心配になる方も多くいらっしゃいますがご心配いりません。はなざきサンは見たい夢を頭の中で思い続けていて下さい。眠るまでに私が夢軌道に乗せます。花咲さんは、必ず夢録したい夢を見ることができます。そのために私がおります」


 紅子という夢録を行う女の子は、笑顔で説明する。


 薫は紅子の説明で説明上の理解はできたが、科学的根拠は一つもない中で、不安だらけではあった。しかし、紅子の背後にある大きな壁一面の棚には、ビデオテープがずらりと並んでいる。よく見ると日付と人名がラベリングされている。


「気づかれましたか。ここにあるテープは全部私が夢録したマスターテープです。千本、千人分ほどの夢録です」


「千人? そんなに……」


「一日に二、三人、夢録する時もあります」


「じゃ、単純に三年間ずっと夢録し続けているってこと?」


「そうですね。これがはなざきサンのマスターテープです。これに見たい夢を夢録しますよ」


 VHSよりひと回り小さいテープを紅子が見せた。後日、これをVHSテープに移して送られてくると書類に書いてあったなと薫は思い出した。


「まず、私が夢録蝶になります」


 紅子は立ち上がった。


「ゆめろくちょう?」


「はなざきサンの夢を記録できる体になるという意味に近いです。私が夢録蝶になったら、眠気が襲ってきますが、決して抗わず見たい夢を思い描いて下さい」


「えっ! あぁ……」


「行きます!」


 紅子は両手を胸の前で合わせた。すると紅子に光が集まり出す。と、薫は急にまぶたが重くなった。紅子に集まる光が魔法のように薫の眠気を誘い出している。頭の奥からやってくる眠気に抗うつもりもないが、もう少しの間紅子を見ておきたいと薫は思った。


 まぶたが後一秒で閉じる。


 と、その時、紅子に集まっていた光が体内で増幅されたかのようにいっきに解き放たれた。同時に紅子の背中に小さなオレンジ色の羽が生えた。まるで口の開いた貝が二つあるように見えた。


 薫は一瞬、本当に妖精になった紅子を認識して目を閉じた。


 ――夢録したい夢を思い浮かべないと。

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