ちゃぷたーつう パン泥棒

[ パン泥棒 ]


 1940年。世界は混沌としていた――。


 ターラント。

 イタリア半島の南、ブーツの形の言えばちょうどヒールの付け根あたりにその街はあった。

 イオニア海・ターラント湾を眺望する軍港であり、地中海におけるイタリア海軍の一大拠点である。南イタリアではナポリ、バーリに次ぐ都市として栄え、先ごろ調印された日独伊の三国同盟の影響もあり今まさに煮えたぎる鍋のようになっていた。


 ティッピオはターラント県にある小さな港町だ。

 海岸沿いに長く続く石畳には、兵隊相手の露店が所狭しと並んでいた。

 賑わう街並みと人いきれ。地元イタリア人に混じって、ドイツ人、日本人の姿も今ではそう珍しいものではない。


「こらぁ! この悪ガキ! 待ちやがれ!」


 罵声に追い立てられ人混みをかき分ける小さな影がひとつ。

 胸に焼き立てのパンを抱きしめて力の限り駆けてゆく。その後ろを少し離れて追いかける太めの男はすでに息が上がっていた。


「だ、誰かその小僧を捕まえてくれ! パン泥棒だ!」


 男の訴えを耳にして、彼を捕まえようと歩行者たちが立ちふさがった。しかし少年は見事な体捌きで人の波をすり抜けていく。まるでサッカーの名プレイヤーのような身のこなしに、いつしか陽気なイタリアンから喝采を送られていた。


 気を良くした少年は、振り向きざまに舌を出した。

 太めの男は怒り心頭である。


 だがファンタジスタを気取っていた少年の勢いもここまでだった。

 彼は不意に自分の身体が宙に浮いたような感覚を味わうと、さっきまで風の如く疾走を続けていた両脚が空転しているのに気が付いた。

 なぜなら本当に宙に浮いていたのである。首根っこを誰かに捕まえられて――。


「クソ! 放せ! はーなーせ!」


 少年は宙ぶらりんとなった脚をバタつかせて何とか戒めを解こうとしたが、いっかな願いは叶わなかった。ばかりか太めの男が追いついて、息を切らしながら自分を捕まえている何者かに礼を言っている。


「た、助かったよ。その小僧にパンを盗まれるのはこれで三度目だ。もう許さねえ!」


 太めの男がまるでハムのようにまん丸な腕を振り上げたときだった。


「いくらぜよ?」

「は?」

「じゃからこのパンはいくらぜよ、と聞いとるんじゃ」


 少年を持ち上げていた何者かは、太めの男にパンの代金を渡すと、そのまま何事も無かったかのようにその場を立ち去ろうとした。

 無論、納得のいかないのは少年のほうである。

 抱きかかえたパンを地面へと叩きつけ、遠ざかる広い背中に鋭い眼光を送った。


「おい! 何の真似だ! ニホンジンの施しは受けないぜ!」


 日本人と呼ばれた男は立ち止まり、ゆっくりと少年のほうへ振り向いた。

 年の頃なら五十過ぎ。屈強な体躯に純白の軍服をまとっている。詰め襟には日本海軍のバッジがあしらわれ、ピンと伸びた背筋に気品を感じさせた。

 ここ最近よく町で見かけるようになった外国人だ――。少年は幼心に憐れみを受けたという悔しさと、異国の文化への興味で揺れている。

 キラキラと光る彼の目をもっとも釘付けにしたのは、男が腰に帯びた一本の軍刀であった。


「ボウズ。食いもんを粗末にしちゃいけん。目が潰れるぜよ」


 男は少年が投げ捨てたパンを拾い上げ、汚れを払い落とす。暑苦しい笑顔をたたえると、あらためてパンを少年へと寄越した。


「おまん、名前は」

「……」

「名前くらい教えてくれてもバチは当たらんじゃろう」

「……ねえよ」

「ん?」

「ねえよ。名前なんて」


 少年の顔がみるみるうちに暗くなるのを察すると、男は彼の目線に体躯を屈ませ、くしゃりと頭を撫でてやった。


「じゃあ“名無しの権兵衛”じゃの」

「ごん……べえ……?」

「ほうじゃ。わしの名前は坂本さかもと 主水ノ介もんどのすけ。ツレにはモンドちゃんと呼ばれちう」

「モンドちゃん?」

「おう。これでおまんとわしは友達じゃ。このパンはわしひとりじゃ食いきれんきに。一緒に食べとうせ」


 この日から少年は一切の盗みをやめて、日本帝国の海軍将校・坂本の世話をすることになった。その駄賃として彼は、坂本から剣術の手ほどきを受ける。


「権兵衛よ。ぬしゃあ気配を断つのが上手すぎる。目の前におっても、まるでおらんようじゃ。これはたまるか、まっこと行く末の恐ろしいこっちゃ」


 その笑顔は生涯忘れないだろう。

 少年が見た坂本の最後の姿である。


「権兵衛よ。ちくと軍鶏でも買うてこいや」


 1940年11月。日に日に増してゆく寒さに、坂本が郷土料理の鶏鍋を食わせてやると、少年に買い出しをさせていたときだった。

 突如として襲来したイギリス空軍の雷撃機により、ターラント一帯は焦土と化した。

 のちにタラント空襲と呼ばれるこの作戦は、イタリア海軍に大損害を与えた。


 町から帝国海軍の宿舎へと戻った少年は、胸に抱いていた新鮮な鶏肉を地面へと落とした。

 むせ返るような灼熱と、あらゆるものが燃えていく臭いが彼の嗅覚を刺激する。

 それは命の残り香だ。そのなかには「彼」もいた。


「うあああああああああああああああ」


 消し炭となった彼の骸を抱いて、少年はありったけの声で泣いた。

 いまだ燻り続ける建屋が崩れ落ち、へたり込む少年の身体を掠めていく。それでも彼は動かなかった。揺れる炎のなかに、このまま身を投げてしまおうか――。

 そんなことを考えた、そのときだ。


 目覚めよ――。


 どこからか聞こえていた声に耳を澄ますと、あたりが急に暗くなった。

 世界から音が消え、ひとの焼ける嫌な臭いも消滅した。

 意識が遠くなる。

 つぎに彼が目覚めたとき、彼は水のなかに浸かっていた。

 眼前には視界のすべて覆うほどの巨大な樹がそびえ立ち、一瞬にしてそこが元いた場所ではないと彼に教えた。


 そして――。


「おい。立ち上がる勇気はあんのかい?」


 そう彼に語り掛けたのは巨大な樹のお化けであった。

 ひび割れた樹皮を身にまとった童話に出てくるモンスターの姿。だが不思議と怖くはなかった。どこか穏やかなその口調に、少年はただ身を任せる。

 やがて気付いた。自らの身体が、ひとのそれではないことに。

 細い腕には、彼の骸がないことに。


「あたしは美猫メイマオ。アンタは?」


 今年、名を問われたのはこれで二度目か――。

 少年はふと笑みをこぼした。あのときは名乗る名前すら持たなかったがいまは。


「権兵衛。“名無しの権兵衛”」


 少年は坂本の死と共に、一度自分の人生が終わったことを悟った。

 これからは彼からもらった「名無し」という名前だけが、唯一生きていた証となる。

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正しい世界樹の育て方 真野てん @heberex

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