第四章 エバー・アフター
Chapter.021 ロゴス
[ 4 ] エバー・アフター
タイ、ラオス、ミャンマーと三国家の境界にまたがり、かつて「黄金の三角地帯」とまで異名された世界最大の麻薬密造地帯がそこにはあった。
しかし二十一世紀に入ると各国の経済成長や取締強化がはかられ、その手の非合法な産業は近年緩やかな減少傾向にあるという。
とは言え農村部などの貧しい人々にとってケシ栽培は文字通りの生命線である。
いかに法令で縛ろうとも違反者は後を絶たなかった。
だがそこに目をつけたとある日本企業があり、百パーセント出資による工場建設をラオス政府に認めさせた。表向きは近年調査の進んでいるレアメタルの掘削・加工を主とした電子部品産業であり、中国のインドシナ進出を食い止める役割も果たしている。
企業の名はロックカンパニー株式会社。
その尋常ならざる地域貢献によって、他国に法の空白地帯を生み出したのである。
ラオス共和国・ランチャウ県――。
メコン川にもほど近い山岳地帯にその工場はあった。
背の高い金網フェンスが施設の外周をぐるりと囲み、武装した幾人もの兵士たちが哨戒任務にあたっている。もはや工場というよりも要塞と呼んだほうが違和感はなさそうだ。
「とても電子部品を作ってるようには見えないっすね」
ライフル用スコープを覗き込みながら七之助がつぶやいた。
もう片方の手にはこんがりと焼いたサイ・ウア(ラオス風ソーセージ)を持ち、小高い丘の上にある茂みへと伏せていた。
「どうやらここのようだね」
そう応えたのは、カオ・チー(ラオスの五平餅)を頬張る名無しである。
七之助が黒を基調とした最低限の戦闘服を着込んでいるのに対し、彼はいつもの真っ白コーデである。七之助が伏せている茂みの傍らにある樹を背に、はなから隠れる気がないようだ。
彼らふたりは『ミッドガルド』へと帰還したあと、すぐにラオスへと旅立った。
ロックカンパニーの社長である岩田 幸雄が彼の地へ出張していることは、すでに七之助の調査で分かっている。あとは複数あるどの工場に、岩田が赴いているのかが問題だった。
早朝からの捜査開始からすでに夜半。
シトシトと小雨の舞い落ちる雨季の中、カエルの鳴き声に導かれつつやって来たのがこの山岳地帯にある隠し工場だったという訳だ。
あまりにも自然体な名無しを横目に呆れながら、七之助は「それにしても」とぼやいた。
「まさか通常便のエコノミーで現地入りする羽目になるとは思いませんでしたよ」
サイ・ウアを食べ終わった彼は、分かりやすく嫌味を言うために腰を叩く。
すると名無しはカオ・チーの串を投げ捨ててこう切り返した。
「例の何とかいう映画を君らが観に行かなければ、もう少し早い便にビジネスクラスもあったんだけどねぇ」
「行きたくて行った訳じゃない! 大体、優先すべきところがおかしいでしょ!」
「しかし雨衣クンに逆らう訳にもいくまい。彼女を怒らせるとこの手の業務が止まるんだ」
「そういうことじゃなくて。なんで国際的な諜報機関が専用機のひとつも持ってないんすか!」
「君は『WTO』をサンダーバードか何かと勘違いしてないかい。ましてやスパイ後進国の日本支局にそんな経費が回ってくるとでも思っているのかね」
「せ、世知辛え……」
「まあ非政府組織なんてどこも似たようなものさ」
そぼ濡れたソフト帽を被り直して、『WTO』日本支局の局長は自嘲する。
かたや七之助は湿った大地に頭を埋めて、世の無常を噛み締めるのだった。
「それで。潜入方法は決まったかな?」
そう上司に切り出されて七之助は頭をもたげた。
胡乱だった瞳に活を入れ、改めてスコープを覗き込む。
歩哨はフェンスの内と外にほぼ等間隔で配置されておりスキがない。さらに出入り口付近ともなれば警備はより一層厳重となる。
よしんばフェンスを乗り越えたとしても、工場棟へと辿り着くまでに見つかってしまっては元も子もない。施設内には見張り台が建っており、侵入者を警戒するサーチライトが小雨舞い降る宵闇を真昼のように照らしていた。
「今回は僻地のため雨衣クンのサポートは受けられない。それから我々の任務はあくまでも兵器密造の現場を押さえることと岩田社長の身柄を拘束することだからね」
「『ニヴルヘイム』に負担を強いるような流血は避けろってことでしょ」
「いや。流血くらいは構わないよ。相手の戦意を削ぐには有効な手段だ。じゃんじゃんやりたまえ。その代わり死体はあまり増やさないことだね」
だねっのタイミングで可愛くウィンク。
セリフとのミスマッチに七之助も思わず「だねじゃねえよ」とツッコミを入れた。
「潜入か……現地スタッフのふりして入れてもらうのが一番楽なんすけど、自分この辺だとタガログ語しか話せないんすよね。多分フィリピン人いないだろうなぁ」
ラオスの人口分布のほとんどはラーオ語を公用語とするラーオ族である。
スコープ越しに見る歩哨たちの顔は暗がりの上にスカーフで覆われ窺い知れない。
何とか情報量が増えないだろうかとスコープの倍率を上げて、七之助はサーチライトに照らされる工場棟のほうへと焦点を向けた。
「ん? アイツはひょっとして――」
闇夜に煌々と浮かび上がる夜間稼働の工場区画。その敷地内を悠然と歩くひとりの男を七之助のスコープは捉えた。それは見覚えのある顔だった。
七之助はスコープから目を外すと、ニヤリと口の端を持ち上げた。
「なにか見つけたのかい?」
彼の表情の変化を読んだのか、名無しが声を掛ける。
すると七之助は肩の力を抜いて答えた。
「どうやらラオスの言葉を覚えなくても良さそうですよ」
「ほう――まあ放っておいても君はいずれ地球上すべての言語を覚えてしまうだろうから、こちらはあまり急いでないよ」
「ちょ、いくらなんでもそれは……ものには限度ってのが」
「人間には本来限界なんて無いよ。それに君が語学力に秀でているのには理由がある」
「理由?」
七之助は頭に大きなクエスチョンマークを載せて小首をかしげた。
「君は『アスガルド』で一体何語を話していたと思う?」
「え? や――日本語のつもりで話してましたけど……」
「だろうね。ちなみにぼくはイタリア語で君と話していたよ。長老にいたってはラテン訛りのギリシャ語さ。それなのにぼくらは普通に会話が出来ていた」
「ど、どういうことなんすか?」
すると名無しはまたいつものように「ふむ」と一言挟む。
「どうやら言葉というものは元々ひとつのようなんだな。それが『ミッドガルド』で処理されると多種多様なバージョンに枝分かれする。『アスガルド』で話してた言語が一体何なのかはさっぱり分からないが――もしかするとバベルの塔の神話もこの辺に由来しているのかもね」
「それって人間を一箇所に住まわせないよう神様が言葉をバラバラにしたっていう……」
七之助の問いに名無しは僅かばかりに首肯した。
「始まりの言葉……これをぼくらはロゴスと呼んでいるけど、君はロゴスを本能レベルで『ミッドガルド』に持ち込んでいるのかもしれない」
「ロゴスを持ち込む?」
「かつて同じ試みをして不完全に終わった例もあるしね」
七之助には何の話だかさっぱり分からなかった。
名無しはそれをイタズラっぽい表情でしばらく眺めていると、
「ヴォイニッチ手稿さ」
と口にした。
その瞬間、七之助の脳内にはあの解読不可能な文字とも記号ともつかない羅列が思い出された。ふたつの世界の間では物質のやり取りが出来ない。スケッチすら記憶を頼りに描かれたであろう、かの奇っ怪な古文書である。
「なるほど。あれはそういう代物だったのか……」
「すべては憶測さ。で――プランを聞こうか、ボンドちゃん」
名無しは背にしていた樹を離れ、工場を見下ろす小丘へと立った。
七之助も茂みからゴソゴソと這い出ると「いやあ」と頭を掻く。
「いかんせん丸腰なんでね。そこからまず何とかしないと」
「丸腰? ああそんなことを気にしていたのかい。武器はあるよ。いや――来る」
「はい?」
「言ったろボンドちゃん。大事なのは座標だってさ」
刹那。
雨滴を割いて天から降り注いだ何かが地面へと突き刺さった。
土泥の飛沫を舞わせ、名無しの傍らに数十センチと違わずに。
それは刀だ。
反りも見事な二尺三寸の業物である。
名無しは一振りの日本刀を腰に据えると、いつものアルカイックな微笑みをたたえた。
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