Chapter.019 WTO

 目を開けるとそこにはかつて見たこともない景色が広がっていた――。

 長老は七之助に向かってそう語った。

「否、見覚えはあったのだ……かの面妖な書物の中で何度もな」

「ヴォイニッチ手稿――」

 七之助がそうもらすと「当時はそう呼ばれておらなんだ」と長老は返した。

「我が『ウルズの泉』で目覚めたとき……すでに何人かの覚醒者がおった。彼らは皆、生まれた時代も場所も違っていたが、いずれも学者気質や一芸に秀でたものたちばかりでな。お互いが知己となるのにさほど時間は要さなかった……」

 およそ五百年前――。

 のちに長老と呼ばれる一本の苗が『アスガルド』の地に芽吹いた。彼は自らの脚で立ち上がると旺盛な探究心を発揮した。まだシミュレーテッド・リアリティなどという概念すら存在しない時代に、数名の覚醒者らと共に『アスガルド』そのものを解き明かそうとしたのである。

 元いた世界における博物学がまったく通用しないことから、彼らはまず「異世界」という考え方に答えを求めた。そして自分たちの姿形が著しく変化していることに、プラトンの説いたイデア論に確信めいた感慨を持つようになったのである。

「ふたつの世界への往来は……すでに既存の現象であった……」

 往来の二文字を耳をした七之助は、すぐに名無しのほうを振り向いた。

 すると彼の上司である『WTO』日本支局局長は「焦るな」とジェスチャーで応えた。

 長老の昔話はさらに続く。

「そして結論づけた……我々が限りなく不老不死に近い存在となったことを……」

 ふたつの世界への往来にはいくつかの段階があると長老は明かした。

 まずは『ミッドガルド』での意識の途絶をトリガーとした『アスガルド』での覚醒である。この現象は長らく個々人の「夢の中」だと思われていたが、ルネ・デカルトの出現や『ミッドガルド』における覚醒者たちの再会をもって完全に否定された。

 ときは十六世紀末。遠く離れた国家間では、手紙のやり取りすら困難な時代である。

 この頃から長老は私財を投じて覚醒者たちの支援団体である『ユグドラシルの会』を興す。

 その結果、いままで個々人の自己研鑽によってなされていた研究が飛躍的に発展した。

「アスガルド体は木の根である……『ニヴルヘイム』につながっている間は、ある程度『ミッドガルド』へ干渉出来ることが分かった。しかし禊を行い、根から完全に切り離された状態になると記憶の欠落や、身体の不自由を訴えるものがおった……我らがこの原因を知るにはコンピュータの登場を待たねばならなかった……」

「個人を処理する情報が、ひとつのアスガルド体に集中していなかったから――」

 七之助は先だって名無しとの会話の中で出てきたこと思い出した。

 長老はただ一言「そうだ」と短く返事をする。

 そしてまた己の過去へと思いを馳せた。

 覚醒者たちはふたつの世界では、ほぼおなじ時間が流れていることを研究で明らかにした。しかしどれだけ『アスガルド』に滞在したとしても『ミッドガルド』への帰還の際には、少なくとも見た目には老いが止まっていることに気が付いたのだ。

 これをして彼らは不老不死と結論付けたが、これでは普通に生活が出来ない。

 ひとによっては魔女狩りの餌食にすらなったのである。

 そうした意味でも長老の組織した『ユグドラシルの会』はその重要性を増していったのだ。

 だが――。

「あるときひとりの覚醒者が『ミッドガルド』で不慮の死をとげた。しかるのち彼のアスガルド体はすぐに腐敗を始め大地へと還った……これにより覚醒者とはいえ突発的な死は避けられんことが分かった。そしてさらに研究を進める中、戦争や疫病などで人間が大量死すると、こちらの世界では樹が朽ちることに気が付いたのだ……」

「樹が……朽ちる……」

「我はその原因を探るために自らが一本の樹になることを決めた……『ユグドラシルの会』を若き覚醒者たちに託し、本来有限である『ミッドガルド』での人生に見切りをつけたのだ。それから『アスガルド』の大地に座すこと幾星霜……我は一本の樹になっておった……」

 七之助が唖然としていると名無しは言った。

「何か聞きたいことがあったんじゃないの?」

 すると七之助は思い出したかのようにハッとなった。

 突然身を起こすと長老へと詰め寄る。

 その表情は夢とも、うつつともつかない。

「俺は結局……死んだんですか――」

「さにあらず。梵門 七之助よ」

「じゃあ一体……」

「『ミッドガルド』で顕現されるそなたのデータはすべて、そのアスガルド体に保存されておるのだ……そなたが彼の地へ帰還する意思があるのならば、なんら問題はない」

「あ、ああっ」

 拳を震わせて喜びに打ち震える七之助だったが、長老や名無しは冷ややかだった。

 長老は彼に問う――戻ってどうする、と。

「すでに彼の地はそなたにとって、ただの幻となったのではないか? 虚構と欺瞞が積み重なった実体の無いシミュレーションだ……それを知り、なお戻る必要性がどこにある」

 長老の問い掛けにニーナの笑顔が重なった。

 そして剣とゆみ、ダガーの姿が。

 家族、友人、恩師、これまで出会った人生のすべてが七之助の背中を押している。

 突き上げられるような衝動が、七之助の迷いを消していく。

「いま一度問おう。汝、立ち上がる勇気はあるか。そして――すべてを知りながら前に進む意思はあるか」


 ――はい。


「そうか……それでよい……進め……若き大樹よ……」

 長老はその言葉を最後に沈黙した。

 放心している七之助に向かって名無しが声を掛ける「大丈夫かい、ボンドちゃん」と。そして長老の昔話を補足するかのように語り始める。

「『ユグドラシルの会』ってのは『WTO』の前身組織さ。ある理由があって覚醒者の支援団体から国際的な諜報機関になったんだよ。『WTO』の正式名称覚えてる?」

「ワールド・トレース・オーガニゼーションでしょ?」

「表向きはね。でも本当の名前はワールドツリー・オーダー。『世界樹』の騎士団ってことさ」

 七之助がオウム返しにその名を呼ぶと、名無しはあの朽ちた巨木を指差した。

「見たまえ。あの樹が倒れたとき。『ミッドガルド』で何があったと思う?」

「いや――分かんないっす。なんすか?」

「第二次世界大戦」

「な――」

「以前から大きな戦争や疫病が流行ると『ニヴルヘイム』のネットワークが急速に途絶えていくことは長老の調査で分かっていた。だがここまで大規模にそして一瞬に『ミッドガルド』での人口減少が『アスガルド』に影響したことは無かった。そこでぼくらは真剣にならざるを得なくなった。このままでは『世界樹』が倒れ、ふたつの世界そのものが無くなると」

「世界が無くなる……」

「そう。だからぼくらは『WTO』を組織して『ニヴルヘイム』に負荷の掛かる現象を未然に食い止めているんだ。これは博愛精神や正義感なんて甘っちょろい幻想に基づくものではない。あくまでも現実的な処置としてやらざるを得ないのさ」

「なぜ……公表しないんですか?」

「信じると思う? この世が実は『世界樹』の根の中にある仮想現実で、あなた方はそのネットワークの一部です。大量に死なれると『世界樹』が枯れちゃうんで戦争やめてくださいってさ」

「かなりイカれてますねそれ」

「でしょ? かと言って全人類が『アスガルド』で目覚めることはあり得ない。そうなるともうぼくらが何とかするしか無いじゃない?」

「無いじゃないって言われても」

「だからボンドちゃんにも手伝ってもらいたいんだ。この世界の真実を知ってしまった人間として『世界樹』を守るために」

「『世界樹』のために――」

 そう言って振り向いた先には、天を埋め尽くす勢いの巨大樹が屹立していた。

 宇宙樹、セフィロトの樹、バベルの塔、天御柱。

 世界にはモチーフを同一とするだろう神話が多数存在する。七之助はいま『世界樹』を見上げ悠久の時代へと思いを馳せた。

 おそらく彼らもまたこの世界での目覚めを経験したのだろう。まだ仮想現実などという言葉も存在しない時代に、もてるすべての知恵を総動員して後世に伝えようとしたのではないかと。

 仮想世界では何十億年と掛けて進化した文明がある。しかし『アスガルド』は不変だ。

 まだ生物も鉱物もその形をなす前に巨大なネットワークだけが偶然生まれた。

 そしてデータ上に発生した『命』は現実世界へと突然現れたのだ――。

 七之助の自らの手のひらを見つめ感じていた。


 これもまた『命』のあり方のひとつなのだろうと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます