Chapter.018 とある老木の話

 七之助と名無しのふたりは、なだらかな丘陵を一気に駆け下りていった。

 派手に赤土が舞い上がる。

 大地から突き出た荒れ狂う木の根は、まるで日本神話のヤマタノオロチのようだ。その一本を飛び越えた七之助の勇姿は、まさにスサノオが如くである。

 名無しはすでに『ウルズの泉』へと到着していた。

 泉には数人のアスガルド体が浸かっており、皆険しい顔で何かを論じ合っている。彼らは名無しの姿に気付くと、手を振るなどしてフランクに挨拶を交わした。

 七之助もまたそれにならい「どうもぉ」などと頭を下げると、そそくさと『ウルズの泉』の横を通り抜けて行った。

「いずれきちんと紹介する機会を作るよ」

 名無しは七之助にそう言った。

「なんたって君はここじゃ有名人だからね」

「有名人?」

 七之助が眉根を寄せて訝ると、名無しはいつもの笑みを浮かべてこう続けた。

「ぼくらは君の覚醒を二十年も待った。本当ならとっくの昔に目覚めてたはずなのに、明けても暮れても君は『アスガルド』にやって来ない。それで付いたあだ名が何だと思う?」

「眠れる森のイケメンすか」

「寝坊助“セッテ”」

「ひでえ!」

「仕方が無いだろう。いつまでも起きてこなかった君が悪い。それに寝坊は前科もある」

「うぅ……」

 そんなやり取りがありつつ、ふたりは朽ちた巨木の前に出た。その幹の太さたるや、ゆうに百人のおとなが手をつなぎまわりを一周出来るかどうかというほどである。

 しかし幹は大きく裂けて樹皮はぼろぼろに剥がれ落ちていた。枯れ果てた枝葉と倒れた樹身。腐敗した根は赤土をえぐり、大部分が地上へと露出している。

 その威容は七之助に、紛争地帯で倒壊した高層ビルを思わせた――。

「ここだよ。ボンドちゃん」

 名無しは出し抜けにそう言うと足を止めた。

 朽ちた巨木にもほど近い、陽のあたる少し開けた場所である。

 そこには一本の立派な樹が立っており、美しい枝葉を風に揺らせていた。七之助はその光景を見上げて、かつて自身がゆみの靴を取り返すために登った樹を重ね合わせていた。

「ここだよって言われても――」

 どれだけ目を凝らしてみても七之助にはただ樹が生えているだけにしか見えない。だが名無しはその樹に向かって恭しく頭を垂れると「連れて参りました」と静かに告げた。

 次の瞬間、樹はその幹を震わせた。

 枝葉は激しく揺れて、樹皮は剥がれ落ちる。

 そして幹の半ばほどから、老練な雰囲気を漂わせた人間の顔が現れた。

「会わせたいひとがいると言っただろ――長老だよ、ボンドちゃん」

「長……老……」

 七之助が呻くようにしてそうつぶやくと、樹の幹は樹皮をぼろぼろとこぼしながら、口らしき部位を動かした。

「目覚めたか……新たなる『世界樹』の子よ……」

「あんたは一体――」

 腰を抜かしている七之助に向かって長老は語り続ける。

 その一言一句はまるでため息をつくかのようだった。

「我はすべての覚醒者の父にして『世界樹』の忠実なるしもべ……はるかな昔に肉体のくびきから解放された一本の樹である……」

「は、はぁ……」

「分かりやすく言うとね」

 七之助が長老の真意を測りかねていると、名無しはすぐに反応した。おそらくこれが最初では無いのだろう。あまりにもやり取りが手慣れている。七之助はこれがある種の通過儀礼のようなものだと解釈した。

「長老は現存する覚醒者の中でも一番の古株でね。すでに五百年は生きてらっしゃる」

「ご、ごひゃくねんっ?」

「そして『WTO』を組織なさった創始者でもある。まさにこの世の生き字引だ。知りたいことがあるなら何でも聞きたまえ」

「聞きたまえったってさぁ……」

 見上げる大樹の表情など七之助には分からない。知りたいことは無いかと聞かれたら、それは山のようにある。しかしいまの七之助には正直そんな余裕はない。

 彼があんぐりと口を開けていると、長老はまた静かに語り始める。


 ワンス・アポン・ア・タイム昔々、あるところに――と。


 すべての始まりは『夢の中』だった。

 長老はそう言った。

「そなたにも覚えがあろう……浅い眠りの中に見上げた『世界樹』の尊影を……」

 七之助は無意識に「ああ」とつぶやく。

 あれを見始めたのは一体いくつからだっただろう。ちょうど剣とゆみに出会った頃か。

 幼心に気付いていた空虚な日々。スクリーンとの境目も曖昧だった現実世界に、鮮やかな色彩を与えてくれたのはふたりだった。

 手放したくない毎日が増えるたびに、あの『夢』は遠のいた。

 しかし彼が「生きている実感」を得ることはついぞ無かったのである。

「我は古代ローマの傍流にくみする、とある小国の貴族であった。幼き頃より心に虚無を抱え、進むべき道も見えぬまま無為に時を過ごしておったのだ」

 長老が饒舌にそう語ると、名無しは七之助に「どこかで聞いた話だろ?」と茶々を入れる。

 たしかにその通りだった。

「我は満たされぬ心の内を埋めんがため、人生を賭して学問に励んだ。とくに錬金術には相当のめり込んだが、やはり『生きている実感』を得るには至らなんだ」

「――同じだ」

 長老の話にジッと耳を傾ける最中、七之助はそう口にしていた。長老は一言「ふむ」と相づちを打つと、さらに続けた。

「その内に我はこの空虚さを、富めるものが持つ贅沢な悩みだと言い聞かせるようになった。守るべき家族や領民もおったしな。すべてを忘れ、貴族としての本領をまっとうすることにした。だが――錬金術の研究中に偶然手に入れたとある書物を見て、我の人生は変わった」

「とある書物?」

「そなたはこの『アスガルド』によく似た光景を目にしたことは無いか? 見知らぬ植物と泉に戯れる裸婦たちの肖像。星の運行を思わせる幾何学の図形。そして解読不能な文字の数々」

「ま、まさか……」

「そのまさかだよボンドちゃん。ヴォイニッチ手稿さ」

 ヴォイニッチ手稿――その名を聞いた七之助の脳裏には『WTO』日本支局・資料室でのありふれた毎日が次々と思い出されていった。

 雨衣にどやしつけられながらも明け暮れたオカルト資料を読み漁った日々。

 つい昨日までのことなのに、まるで遠い日の記憶のようだ。

「かつてプラトンはかく語りき。我々が認識している実在は、みな虚像に過ぎないと」

「プラトゥーン? オリバー・ストーンの?」

「イデア論だよ。プラトンは古代ギリシャの学者さん。アリストテレスのお師匠さんだね」

「アリ……誰?」

 七之助の不学をよそに、長老はその重厚な語り口で言葉をさらに紡いでゆく。

 枝葉は風にそよいでいた。

「我はその言葉の真意に到達し、そして」


 目覚めた――。

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