Chapter.017 ウルズの泉

 湖畔に仁王立ちをするニーナの姿は、稚拙さゆえの魅力に溢れていた。

 彼女はその内に秘めた論拠に一ミリの疑いをも持っていない。

 七之助はしばし倒錯した世界へとのめり込み、彼女の神々しさに浴していた。

 すると森の木陰からパチパチという拍手の音が聞こえ「一本取られたね。ボンドちゃん」と、相変わらずの笑顔をたたえて名無しが彼らの前に現れた。

 どうやら登場する機会を窺っていたらしい。

「局長……」

「そういうことだよ。別にぼくらは誰かに操られていた訳でも、騙されていた訳でもない。ただそういう条件下のもとに生まれ、それが当たり前なだけだったのさ」

「……どうやらそうみたいっすね。まあ色々とまだ納得出来ないことはありますが――」

 七之助は一度言葉を切り、ニーナのほうへ親指を向けた。

「アレを見てたら何かもう悩んでるのがバカバカしくなってきまして」

「どういう意味かな?」

 小首を傾げたニーナの顔があまりにも平和的で、七之助は『アスガルド』に来てから初めての笑みをこぼした。その様子に名無しもまた安堵の表情を見せる。

 風が吹いた。

 七之助は心に溜まっていた澱を洗い流されたような気分だった。

 目の前にいる少女には、きっとそんな力があるのだろう、と。

 彼は誰に言うでもなくそう感じていた。

「でも局長。ひとつハッキリさせとかなくちゃいけないことがあるんすけど」

「なんだい?」

「俺は――死んだんすか?」

 名無しは「ふむ」と一言つぶやき腕組みをした。

 すでに七之助の中では『死』の概念が変わってきている。それは名無しも十分に承知しているだろう。その上であえて問う彼らの『死』とは一体なにか。

 七之助の死生観はいま、カミソリの上に立っているかのように危うかった。

「実のところ、ぼくはまだ君がどういう経緯でこっち側へ来たのかを知らないんだ。ただ雨衣クンから尋常ならざる連絡を貰ってね。もしかすると君が命を落としたかもしれないと――」

「雨衣ちゃんが……」

「一体君になにがあった? オカルトこじらせて病んだ訳でもあるまい?」

「じ、実はですね……」

 七之助はすべてを白状した。

 間違って届いた名無し宛の『WTO』本部からの指令書を無断で見たこと。そして独断によってロックカンパニーへの潜入を決行したこと。さらに指令外の行動を取り窮地に陥ったこと。

 極めつけに――。

「藤 峰子……その女、たしかにそう名乗ったのかい?」

「は、はい」

 名無しは緑色の顔を蒼白にして驚いた。秒ともつかない短い時間ではあったものの、言葉をなくした彼は天を仰いで瞳を閉じた。そして再び七之助へと視線を戻したとき、いつもの柔和な微笑みは影を潜めていた。

「間一髪だったようだね。その女は秘書なんかじゃない。おそらくロックカンパニーに雇われているヒットマンだろう」

「な――」

「あそこには以前から良くない噂があってね。近く内偵を進める予定だったんだけど――」

 名無しはジトとタレ目がちな視線を七之助に送った。

「す、すんません……」

「まあそれはそれとして。君は死の直前にぼくの呼びかけに応えた」

「――目覚めよ。汝、立ち上がる勇気はあるか」

「そう。その結果、君は『アスガルド』で覚醒した。禊も済ませたから今ごろ『ミッドガルド』では君の肉体は消失している。例の女ヒットマンもさぞや不思議がっていることだろう」

 名無しは「くくく」と意地悪な笑みをこぼしている。

「つまりその……死体が消えるってのは……」

「そのままの意味さ。『ニヴルヘイム』のネットワーク上から梵門 七之助というデータが丸ごと消えるんだ。その時点で他人からは見えなくなる。というよりも『ミッドガルド』という世界において君は情報処理されなくなるんだ」

「……てことはやっぱり死んだってことすか?」

「現時点はまだ『死』とは言わない。どちらかと言えばログアウトに近い」

「はあ?」

「それについては、いまから君に会って欲しいひとがいるんだ。話はそれからにしよう」

「ひとに会う?」

「そ。ニーナ、悪いけど彼を少し借りるよ」

 名無しはそう言うと七之助の肩を叩く。

 ふたりは「つまんない」とぶうたれるニーナに見送られながら湖畔をあとにした。

 七之助は名無しの背中を追いながら道なき道を進んだ。どこもかしこも見知らぬ植物ばかりだった。どれだけ先に進もうとも、やはり動物の気配は無い。ばかりか花をつける品種すら稀であるようだ。

 そんなことを考えていると、名無しのほうがそれを察したのか――。

「もう気付いているだろうけど『アスガルド』には植物以外の生物はいないようなんだ」

「やっぱり」

「ひょっとするとバクテリアくらいはいるかもしれないけど、いまのところ検証のしようが無いんだよね」

「石や岩もありませんね」

「うん。この植物の巨大さを考えればミネラルは存在しているはずなんだけど、結晶化した鉱物をぼくらは見たことがないんだ」

「……武器や道具すら作れない?」

「そう。幸いここには争いの元になるようなものがことごとく無いからね。この身体は食事の必要も無ければ性別すら無い。そもそも独占欲や嫉妬心の強い人間は、どうも覚醒しないらしい」

「覚醒か……」

 七之助は巨木の根が作り上げる見事な丘をよじ登りながら、頼りなげだった己のアスガルド体がようやく馴染んできたような感覚を得ていた。それと同時に先行する名無しの巨躯を眺めるとひとつの疑念にかられた。

「局長が覚醒したのっていつなんすか?」

「ぼく? うーんとそうだなぁ。たしか七十年くらい前かな?」

「な、ななじゅうねん?」

「そうだよ。ほら。ぼくの身体、君よりも随分とデカイだろ? アスガルド体は動く植物だからね。養分と光合成でいくらでも成長するんだよ」

「じゃ、じゃあさっきの巨人さんは……」

「ああ彼女? 一体いくつになるんだろうね。聞いたら怒られそうだけど」

「そう言えばさっきからいませんね。どこ行ったんすか?」

「彼女は『ミッドガルド』で仕事が残ってるんでね。戻ったよ」

「ちょ、待ってください! 戻れるんすか? や、彼女ってことはまさか……雨衣――」

 七之助は雨衣の顔をした緑の巨人を想像し戦慄した。

 すると名無しは爆笑しつつ、「違う違う」と手を振ってみせる。

「雨衣クンはこことは違う『ウルズの泉』にいるんだよ」

「また知らないワードが出てきましたね。それも北欧神話ですか」

「『ウルズの泉』――この世界のそこら中に湧いてる水辺のことだよ。我々からしてみれば羊水のようなものさ。君もそこから生まれたろ?」

「ああ……」

 七之助は自分が目覚めた小さな泉を思い出していた。そして目の前に広がる巨大な『世界樹』と、そのまわりを覆う森の樹木を。ついさっきの出来事なのにまるで遠い昔のようだ。

「『ウルズの泉』には『ニヴルヘイム』から根が伸びてくる。その根が成長したのがアスガルド体だ。だけどそこに人格が発生するのは極めて稀なことなんだ」

「どうしてですか?」

「『ミッドガルド』はネットワーク上に存在する仮想世界だ。通常、個人を情報処理する回路が物理的に集中している必要はない。ここまでは分かるかい?」

「データがとっ散らかっていても、同じパソコン上にあれば問題ないってことですかね?」

「その通り。でもそのデータがパソコンの外に出ようと思ったら、個人に関するデータは余すこと無く同一のメモリ内に入ってなくちゃならない。外部に操作する人間がいればファイルをドラッグすれば終わりだけど、『世界樹』はそんなサービスはしちゃくれないからね」

「また……偶然ですか」

「奇跡と言ってもらいたいものだね――」

 名無しは七之助にそう笑いかけると歩みを止めた。彼は小高い丘の頂上へと登ると、七之助が追いついてくるのを待った。そしてそこから見下ろすようにして、とある場所を指差した。

「見たまえ」

 名無しの指差した先には、朽ちた一本の巨大樹があった。

 あたりにはいくつかの『ウルズの泉』が湧いており、幾人かのアスガルド体が集っている。

「これは……」

 まるでいつか見たヴォイニッチ手稿の一ページのようだ。

 絶句する七之助に、名無しはこう語り掛ける。


 ここが事実上の『WTO』本部であると――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます